「方便の荘厳のゆえに速やかに有為無為の業を成満することを得」
方便というは無漏の正道を助ける即道法。所謂正道とは無我の真理を観じて人我、法我の煩悩を断ずることを正道という。その人我、法我を断じていくところの補助となり間接に正道を助ける。それを方便という。。。今頃は止観さえ修したら宜い、二十五の方便などはいらぬという。それは虎を捕へさえすればよい、捕える道具はいらぬというようなもの・・・虎を捕えられればよいが捕える道具がなければかみ殺される。・・その如く二十五方便は持戒清浄をはじめとして二十五通りある。その二十五通りの方便を全うする時に於いて遂に有為無為、(有為というても人間天人の楽が有為、有為の楽は長く楽しむことが出来ぬ、天に生まれて楽しみ多くとも善根福徳の功徳力が尽きれば人間、畜生、餓鬼、地獄に行く。仏法では有為とは煩悩の事じゃ。その煩悩の中で観法の功徳に依りて煩悩の起こらないように抑えて微細にするから粗い境界を離れて清き天の楽を受けるのであるこれども未だ煩悩を断じて無為の境界に至らんから遊びつくして仕舞うと二度下界に下りることがある。無為とは大乗からいうと真如の体を指して無為というので其の無為無作の中に無量の功徳がある。それを寂光浄土といい、涅槃界というのである。いまこれら有為無為の業を成満することはこの二十五方便を以て得られる。
方便というは無漏の正道を助ける即道法。所謂正道とは無我の真理を観じて人我、法我の煩悩を断ずることを正道という。その人我、法我を断じていくところの補助となり間接に正道を助ける。それを方便という。。。今頃は止観さえ修したら宜い、二十五の方便などはいらぬという。それは虎を捕へさえすればよい、捕える道具はいらぬというようなもの・・・虎を捕えられればよいが捕える道具がなければかみ殺される。・・その如く二十五方便は持戒清浄をはじめとして二十五通りある。その二十五通りの方便を全うする時に於いて遂に有為無為、(有為というても人間天人の楽が有為、有為の楽は長く楽しむことが出来ぬ、天に生まれて楽しみ多くとも善根福徳の功徳力が尽きれば人間、畜生、餓鬼、地獄に行く。仏法では有為とは煩悩の事じゃ。その煩悩の中で観法の功徳に依りて煩悩の起こらないように抑えて微細にするから粗い境界を離れて清き天の楽を受けるのであるこれども未だ煩悩を断じて無為の境界に至らんから遊びつくして仕舞うと二度下界に下りることがある。無為とは大乗からいうと真如の体を指して無為というので其の無為無作の中に無量の功徳がある。それを寂光浄土といい、涅槃界というのである。いまこれら有為無為の業を成満することはこの二十五方便を以て得られる。