妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・33
二には総答
「無盡意。是觀世音菩薩。成就如是功徳。以種種形遊諸國土度脱衆生。」
「成就如是功徳」とは上の別答を指す。
「以種種形」とは示現の身の無量を云。
「遊諸國土」とは総じて所化の處の廣きを説く。諸とは一に非ざる義なり。横には十方に周く、竪には同居方便實報(凡聖同居土、方便有余土、実報無障礙土、)の三土に通貫す。三土の機縁已に無量なれば能化の身も又無数なり。此の故に上の句に「以種種形」といへり。問の中には「云何遊此娑婆世界」と云て且く同居の穢土に就いて問ずれども、實には観音の利益三土に周遍すべきが故に、答の中には「遊諸國土」と云て普く遍ずるなり。
「度脱衆生」とは、総じて得益の者廣きことを明かす。別答の中には文廣くして(三十三身十九説法を説くが故に)、意狭し(されども三十三に局るが故に)。総答の中には文狭して(唯十二字なり)意廣し(種種と云て一切の身に遍ずるが故に)。
問、上の妙音品には四乗(聲聞・縁覚・菩薩・佛)を後に安んず。今の品には何ぞ三乗を初に置くや。
答、感あれば則ち應ず。何ぞ前後の次第を守らん。只二文互に顕はすのみ。
三、供養を勧るに二つ。初めには正しく供養を勧む。
「是故汝等。應當一心供養觀世音菩薩。是觀世音菩薩摩訶薩。於怖畏急難之中能施無畏。是故此娑婆世界。皆號之爲施無畏者。」
佛、前問の問を答玉ふには、先には総、後には別なり。其の末に至って受持を勧むることは菩薩の實智の冥益を明かすが故に既に其の形体を見ることなければ但し名字を秉持すべしと勧むるなり。又後番の問を答へ玉ふには、初めには別、後には総なり。其の末に供養を勧むることは菩薩の権智の顕益を明かすが故に、衆生既に眼に菩薩の形を見、耳に大士の説法を聞くが故に供養を勧むるなり(さりながら、此れは且く文に就いて一往分別するなり。若し修行に約せば冥顕二應、共に皆稱名し禮拝し供養し観念すべし。)。
「是故汝等」の下の一十五字は先ず供養を勧む。此の中に「一心」とは事理の一心、上に粗(ほぼ)注し了んぬ。一心供養の深旨は分別功徳品の下に注せり。故に今略す。
「供養」とは若し通論せば、称名(口業)礼拝旋遶(身業)観念(意業)の三業の所作皆供養なり。若し別論せば、香花飲食衣服等の一切の依報を施すを名けて供養と云。今の供養は是に當る。玄賛(慈恩窺基の撰)には、財と行とを進(たてまつり)るを供と名け、摂し資くることあるを養と名く、といへり(妙法蓮華經玄賛卷第二「進財行爲供。有攝資名養」)。
「是観世音」の下も「無畏」に至るまでは次に供養の所以を明かす中に初く正に明かす。若し大佛頂經に十四の無畏を明かすに依らば、七難を救ひ二求に赴き、三毒を免れしむる等を以て施無畏とするに似たり。若し此の文に、怖畏急難の中に於いて能く施無畏と云に據らば亦総じて前番の問答に通ず。是即ち真身(前段の能化)應身(後段の能化)俱に能施の體なり。冥顕の二益、皆無畏を得るなり(右義疏の意なり)。
問、現身説法に就いて施無畏の義未だ明らかならず。説法は唯是法施にして無畏施にあらず如何。
答、財・法・無畏の三種の施を分つことは一往の料棟なり。其の故は先ず貧窮の者の活命済ざらんことを畏るるに、財を施して不活の畏れなからしむるは是財施にして即ち無畏施なり。又出過三界の方便を知らざる者の生死を怖畏するを説法し開導して生死の怖畏なからしむるは豈是法施にして即ち無畏施ならずや。又一香一華一摶の食をも運心して法界に周遍して供ずるは是財施にして而も法施なり。又説法は即ち出世無漏の法財を施す。此れは法・財無二の施なり。故に知ぬ三種の施は唯是一應の分別なりと云ふことを。
問、観世音を施無畏者と名くる事、新しきに似たり如何。
答、名は實の賓なるが故に實徳あれば即ち名を立つ。徳既に無量なり。名も亦不可説不可説なるべし。
