「行なしで仏教を説くなら、仏教の経典ほど嘘なものはない。しかし行を象徴的に説くのが仏典だとしたら、これほど幽邃なものはない。教外別伝、不立文字であって、一切経の中に仏法はない。では一切経は嘘かというとそうではない。本当の目から見れば一切経はみな本当なのである。・・」(沢木興道老師の言葉)
般若心経や観音経などほとんどのお経は現世利益を説いています。しかしお陰は必ずあるとは限りません。これだけ拝んでいるのにと絶望の淵に沈むことは日常茶飯事です。そして「助ける」と書いてあるお経の文句は絵空事ではないか?と思い始めます。世を惑わすものではないか?と仏様を恨むことさえあります。しかしこの沢木興道老師のことばに逢うとその考えは間違っていることに気が付きます。「行」なしで拝んでも効源はないということです。しかし日々切羽詰まって生活している者の身になってみれば修行僧のような「行」などできるわけがありません。しかしこの「行」とは「困難」に遭った時の「心の持かた」のことを言っているのではないでしょうか?