後拾遺往生伝「入道二品新王、諱師明は長和天皇第四子、母は大納言左近衛大将濟時の女也。皇后夢みるに胡僧来りて云ふ、『将に皇胎に託すべし云々』。后懐孕の間、口より葷羶(くんせん・なまぐさ)を去り、心精進に住す。寛弘二年1005六月一日託生す。誕生の時、室に神光あり。幼稚の間、仡(いさましき)こと巨人の如し。同八年、天皇受禅す。十月五日、立て新皇となる。生年七歳。長和六年1017、天皇昇霞す。哀戚纏なりと雖も、只だ孝行に専なり。寛仁二年1022生年十四、仁和寺に於て大僧正済信に従て出家。法名性信。同年東大寺大乗戒壇院において具足戒を受く。治安三年1023、行年十九、観音院灌頂堂に於て大僧正に伝法灌頂を授る。夫れ灌頂は弘法大師は僧正真雅に授け、真雅は僧都源仁に授け、源仁は僧正益信に授け、益信は寛平法皇に授け奉り、法皇は僧正寛空に授け、寛空は大僧正寛朝に授け、寛朝大僧正は濟信に授け、濟信は(性信)親皇に授く。然れば則ち親王は大日如来の十六代の弟子、弘法大師第九葉の法嫡也。万寿二年1025同院に於て結縁灌頂を行ふ。親王を以て大阿闍梨と為し三摩耶戒表白。大僧正感嘆に堪ず。自ら其の蓋を執る。權大僧都尋清、延尋其の綱を張る。師、弟子の蓋を執る初め也。稀代の例と為す矣。親王、三密の水、源を窮め、五智の灯跋を見る。大法・別尊・灌頂・護摩及び梵字悉曇、洞達せざるなし。或は殻を辟ひ日を渉り、或は・をせずして日を経る。昔百日を限り法華法を修す。後夜時に至り戸を叩く者ありて云ふ『時已に至る云々』。空に其の声を聞けど其の人を見ず。科知るに悉地成就の告歟。治歴元年、東宮御薬事あり。親皇参入即ち以て平復。翌日權亮良基,御使と為りて云く『加持の力、効験掲焉』。同年八月又御薬事あり。親皇、閑院に於て孔雀経法を修す。第四日、日中時已に平気を得る。結願の日、大夫權中納言能長卿、大師自筆の十喩経一巻を賜ふ。又主馬署驊騮(かりゅう・名馬)二匹を賜ふ。(孔雀経御修法記には「大御室、治歴元年八月十三日、閑院孔雀経法、第四日日中初めて讃頌音を聞く。此の暦日より平復、早聴遂に結願の日に達す。弘法大師自筆十喩の詩一巻を賜ふ。權中納言大夫能長卿之を授く。又主馬寮騎騮二疋を賜ふ」)同年二月天皇、御薬事あり。親皇賀陽院に於て孔雀経法を修す。参内の日、頭中将隆綱を以て陣頭相待、輦車を聴さる。一七日中、聖体平復、即ち牛車宣旨を下る。同三月九日結願。賞して弟子の阿闍梨行禅を以て權律師に補す。(孔雀経御修法記に「二月二十三日丙寅、禁中に於て(賀陽院)孔雀経法を修す・・・」)。
延久二年1069十二月二十六日壬午、天皇圓宗寺を供養。親皇、開眼事を勤め、兼ねて証誡となる。衆僧列せず、金堂坐に著す。即日寺家検校に補す。同六月二十九日壬午同寺灌頂堂供養。親王阿闍梨となる。七月七日勧賞、權律師行禅を以て權小僧都に補す。同四年東宮御疱瘡に依り玉顔瘢痕あり。仍って本房に於て薬師法を修す。此の中に御夢想あり。一高僧あり、衣裳香に染り仁和寺薬師法壇より来る。香水を以て御顔に灑ぐ。夢覚めて之を見るに更に其の痕なし。同五年二月、後三条院御悩に依り、孔雀経法を修せらる。即御夢想。法壇より光を放ち照耀。六年二月公家の為に孔雀経法を修せらる。三月六日結願。封戸二十五煙を賜る。(孔雀経御修法記に「延久六年二月二十三日庚寅、公家の為に禁中高倉第東対に於て孔雀経法を修す。三月六日結願、賜に念珠一連を以てす。銀筥に入れる。又別に封戸二十五烟を賜ふ。勧賞あり。」)