復次に密教の意に約せば、人體は即ち大曼荼羅なり。名は即ち法曼荼羅なり。人に約すれば一切諸法は皆悉く人體を表す(諸法は皆六代より縁起して、悉く色身不二なるが故に、心を具する者は即ち人なるが故に)。法に約すれば一切の人皆法に顕る。此の故に「あ」字「ばん」字を以て両界の大日の本體とし、「きりく(梵字)」字「さ字」(梵字)宛ら彌陀観音の内證三摩時なり。非情成佛の実義是にあり。繪像木像即ち神仏なる道理も此の重なり。猶深甚の旨は面授口訣すべし。
二には旨を受るに六つ。初めには命を奉(う)く。無盡意菩薩、佛に白して言さく、「世尊今當に観世音菩薩を供養ず。即ち頸の衆寶瓔珞の値百千両の金なる解て而も以て之を與へて、此の言を作さく、仁者此の法施珍寶瓔珞を受け玉へ。
此の一段は正しく前に佛供養ぜよと勧め玉ふ教命を受けて瓔珞を供養することを明かす。天台の義疏に、問て曰、後段に佛供養を勧め玉ふは無盡意菩薩の旨を受けて瓔珞を奉る。前段の終りには已に持名を勧め玉ひつ。何の文に稱名することを出さざるや。
答て曰、前段の末には持名を勧めて唯心に念ぜしむ。此の故に佛の旨を受るには唯黙すべきのみ。今は供養を勧め玉ふ。供養とは必ず外の物を假て内心を表す者なるが故に、旨を奉って瓔珞を奉るなり
(觀音義疏卷下「問 後勸供養受旨奉瓔珞。前勸持名何得無耶。答默然持名故不彰文。供養事顯須脱瓔珞也。又欲成冥顯義前是顯機。更持名默念即成冥機。後是冥機。復更供養即成顯機。合二義具足・・前勸持名唯令心念。是故受旨 但當冥默。後勸供養。必假外物以表内懷。是故解瓔而爲法施。」)。
二に旨を受けて六つ。初めには命を奉(う)く。
「無盡意菩薩白佛言。世尊。我今當供養觀世音菩薩。即解頸衆寶珠瓔珞。價直百千兩金。而以與之。作是言。仁者。受此法施珍寶瓔珞。」
此の一段は正しく先に佛を供養ぜよと勧め玉ふ教命を受けて、瓔珞を供養することを明かす。天台の義疏に、問て曰、後段に佛け供養を勧め玉ふには無盡意、佛の旨を受けて瓔珞を奉る。前段の終りには已に持名を勧め玉ひつ。何ぞ文に稱名することを出さざるや。
答て曰く、前段の末には持名を勧て唯心に念ぜしむ。此の故に佛の旨を受くるには但黙すべきのみ。今は供養を勧め玉ふ。供養とは必ず外の物を假て内心を表す者なるが故に、旨を奉(うけ)て瓔珞を奉るなり(已上略抄)。
「無盡意菩薩白佛言」の八字は教家の敍なり。
「世尊」の下の一十二字は佛に申す言なり。
「即解頸乃至而以與之」(即解頸衆寶珠瓔珞。價直百千兩金。而以與之。)とは正しく瓔珞を供養ずるなり。此の中に「頸」とは両肩の中に有るが故に、中道を表す。
「衆寶珠」とは様々の寶珠を以て間飾せる瓔珞なり。
「百千両金」とは十万両の黄金なり。問、若し瓔珞經に依らば十信を鐵の瓔珞となし、十住を銅寶の瓔珞とし、十行を銀寶の瓔珞とし、十回向を金寶の瓔珞とし、十地を瑠璃寶の瓔珞とし、等覺妙覺を摩尼寶の瓔珞とす(菩薩瓔珞本業經賢聖學觀品第三「佛子。汝先言名字者。所謂銅寶瓔珞。菩薩字者。所謂習性種中有十人。其名發心住菩薩治地菩薩修行菩薩生貴菩薩方便具足菩薩正心菩薩不退菩薩童眞菩薩法王子菩薩灌頂菩薩。佛子。銀寶瓔珞。菩薩字者。性種性中有十人。其名歡喜菩薩饒益菩薩無瞋恨菩薩無盡菩薩離癡亂菩薩善現菩薩無著菩薩尊重菩薩善法菩薩眞實菩薩。佛子。金寶瓔珞。菩薩字者。道種性中有十人。其名救護一切衆生離衆生相菩薩不壞菩薩等一切佛菩薩至一切處菩薩無盡功徳藏菩薩。平等善根菩薩。順觀衆生菩薩。如相菩薩無縛解脱菩薩法界無量菩薩佛子。琉璃寶瓔珞。菩薩字者。聖種性中有十人。其名歡喜菩薩離垢菩薩明慧菩薩焔光菩薩難勝菩薩現前菩薩遠行菩薩不動菩薩慧光菩薩。法雲菩薩。佛子。如是百萬阿僧祇功徳瓔珞。嚴持菩薩二種法身。是四十人名爲學行。入法流水中以自灌注。佛子。摩尼寶瓔珞。菩薩字者。等覺性中一人。其名金剛慧幢菩薩。住頂寂定。以大願力住壽百劫。修千三昧已入金剛三昧。同一切法性二諦一諦一合相。復住壽千劫學佛威儀。象王視觀師子遊歩。」)
