地蔵菩薩三国霊験記 9/14巻の3/13
三、甲斐の國稲積地蔵の事
本朝いまだ三十三箇國にして五畿七道も定まることあらざりし當時、行基菩薩甲州の地形を見給ひけるに凢そ四岳八峯立圍ひ瑞雲つねに覆て寶形に似たり。凹(なかくぼ)にして富貴の相あらはれ佛法繁昌の霊地此にあり、國中に一の岡あり、篠原山と号す。高五十餘丈(約160mか)東西七里南北十里峯南北に横たはり篠と云小竹しげりて地のはだへをかくし山の頂平なること原の如し。故に篠原大和号す。彼の山の北には大河東西にみなぎり落砂を流し岸を崩す流れの末西南に落ちまじはりて勢い弓の如し。されば人の・たくましく驕慢を先とす。凢そ國に好相ある故に天魔常に争いをなすべし。西南に山の根深くそびへ東南に青龍のわだかまるが如し。誠に佛法の霊地也と見給ひて常に麓に徘徊して朝日に向かって末代の霊場たらんことを祈り玉へり。東のふもとに松三本生ひぬ其の下に平らなる石あり白雪の如し。此の石上に安坐して法を行ひ玉ふに平生行基に前(すす)んで坐し玉ふ人あり。色白常人にすぐれて見ゆるが錫杖を携へて東方に向御坐す。あるとき行基歩を進めて近きて何なる人ぞと問玉へば一所不住の僧と答へ玉ふ。名を問へば伊賀房と、生国を問へば伊豫と、宗旨はいかにと云へば慈悲門より出たる法師なりとの玉へば、行基徒ならぬ答いかさま庸(凡庸の)の僧ならじと思惟して佛法護持の縁を尋ね玉へば、汝我が容を作りて東方に向て安んずべし。國民饒にして五百年の後に山變じて田と成り、穀を納めんとの玉ひける。行基大に喜び玉にて杖の頭にて僧の皃(すがた)を二寸二歩(8㎝)に刻み給へば彼の法師曰、我は此れ漢土にては地蔵と云なりとて飛び去り給ふ。行基生平の修行の徒然ならざることを思ひ、早く一間四面の草堂を立て杖頭の地蔵を本尊にし奉り給ふ。其の比は元正天皇の御宇養老二年(718)三月二十四日に一宇の伽藍を開きしより以来湖水黄岡を耕し彼の寺領と名け、それより民豊にして春はかまどをにぎはい秋はいねをつみければ人呼んで稲積とは申しける。行基寺号を求めんとて東方に向て見給へば日光と佛光と耀き諍ひて入我我入の道場かなと覚ふ。すなはち日輪堂と付け玉ふ。其の後淳和天皇の御宇(9世紀前半)に彼の國洪水氾濫して寺既に崩れんとす故に之を治するべき由を奏聞す。依って天長十年(833年)二月十八日弘法大師に勅して日輪法成寺と額をなし水神をまつりければ水四谷に流れ波瀾も斯にしずまりけり。されば法成寺とは其の心水を去り土と成ると云ふこころなり。
其の後清和天皇の御宇(9世紀後半)に國母染殿の后(清和天皇の母)の御領家なれば御葬臺法金剛院の末寺にてあるべき由を宣下あり。則ち勅額を下し給はる三代増祟の御寺殊に貴き霊地なり。
引証。延命經に云、亦是の地蔵は十種の福を得しめん。乃至、六は財宝 盈溢、・・穀米成熟云々。又云く、八大怖を除く、一は風雨随時、云々(仏説延命地蔵菩薩経「亦是菩薩は十種の福を得しむ。 一は女人泰産、 二者は身根具足、 三は衆病悉除、 四は寿命長遠、 五は聡明智慧、 六は財宝 盈溢、 七は衆人愛嬌、 八は穀米成熟、 九は神明加護、 十は證大菩提。亦た八大怖を除く。 一は風雨随時、 二は他国不起、 三は自界不叛、 四は日月不蝕、五は星宿不變、六は鬼神不来、七は飢渇不發、八は人民無病なり」)。