「止の荘厳のゆえに悉く能く一切の結支を滌除す、観の荘厳のゆえに能く実の如く諸法の自性を知る。」
これまで三十七道品について論じてきたが次は止観ということについて弁ずる。「止の荘厳のゆえに悉く能く一切の結支を滌除す」止といい観というはこれは座禅観法のことで、止は心を静める、観は心で能く真理を明らかに照らすということ。・・止というは定というて心を一方に寄せて余念なく六根を清くしてその咎を離れることじゃ。眼に色を見、耳に声を聞き、鼻に香を嗅ぎ、舌に食を味わい、身に物の触れることに心を乱されずして六根を一処に制して第六意識という内心の力を真理の方へ寄せてごく静かにして真理とは云何なるものであるかと心を一境に住して深く考えるが止じゃ。
この荘厳即ち観念の功徳に依りて六根六境六識で十八界、この十八界というありとあらゆる世界のものを種々に思いやる心、即ち執着を離れてしもうてジッと一心に煩悩を離れた境界に心を寄せるからそれで一切の結支を滌除することが出来る。結支とは結惑というて貪瞋痴等の煩悩のこと。
「観の荘厳のゆえに能く実の如く諸法の自性を知る」とは、ただ心で静めたばかりでは事が足りぬ、それで観という智慧の力を以て所念の境を照らして是は邪である、是は正であると達観するを観という。・・この観によりて無我の真理を明らかにすると我慢我欲はなくなって人我法我ということがなくなる。有漏、無漏、生死、涅槃の二相を泯亡して真理に契う。真理は生死涅槃の相がない。真理に逆らうから生死ができる。生死の苦に対して涅槃の楽という名をつける。全体真理の中には生死もなければ涅槃もない。苦がないから楽もない。苦楽を脱して無苦無楽の所が真の楽である。それから人我が無うなると人間、貴賤尊卑の差別がのうなる。法我が無くなると生死涅槃の差別がない。自他平等であるから一切衆生を利益する。そういう境界の明らかなところに至るを観という。・・世間の山河大地と現れ、草木叢林と現れ、動物人類と現れるのはなにから現れるかというと、自身の本心の影像じゃ。そうすると自身の本心の体に達するのが即ち菩提じゃ。即ち成仏じゃ。ゆえに大日経に「云何が菩提とならば実の如く自心を知る」とある。諸法の自性を知るのが菩提である。諸法の自性とは何かというと自身の本心である。自身の本心を推すと仏性である。仏性とは仏の心、仏の心とはなんであるかと推すと真如である。真如はなにであるかと推すと生死涅槃、煩悩菩提、衆生と自身と仏と平等平等にして差別がない。真実の歓楽の境界を真如といひ、仏性という。この仏性真如の大慈悲が外に現れて即ち十善となる。十善とは即ち真如の体に備えし徳である。規則である。その境界を照らすはこの止観の力である。・・大日経に「諸法は自身の影法師とある。」成仏するとか実相に通入するとか無上菩提の悟りを開くとか云うがそれはどのようにするかというと、自身の本性を諦める、この外にない。依って「大日経」に「云何んが菩提とならば実の如く自心を知る」と仰せられたのである。
これまで三十七道品について論じてきたが次は止観ということについて弁ずる。「止の荘厳のゆえに悉く能く一切の結支を滌除す」止といい観というはこれは座禅観法のことで、止は心を静める、観は心で能く真理を明らかに照らすということ。・・止というは定というて心を一方に寄せて余念なく六根を清くしてその咎を離れることじゃ。眼に色を見、耳に声を聞き、鼻に香を嗅ぎ、舌に食を味わい、身に物の触れることに心を乱されずして六根を一処に制して第六意識という内心の力を真理の方へ寄せてごく静かにして真理とは云何なるものであるかと心を一境に住して深く考えるが止じゃ。
この荘厳即ち観念の功徳に依りて六根六境六識で十八界、この十八界というありとあらゆる世界のものを種々に思いやる心、即ち執着を離れてしもうてジッと一心に煩悩を離れた境界に心を寄せるからそれで一切の結支を滌除することが出来る。結支とは結惑というて貪瞋痴等の煩悩のこと。
「観の荘厳のゆえに能く実の如く諸法の自性を知る」とは、ただ心で静めたばかりでは事が足りぬ、それで観という智慧の力を以て所念の境を照らして是は邪である、是は正であると達観するを観という。・・この観によりて無我の真理を明らかにすると我慢我欲はなくなって人我法我ということがなくなる。有漏、無漏、生死、涅槃の二相を泯亡して真理に契う。真理は生死涅槃の相がない。真理に逆らうから生死ができる。生死の苦に対して涅槃の楽という名をつける。全体真理の中には生死もなければ涅槃もない。苦がないから楽もない。苦楽を脱して無苦無楽の所が真の楽である。それから人我が無うなると人間、貴賤尊卑の差別がのうなる。法我が無くなると生死涅槃の差別がない。自他平等であるから一切衆生を利益する。そういう境界の明らかなところに至るを観という。・・世間の山河大地と現れ、草木叢林と現れ、動物人類と現れるのはなにから現れるかというと、自身の本心の影像じゃ。そうすると自身の本心の体に達するのが即ち菩提じゃ。即ち成仏じゃ。ゆえに大日経に「云何が菩提とならば実の如く自心を知る」とある。諸法の自性を知るのが菩提である。諸法の自性とは何かというと自身の本心である。自身の本心を推すと仏性である。仏性とは仏の心、仏の心とはなんであるかと推すと真如である。真如はなにであるかと推すと生死涅槃、煩悩菩提、衆生と自身と仏と平等平等にして差別がない。真実の歓楽の境界を真如といひ、仏性という。この仏性真如の大慈悲が外に現れて即ち十善となる。十善とは即ち真如の体に備えし徳である。規則である。その境界を照らすはこの止観の力である。・・大日経に「諸法は自身の影法師とある。」成仏するとか実相に通入するとか無上菩提の悟りを開くとか云うがそれはどのようにするかというと、自身の本性を諦める、この外にない。依って「大日経」に「云何んが菩提とならば実の如く自心を知る」と仰せられたのである。