不空羂索毘盧遮那仏大灌頂光真言句義釈
ひそかに釈家の意を案ずるに、如来の密語に二の意趣あり。可釈の義と、不可釈の義となり。初めは機縁に応ずるが故に無量甚深の義理の中に、略して一分を出さしめ、人をして恵解を生ぜしむ。後にはこれ如来の密語なるがゆえに思議の境界に非ず、ただ仰信を生してこれを持念すべし。いま、初門について多含の一義を出だして、いささか持者の信心を勧む。願わくは佛恵の光明を挑けて無明の長夜を破せん。
時にこれ、貞応元年四月十九日持念沙門高弁集
真言にいわく
「おんあぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたやうん(梵字)」
釈していわく。「おん(梵字・・以下同じ)」とは、一切の真言の本母なり。「あ、う、ま、あ(梵字)」の四字合成にして、三身具足する義等はつねに説かれるが如し。
「あ、ぼ、きゃ(梵字)」「べいろしゃのう(梵字)」「まか(梵字)」「ぼだら(梵字)」とは不空毘盧遮那大印なり。これすなわち毘盧遮那如来の不空大印なり。即ち「まに、はんどま、じんばら(梵字)」とは、これまず「まに」とはこれ摩尼珠なり。すなわち一切如来の福徳聚門なり。即ち下の大智大悲所生の功徳なり。「はんどま」とはこれ蓮華なり。即ち一切如来の法身なり。これ大悲なり。「じんばら」とはこれ光明なり。すなわち一切如来の大智恵なり。上の三種はこれ不空大印の体なり。
また「あぼきゃ」「べいろしゃのう」とはこれ法界体性智、毘盧遮那如来なり。法界体性智をもって不空の徳となす。「まか」「ぼだら」とは大円鏡智なり。よく法界智をもって所依となして三十七尊(金剛界曼荼羅の成身会のうちに配された大日如来をはじめとする三七の仏・菩薩のこと)等の塵数の海会を印現するなり。つぎに「まに」とはこれ平等性智なり。摩尼珠の明浄無垢なるが如し。この智よく倶生の我法二執の差別の垢を浄めて平等性の理を証す。このゆえに宝生尊はこの智より生す。次に「はんどま」とはこれ蓮華なり。妙観察智なり。この智深く諸法の自相共相を観察して諸の疑網を断じて、心花を開敷するなり。このゆえに五部のなかにこの智をもって蓮華部に寄するなり。次に「じんばら」といっぱ、これ光明なり。成所作智なり。大智円満して無量の神通を現す。まえの四智はこれ「体」。神通はこれ「用」なり。用をもって光明に喩えるなり。あるいは神通のなかに光明はこれその一なるがゆえにまず、これを挙げて一切の神通を接するなり。次に、「はらばりたや」とは易きなり、転ずるなり。いわく前の諸功徳この真言の功力によれば成就しやすきなり。また上の功徳を転じてすなわちわが身に充満し、罪障を転滅し、福徳を転徳するなり。
「まに」の句は貧業を除いて大富饒を得、内には慳貪の罪を除いて無貧の善根を成す。「はんどま」の句は敬愛を成さしめ、衆人の愛敬を受く。内には瞋恚を除きて慈悲を成す。「じんばら」の句は大勢力を具さしめて、怨敵を降伏す。内には愚痴を除いて大智恵を得るなり。このごとく世出世の障碍を除滅するはこれ即ち転なり。無量の大願を成満するはこれ即ち易の義なり。次に「や」といっぱ、第四転、即ち為音なり。いわく、この毘盧遮那如来大智大悲不空大印の為に印せらるるところの故に、この三不善根の汚泥の中においてすなわち如来の無量の功徳を印現す。このゆえに衆生わずかに名字を聞かばすなわち如来の加持を得、ないし草木土砂を呪すれば即ち佛徳を印現すなり。
次に「うん」とはこの真言の種子なり。理趣釈には大楽金剛不空三昧耶本誓心真言と名ずく。