承保二年1075八月朔、蝕あり兼日勑有。将に其の災を消すべし、と。此の日、晴天自ら陰る。秋雨忽降。殊に叡感あり、仁和寺私房を以て御願堂と為す。所謂喜多院是也。即ち阿闍梨三口を置かる。御願により三尺愛染王幷に親皇所持の弘法大師所造薬師像一龕を安置す。(別傳に云く、件の像は弘法大師渡海時祈風浪所造也)。又、權小僧都行禅を以て東寺別当に補す。(孔雀経御修法記に同様の記事有)。承暦元年1077十二月十八日甲午、法勝寺供養、親王開眼の事勤む。同、証誡と為る。即ち検校に補す。二年1078十月三日甲辰、始て法勝寺大乗会を修せらる。行幸の次、其の賞に阿闍梨経範を以て權律師に補す。
永保元年1081三月三日庚寅、弘徽殿に於て木像三尺孔雀明王を供養。即ち件の法を修せらる。結願加持の次で、阿闍梨憲意を以て法眼に補す。
(この他、孔雀経御修法記に「(永保元年1081三月)二十四日辛亥、空宿水曜。中宮御産により孔雀経法を修す。四月十五日結願、十七日御産平安。」
二年1082十一月二十七日甲辰、喜多院供養。行幸あり。親皇を以て大阿闍梨と為す。其の賞、覚意を以て法眼に叙す。又、親王に給する所の封戸三百を以て永く件の院に施入す。
三年1083二月六條内裏に於いて孔雀経法を修す。同三十日丙寅、結願。蔵人頭左中辨通俊傳宣、『親王二品に叙す者』。入道の後、叙品の例、始てここに在る矣。
十月一日、法勝寺八角堂九重塔供養。親皇開眼。又証誡を為し賞して法眼頼観を以て小僧都に補す。
応徳二年1085八月二十七日庚寅、同寺常行堂供養。親皇大阿闍梨と為る。弟子阿闍梨静意を以て法眼に叙す。又、二条関白太政大臣長者の女、後朱雀院の女也。両手に瘡あり。一身聊ならず。典薬頭雅忠申して云く『医方及ばず、仏力を期すべし』と。親皇、終夜祈念、暁に臨み平癒。治歴年中、内大臣廱瘡背に発す。雅忠申して云く『廱腫五寸以上に及ぶ。萬死の病也。医術盡く云々』と。親皇、孔雀経法を修し修中に平癒す。龍蹄二匹、荘園二箇所を奉獻す。
前太政大臣信長、中納言の時、久しく鬼瘧を煩ひ、已に数月に及ぶ。親皇孔雀経を読む。読誦の中敢て發効せざれども長じて以て平癒す。参議帰成卿は多年病悩なり。仁和寺に参り一夜宿侍し、暁に及び平癒す。左衛門督師忠卿室家の者、修理太夫俊綱長女也。久しく病席に臥し熱気湯の如し。親皇、戒を授け香水を以て之に灑ぐ。其の照著の所、手に随ひて清冷、更に遍身に灑ぎ忽ち以て平癒す。讃岐守顕綱、施入上分毎日之を食、明日の分、紙に裹んで之を置く。夢みるに施食紙中忽ち光明あり。側に童子あり謂って曰く『弘法大師、紙中に坐したまふ』と。紙を開きて之を盛るに親皇所持の五鈷あり。即ち童子曰く、魚臭に堪ず。明日分今夜食すべき者。筑前守頼家、袈裟を申請、身に随て赴任す。邪病の人、此の袈裟を以て枕上に置けば邪気即ち顕れ更に不発なり。又、親皇、高野に於て百日尊勝法を修す。結願已訖へ、還りて政所散位伊綱に宿す。通籍申云く、一宿御儲万事美を盡す。夜に入り伊綱、死する子を抱きて申云く『哀傷に堪ず。護持を蒙んと欲す』と。上下驚恐し忽ち此の宿を厭ふ。親皇暫く祈念し、遊鬼更に帰り死人蘇生す。
又、上野守家宗の妻、数日病悩、為に護身を請ひ共に禅室に参る。忽ち効験を得て即ち以て家に帰る。後七八日、家宗、任国に赴任す。其の姑は紀伊守孝信の妻也、俄かに来りて家宗を捕て曰く、『何ぞ我を放ちて遠く関東に赴くや』と。家宗之を問ふ。答て云く『住吉大神也』と。親皇加持の後、尚ほ未だ辟除せず仍って共に禅室に参り、縛締を解き畢ぬ。