今の無盡意は位、已に等覺なり。然らば無價の寶瓔珞を用ゆべし。何ぞ止(ただ)價百千両金に直(あたる)べきのみなるべけんや。
答、百千とは略して大數を挙るのみ。若し位に約して瓔珞を辨ぜば必ず無價の寶瓔なるべし。若し又観心の釈ならば是れ事を以て理を表するなり。頸に瓔珞あることは衆多の法門一一に無著にして常捨の行を作すことを表す。此の故に一切の願行功徳乃至菩提涅槃までも皆悉く不住不著なるを解と云なり。百千とは是れ十万なり。是は十地の地ごとに萬善の功徳あることを表するなり。
「作是言」の下は言を発して供養する旨を展(のぶる)なり。此の中に
「仁者」とは前の人を指斥(しせき)して云ふ言なり。仁人(きみ)と訓ず。
「法施」とは法財不二の意なり。財は是れ因縁生の法なれば即空即假即中にして三諦一心に具足し法に於いて平等なり。財に於ても亦等し。然れば財法不二にして、瓔珞を施すは即ち法施なり。又密宗の意に約せば此の瓔珞の挙體本来本有なりと了(さとり)ぬれば、瓔珞即ち阿字本不生なり。是諸佛所證の法なれば財法一如なり。何ぞ唯瓔珞のみならん。目に触れて皆本不生際なり。又施即ち不施、不施即ち施なり。又能施と所施と及び施す物との三輪の體、皆遍法界にして周遍平等なれば、一の瓔珞の施、即ち法界無盡の施と成る。観音一尊に法界無量の諸尊を具足す。海會の諸尊互相に渉入して而も徳相は混合せざるが故に、一にして而も異なり。異にして而も一なり。是を真實秘密の観音とするなり。前段の末に一多正覚の義を説く。正しく是此の義なり。然れば唯財法不二なるのみにあらず、人法もまた不二一體なり。又瓔珞は即ち寶部を表す。寶部は両部不二、衆徳圓備の位なり。無盡意の供養とは是自證の境界を他に説示することを表し、観音の受玉ふことは機根教を受けて自行することを表はす。猶無盡の深旨あるべし、更に問へ。
(天台大師智顗の「妙法蓮華經玄義」に「隨其種性各得生長。即是機應不同意也。今略言爲四。一者冥機冥應。二者冥機顯應。三者顯機顯應。四者顯機冥應。」)。
又前番には顕機冥應を明かし、後番には冥機顕應を明かす。文相顕著にして復分剖することを須(もちひ)ず。然るに此に至って施瓔珞を云ふことは、是唯冥機に非ず、復顕機あることを彰す。以て知りぬ上の段も唯顕機のみに非ざるべしと云ことを。實には妙玄の三十六句の感応の如く見るべし。
二には不受。
「時観世音菩薩不肯受之」
「時」とは正に供養する時を指す。
「不肯受之」とは、「肯」は「うけごふ」と訓ず。若し事に約して言はば、無盡意は佛の命を奉って供養せらる。我は未だ命を奉(うけ)ず、何ぞ忽ちに輒(たやす)く受けんと。是は世の遜謙に效(なら)って云なり。若し理に約して釈せば、不受三昧の廣大の用なり。不受三昧とは即ち畢竟空なり。一心三観(一瞬に,空仮中の三観を観ずること)を以て空ずるに遍ねからざることなし。即空の故に有を受けず、即假の故に空を受けず、即中の故に二邊を受けず。雙て空假を照らすが故に中道をも受けず。此れは但だ空にも非ず。次第の空にも非ず。正しく是れ圓の空なり。此を不受三昧と云なり。
三には重ねて奉る。
「無盡意復白觀世音菩薩言。仁者。愍我等故受此瓔珞」
「無盡意」等の十一字(無盡意復白觀世音菩薩言)は、經家の叙なり。
「仁者」の下(仁者。愍我等故受此瓔珞)は正しく再び奉るなり。仁者とは観音を指す。
「愍我等故」とは三義あり。
一には観音を上位の菩薩とする義。約せば上位の菩薩に対して下位の我(無盡意)を愍み玉へと請ふなり。
二には二菩薩の地位同等なる義に約せば互相に愍むなり。
三には、我衆生を利益せんが故に施す、仁者も亦衆生を愍むが故に受けよと云意なり。此の時は「我等」の二字は無盡意、衆生に代わって請ふ意なり。
問、上に観音の不受を釈するに中空の不受三昧を以て分別せり。何ぞ今又受くと云ふや。