(大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣釋に、「『為欲重顯明此義故』とは所謂、大智印幖幟を顯明し、首に五佛寶冠を戴く。『熙怡微笑。左手作金剛慢印。右手抽擲本初大金剛。作勇進勢』とは本來、清淨法界也。『左手作金剛慢印』とは左道左行の有情を降伏せんが為に順道に歸せしむ。『右手抽擲五智金剛杵作勇進勢』とは、自他をして甚深の三摩地にして佛道に順じ、念念に昇進し、普賢菩薩之地を獲得せしむ。即ち『大樂金剛不空三昧耶』。を説く」)
即ちいまの真言の大意によれば毘盧遮那如来不空大印の心真言なり。大印とは即ち本誓なり。二名相順するなり。即ち理趣釈にいわく、「うん」字とは因の義なり。因の義とはいわく菩提心を因となす。即ち一切如来の菩提心、またこれ一切如来の不空真如の妙体なり。恒沙の功徳みなこれより生ず。この一字に四字の義を具す。「か」字をもって本体となす。「か」字は「あ」字より生ず。「あ」字一切法本不生なるによるがゆえに、一切法因不可得なり。その字の中に「う」字の声あり。「う」字の声とは一切法損減不可得なりその字の頂上に円点半月あり。すなわちいわく「「ま」なり。「ま」字は一切法我の義不可得なり。我に二種あり。いわく人我、法我なり。この二種はみなこれ妄情の所執なればなずけて増益の辺となす。もし損減増益を離るれば、すなわち中道にかなう。(以上の部分は、大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣釋に「因義者謂菩提心爲因。即一切如來菩提心。亦是一切如來不共眞如妙體恒沙功徳皆從此生。此一字具四字義。且賀字以爲本體賀字從阿字生。由阿字一切。法本不生故。一切法因不可得。其字中有汚聲。汚聲者一切法損減不可得。其字頭上有圓點半月。即謂麼字者。一切法我義不可得。我有二種。所謂人我法我。此二種皆是妄情所執。名爲増益邊。若離損減増益即契中道」)
いまこの真言の大意によって解せば、「はんどま」の大悲、「じんばら」の大智をもって因となして毘盧遮那如来不空大印「まに」無尽の福徳聚を生するがゆえに因の義といふなり。しかるに「あ」字門に入るはこの三法みな本不生なり。いわく妄情の中には我執によりて如幻の報を受く。この我報中に居するに十方立することあり。自他彼此差別して増益損減の謀を生じて、我はこの物を有す、彼はこの物を有せずという。これみな法性を謗するなり。いわく四大五蘊の中には本より主宰なし。十方誰がためにか立せん。本性虚空にして体自ら明白なり。内に十方性を照らすを大智となずく。外に衆生の相に滞るを大悲となずく。
この故に若しこの悲智、自体あり、方所あり、我法性を知り、衆生を憐むといはば、万法天然として衆生はこれ実の衆生、賢聖はこれ実の賢聖にして修得にあらず、業報にあらず、しからば諸仏は能化にあらず、衆生は所化にあらず。教化の理なし。この故に諸法増益の有を離れ、損減の無を離れ、有無の相違を離れ、非二の戯論をはなれたり。このゆえに本不生の言は増益の有を空じて、余の三謗を離するなり。この四謗を離れては四義みな立す。このゆえに「うん」字の因の義とは、いわく心性この四謗を離れたり。すなわち一切如来の菩提心なり。またこれ不共真如の妙体なり。このゆえに自性清浄心あり。この心性もとより自不生なり。性と相と互いに立す。相望するに有無にあらず。このゆえに諸仏あり。衆生あり。能家所家断惑証理の道本不生なるがゆえに皆立するなり。これを「うん」字の因の義となす。また一本の儀軌の説に依るにいわく、「うん」「はった」「そわか」と、次のごとく調伏、息災、成就の句なり。いわく諸悪を調伏し、諸善を成就し、三雑染の災過を息滅するなり。己上は離釈(分解して解釈する)なり。不空羂索経の中に離合両釈の証文あり。まず、離釈の証文とは、経文の処処に多くいわく、大如意宝、大灌頂秘密曼荼羅印等と云々。即ち真言のなかの「まに」の句なり。
