福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「真言宗義章」第二十二 真俗二諦章

2025-01-22 | 諸経

第二十二 真俗二諦章

(真理の世界と迷いの世界は一つである。浄土と穢土とは本来同じだが凡夫は迷えるがゆえにこの世を荊や瓦礫の穢土と認識し、佛は悟り給うが故にこの世を無尽荘厳なりと見給ふ。)

 

日月星辰あり、山川草木あり、高下尊貴、貧富、苦楽、麤細、大小等の品類森然として羅列する現前有為の境界、之を俗諦と名つ゛くるなり。三際(三世)をこえて不生不滅也。十方を離れて無礙自在なり、真実円満一如平等の真理、これを真諦といふなり。凡そ俗諦の万法は凡夫遮情の前には無常麤浅の法なれども如来聖見の前には本来不生不滅にて五智四身(五智とは大円镜智,平等性智,妙観察智,成所作智,法界体性智。 四身とは自性身・受用身・変化身・等流身。五智は四身となる)の徳を円満し生佛(衆生と佛)同じく解脱の床に住する也。この故に疏主三蔵は「一切衆生の色心の実相は常に是れ毘盧遮那の平等智身なり」(大毘盧遮那成仏神変経疏巻一「故經云皆同一味所謂如來解脱味也。所以然者。一切衆生色心實相。從本際已來。常是毘盧遮那平等智身。」)と称し給ひ、高祖大師は「医眼の見るところ百毒薬と変じ、佛慧の照らす所衆生即ち佛なり」(平城天皇潅頂文)と示し給へり。能住の人につきていふ時、凡聖不二、凡身即佛なれば所住の国土に就きて言はば娑婆即密厳浄土なり。凡聖の差別は迷悟の不同より、浄穢の差別も亦迷悟の不同による。浄土と穢土とは本来異所にあらざれども凡夫は迷えるがゆえに荊棘瓦礫の穢土と認め、佛は悟り給うが故に諸法は本性のままに照らして無尽荘厳なりと見給ふ。この故に高祖大師は凡夫の迷相を釈して「仏身の裡に地獄を見、七宝の上に玉を見ず」(性霊集・喜雨の歌「本来仏であるのに悪業を行って地獄を見、七宝を抱く身でありながら気が付かない」)と明したまひ、疏主三蔵は法身大日如来の浄土を釈して「如来有応の所、この宿に非ざる無し。独り三界の表に在るに非ず」(大毘盧遮那成仏神変経疏巻一「今此宗明義。以自在加持神心所宅故。名曰自在天王宮也。謂隨如來有應之處。無非此宮。不獨在三界之表也。一切持金剛者皆悉集會・・」)と示し給へり。これを真言密教所談の二諦不離、即事而真の妙理(「聖も俗も一つのもの」)といふ。この理は人天の所作に非ず、諸仏の所造にも非ず、一切諸法法然の理なり。この理を知らざる者は自ら諸法の本源を運んで生死の牢獄を画作してしかも還って自らその中に没し、つぶさに苦を受く。たとへば無知の画作の自ら衆綵を運んで可畏夜叉の形を作し己って還って自ら之を見て心に怖畏を生じて頓に地に倒るるが如し。若しそれ有為の境界を離れて無為の空理に専注せしめ五濁の世間を厭ひて他方の浄刹を欣求せしむるがごときに至りては、皆是生身の如来凡夫而二の隔執に付順する浅略の所談にして随自深秘の説に非ずと了知すべし。

真言行者善くこの旨趣を体得し内に凡聖不二の安心に住して佛智見を錬り、外人道を行ひ、王法を重んじ、日夜孜々として各自の業務に努力すべし。この如くなれば即ち一一の三業自然に佛作佛行に順じ生死涅槃を超絶し苦楽迷悟を同視し見聞触知・行住坐臥、ただ天地と俱に歓喜することを得ん。大疏にいわく「若し行者、能く差別の中において差別の義を解し、差別の中に無差別の義を解す。當に知るべし、この人二諦の義に通達し、亦真言の相を知る也」(大毘盧遮那成佛經疏卷第七入漫荼羅具縁品第二之餘「何有淺深之別。若行者。能於無差別中解差別義。差別中解無差別義。當知是人通達二諦議亦識眞言相也」)

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一佛の名号を称して無量の重... | トップ | 今日23日は奈良大安寺光仁会 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事