答、不受と云へばとて単に空なるには非ず。若し単に空ならば小乗の但空(空にかたよって不空の理を知らず、妙有の一面を認めない)、権大乗の偏空(仮・中の二諦のほかに、別に空諦を観察する)なり。而るに前に既に但空偏空に非ずと云。何ぞ忽ちに単に空ならん。今の不受は不受即ち一切を受けるなり。一切を悉く受けて能所受の隔てもなき位なるが故に一法をも擇び受ることなきを不受三昧と云なり。此の故に受にして不受なり、不受にして受なり。受不受不二なる是真の中道なり。金剛經に「應に所住無くして(住はこれ著なり)而も其の心を生ずべし」と云ふは此の義なり。又密宗の遮表不二の義、此の軌轍なり。大日経の住心品の住心の二字を同じ疏に釈するに、因より果に至るまで、皆無所住にして其の心を住するを以て故に、入真言門住心品と曰へり(大日經疏第一本鈔卷第三「從因至果皆以無所住而住其心故曰入眞言門住心品也」)。此の遮(金)表(胎)不二は大空不生の極位、両部不二の本源なり。観音は即ち弥陀なり。彌陀は即ち不二の大日なりと云ふ事此れを以て決定すべし。
四には、佛、受けよと勧め玉ふ。
「爾時佛告觀世音菩薩。當愍此無盡意菩薩及四衆天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽人非人等故。受是瓔珞。」
「爾時」等の九字(爾時佛告觀世音菩薩)は經家の叙なり。此の中に、尒時とは無盡意の重ねて奉る時なり。
「當愍」の下は正しく佛、勧め玉ふ辞なり。即是一切衆生及び四衆を愍むべしとなり。言ふこころは無盡意菩薩已に物の為に施す。汝観音も亦物の為に受けよとなり。此の文の中に四衆とは、佛所制の五戒八戒(優婆塞・優婆夷)十戒(沙弥及び沙弥尼)具足戒(比丘幷比丘尼)を受けて、佛弟子と成る者なり。
「天龍」等(天龍夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽人非人等)は八部衆なり。問、或は施し或は受る、何の故にか物の為にする理あるや。答、今は佛已に供養せよと勧め玉ふ。此の故に無盡意先ず其の張本と成りて供養するなり。是則ち事に約しては世間の財施を勧め、理に約しては財法不二の如法施を勧むるなり。次に観音に就いていはば、不受も受るも共に中道不二の玄奥を示す。是此の經の骨體なるが故なり。然れば則ち施者受者俱に廣大の利物の事を作すものなり。謹んで後世に告ぐ、聖教は淵深なり。疏慢に解し卒暴に譚じて自後世の苦を招き、他をして邪見を起こさしむることなかれ。
五には勧を奉て瓔珞を受く。
「即時觀世音菩薩愍諸四衆及於天龍人非人等。受其瓔珞。分作二分。一分奉釋迦牟尼佛。一分奉多寶佛塔。」
「即時」とは佛の勧め玉ふ時なり。即、とは速やかなる義、間に髪を容れざる意なり。観音は本より能く受不受不二なることを知見し玉ふ。喩へば鐘の本より音を具へたるが如し。故に佛勧め玉へば速かに受く。喩へば扣くに随って響くが如し。
「人非人」とは夜叉乃至摩睺羅伽(夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽)を指す。
「分作二分」とは事(縁因(佛性を善行を積んで発現すること)・了因(佛性を教えを学んで自覚すること))理(正因(本来具わっている佛性))の二因を表す。二佛に奉ることは事理の二因を以て法報二果に趣く義なり。謂く、事の円満せるは報佛(釈尊は報佛を表す)、理の円満せるは法佛(多寶は法身を表す)なるが故なり。復次に今の瓔珞は萬善なり。此の萬善は唯事のみには非ず。事理不二の行なり。此の不二の行は妙因なるが故に能く三身(法身・報身・応身)の妙果を成ずるなり。又事に約していはば、観音は菩薩にして下位なるが故に無上世尊の敬田に廻施して施者の福をして弥よ廣大ならしむるなり。又本迹に約せば観音は本地は正法明如来なれども迹の形は菩薩なるが故に、因人の極果を求ることを表して、瓔珞を二佛に奉るなり。
問、今は因を行じて果を得ることを表す。果は則ち三身なり。何ぞ今唯法界のみを挙げて應身を云はざるや?