又持者の七大善夢を説く中に、処処に云く、一切如来大蓮華種族と云々。
(不空羂索神變眞言經「第二夢見入我十方一切刹土三世一切如來大蓮華種族大摩尼寶曼拏羅印三昧耶宮殿會中。我諸如來爲授大蓮華種族大摩尼寶灌頂曼拏羅印三昧耶品。及得一切如來大摩尼印灌頂曼拏羅印三昧耶品現前。」)
即ち真言の中の「はんどま」の句也。又経文の処処に云く、大蓮華種族と(「はんどま」の句也)。大金剛種族とは即ち智慧也。即ち真言中に云ふ「じんばら」とは是光明。光明とは是智慧なり。大摩尼種族「まに」等と云々。
次に合釈の義に依らば即ち真言の中の「まに」「はんどま」「じんばら」の句、三句合わせて蓮華光明と云ふべしと也。其の証拠には不空羂索経第二十八、清浄蓮華明王品第六十七に云く、観世音菩薩の眉間の間の白毫より甘露の渧を出す、火星の流れの如し、其の色明らかなること頗胝迦寶(はていかほう. 水晶)に踰へたり。億千の日の初出色光に超たり。盤薄高大にして菩薩等の如し。乃至真言を説きおわって蓮華即ち自ら開敷す。臺の中に不空羂索心王清浄蓮華明王を出現す等云々、取意。又灌頂真言成就品第六十八に此の光明真言を説き已りて云く、爾時、十方の一切刹土の三世の一切如来、毘盧遮那如来、此の真言を説きて明王の頂に灌ぐ云々。(「不空羂索神變眞言經灌頂真言成就品第六十八」「爾時觀世音菩薩摩訶薩。説此大可畏明王央倶捨眞言時。便復合掌瞻仰如來。熙怡微笑身放億倶胝百千色光。照曜十方三千大千佛之世界。以光神力能令十方三千大千諸佛世界滿虚空際。靉靆彌雨天諸衆妙寶雨海雲。天諸殊特牛頭栴檀末香塗香海雲。廣大清淨薩頗胝迦寶香海雲。放斯光時眉間白毫出甘露渧。如大星流。其色明踰頗胝迦寶。清淨瑩徹從空墜下。正住佛前變成衆寶千葉蓮華。其華純以琉璃爲莖。有大光明超億千日初出色光。磐薄高大如菩薩等爾時執金剛祕密主菩薩摩訶薩。見此露渧變成衆寶千葉蓮華。琉璃爲莖光明赫奕。」
又云く、爾時、十方の一切刹土の三世の一切如来、毘盧遮那如来、一時に斯の灌頂真言を説き而も清浄蓮華明王の為に各々種々の種族一切神通大如意寶大灌頂秘密曼荼羅印三昧耶灌頂を以て、一切種族神通大如意寶大灌頂秘密曼荼羅印三昧耶灌頂成就を授く云々。
(「不空羂索神變眞言經灌頂眞言成就品第六十八」「爾時十方一切刹土。三世一切如來毘盧遮
那如來。一時説斯灌頂眞言。而爲清淨蓮華明王。各以種種種族一切神通大如意寶大灌頂祕密曼拏羅印三昧耶灌頂。授一切種族大如意寶大灌頂祕密曼拏羅印三昧耶灌頂成就。」)
解して曰く、華厳経の中に如来の前に蓮華生ず。一切諸法勝音菩薩、佛の眉間より出でて此の蓮華に坐す。 (「大方廣佛華嚴經卷第三盧舍那佛品第二之二」「此華生已。如來眉間有一大菩薩出。名曰一切諸法勝音・・退坐蓮華臺上」)
宗家此の義を釈するに、蓮華を以て所詮の義となし、菩薩を以て能詮の教と為す。探玄記の第三に釈して云く、若し一乗に依らば此の菩薩を即ち教體(説法する主体)を見ると名く。人法無碍の故に。教圓を顕すが故に、等と云々。(「華嚴經探玄記卷第三盧舍那佛品第二」に「若依一乘看此菩薩即名見教體。人法無礙故顯教圓。」)
今の神変経の文、大に之に同じ。此れ亦花厳に准じて知るべし。謂く、観音の前の蓮華花は是れ所詮の義、明王は是れ能詮の教なり。是の故に蓮華明王と名く。一切如来此の真言を説きて明王の頂に灌ぐは是れ心頂に受く。即ち法を以て人を成する也。此の依正(依法と正法。自分と環境)俱に光明真言の體也。不空羂索毘盧遮那佛大灌頂光真言の名義、此れに依って立つ也。此の真言の本尊手印等は輙く説布すべきに非ざるがゆえに別記に之を載せたり。
光明真言句義釈 金剛仏子高辨抄出之」