又、法印大僧都経範、壮年の時、耳に大腫あり。療治験なし。死を決して疑ず。親皇、晡より子に及び、祈念加持し腫血忽ちに出、須臾にして平癒す。又、僧延禅の童子、久しく鬼狂に悩む。延禅(親皇の)施食を申請し之に與ふ。童子自縛して云ふ『我は是神狐。護法に責められ遁方を知らず。自今以降永く以て去矣。数年の病、一旦に損平す。凡そ在生の間、斎食の一粒を嘗め、珠の一顆を持念す。法服の一片を賜る者は、薬王樹下に宿す如く、薬童子の側に臨ずるが如し。抑々灌頂大道を受く者廿人。僧正長信・法印大僧都経範・同寛助・・・。或は綱位を極め、国師と為り、或は法器を懐し国宝と為り、公家勧賞を蒙ること十箇度。孔雀経法を修すこと二十一度、自余別尊別行、其の数を知らず。毎度霊験を顕す。毎人利益を蒙り、逆修を勤ること三箇度、護摩を修す八百日。南北二京の龍象を屈し、法華十講の座席を展じ、一生の中、八旬の間、三時の行法遂に一日も懈匪ず。東寺八箇の末寺、釐務一身の最也。某阿闍梨解文、別当の補に拠らず、皆親皇の処分を取る。上一人より下衆庶に到り、帰依信仰す。衆星の北辰に拱くがごとく、万流の南冥に入るが如し。王子等の帝子、門弟子となる者三人、覚行法親王、行真、聖恵。東寺長者と為るの徒九人、長信・軽範・寛助・濟延・行禅・頼観・覚意・寛意・義範。応徳二年秋、霧霜相侵、寝膳例乖、殊に苦痛なく常に念仏を修し、衣服改潔、心神不乱。九月二十七日平旦、面西方に向け、口に彌陀を唱へ、五色の縷を引き、端座して遷化。春秋八十一、去る二十六日、右大臣藤俊家閑向夜、遥かに天隅を見て、紫雲聳へ青天秋幽、日来親王病を説く、疑ふらくは是往生の相か。旦朝之を尋るに果たして其の言の如し。又延暦寺僧慶覚、同夜暁更、夢に非ず、覚に非ず、笙を聞き楽を聞く。傍人告曰く『是親皇往生の音楽也』と。其の瑞相を語る多矣。彼荼毘火葬の間、多年解けざる帯、棺中に在りと雖も遂に以て焼けず。此の如くの異事、勝計すべからず。彼の親皇、平生の中、金剛峯寺の北に一堂を建立す。灌頂堂と称す。遠忌に至る毎に結縁灌頂を行ふ。阿波の国篠原荘の地利を以て其の用途に充つ。又内匠頭基光に令して其の真影を写し、八大師の末に接し今に影供を行ふ矣。昔僧正仁海、多年祈請して云ふ『大師金剛定に入り給ふと雖も、必ず分身有る歟。願って其の人を見ん』と。夢中に大師告げて曰く『権僧正成典、左足に黒子あり。即ち我が身是也』と。仁海仁和寺に到り成典に謁し先に其の足を見るに果たして黒子有り。仁海地に下りて礼拝す。成典大に驚き亦地に下りて之を扶く。仁海其の夢を告ぐ。成典、驚かず恐れず奢らず。成典、報して曰く『長和親王あり。刹利種を出て身相是具足、心行柔和、智慧聡達、慈悲内薫、徳行外形、菩提心を発し陀羅尼を得る。是大師の後身也云々』。今彼の遺跡を尋ね其の万一抄而已。』
(「故事談」にも性信法親王の霊験は多く出されています。
四〇 性信親王、教通の癕を加持する事 一六一。四一 性信親王、教通女の瘡を加持する事 一六二。四二 性信親王、信長の瘧を加持する事 一六二。四三 師成、仁和寺に宿侍して病平癒の事 一六二。四四 師忠室家、性信親王の授戒に依り病平癒の事 一六二
。四五 顕綱、性信親王の施食上分を受くる事 一六三。四六 頼家、性信親王の袈裟を請ふ事 一六三。四七 性信親王、伊綱女子を蘇生せしむる事 一六三。四八 経範の腫物、性信親王の加持に依り平癒の事 一六四。四九 延禅、性信親王の施食を請け童子の瘧を退くる事 一六四。五〇 兼意、高野にて性信親王に逢ふ事 一六四。五一 兼意、高名の梵字書の事 一六五。五二 性信親王の寿命の事 一六五。五三 性信親王、世間の病者を癒す事 一六五)