答、修得するは法(理)報(智)二身のみなり。法報の理智冥合すれば應身自ら機の前に現ず。喩へば一月一天に朗らかなる時、下地に水あれば即ち其の影を現ずるが如し。一月の光照は智の如く、一天の空なるは理の如く、影月は應身の如く、器水は衆生の機の如し。今は行因得果を表するが故に唯法報のみを論ずるなり。
問、若し法佛に趣くことを表せば直に多寶佛に奉ると云べし。何ぞ多寶佛塔に奉ると云や。
答、嘱累品の後は多寶佛の塔閉たり(嘱累品では仏が諸仏に仏法の流布を委任されたあと「爾の時に釈迦牟尼仏、十方より来たりたまえる諸の分身の仏をして、各本土に還らしめんとして、是の言を作したまわく、諸仏各所安に随いたまえ、多宝仏の塔、還って故の如くしたもう可し。」)。故に直に多寶佛に奉ることあたはず。是を以て佛塔に奉ると云なり。若し密宗の深意に依れば塔に奉るは即ち佛に奉るなり、何となれば塔は五輪の形、五輪は佛の三昧耶形なるが故に。是を以て寶筐印陀羅尼經に曰、其の塔の四方は如来の形相といへり(一切如來心祕密全身舍利寶篋印陀羅尼經「若人作塔或土石木金銀赤銅。書此法要安置其中。纔安置已其塔即爲七寶所成。上下階陛露槃傘蓋鈴鐸網綴純爲七寶。其塔四方如來形像亦復如是。則一切如來神力所持。其七寶塔大全身舍利藏。高至阿迦尼吒天宮。一切諸天守衞供養。」)。今時寶筐印塔の四方に四佛(東方の阿閦、南方の宝生、西方の阿弥陀、北方の不空成就)の種子(ウン・タラク・キリク・アク)を書くことは塔の四方の面即ち四佛なることをあらはす。但し種子のみを以て四佛とする意にはあらず。證文分明なり。疑ふことなかれ。又多寶は法身なりといへり。顕教に法身と云は密教に談ずるところの心法なり。是心法の體に本来色相言音等の無量の徳相あることを知らずして無色相無言説と談ずる許りなり。然るに密教には心を以て功徳衆集の義に約して即ち是佛塔とす。豈是塔即ち多寶佛なるに非ずや。
六には総結。
「無盡意。觀世音菩薩。有如是自在神力。遊於娑婆世界。」
是は佛、無盡意菩薩に告げ玉ふ辞なり。
「有如是自在神力」とは普門示現の三十三身(佛・辟支仏・声聞・梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天・小王・長者・居士・宰官・婆羅門・比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女・童男童女・天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦・人非人・執金剛神)十九説法(説法の第一は佛に。説法の第二は辟支仏に。第三は声聞に。第四~第九は梵王・帝釈・自在天・大自在天・天大将軍・毘沙門天に。第十~第十四は小王・長者・居士・宰官・婆羅門に。第十五は比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷に。第十六は長者婦女・居士婦女・宰官婦女・婆羅門婦女に。第十七は、童男童女に。第十八は天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅迦・人非人に。第十九は執金剛神に。)を指す。但し此の中に「神力」の二字は正(まさ)しく現身に約す。身業を挙げて口・意を兼ぬるなり。
「遊於娑婆世界」とは是又身業を結して口・意の二業を結するなり。