こういうふうに探していったらまだたくさんありましょう。そしてこれはちょっと要らぬことのようでありますが、これが日本の国語または文化によほど関係があるということをお話しようと思って申上げたのであります。
先にお話しましたように舞楽が今に残っており、その中にインドの舞楽があるのでありますが、それが臨邑からきた臨邑八楽(蘭陵王(らんりょうおう)・迦陵頻(かりょうびん)・安摩(あま)・倍臚(ばいろ)・抜頭(ばとう)・胡飲酒(こんじゅ)・万秋楽(まんじゅうらく)・菩薩。)が主であった。奈良朝の末頃になるとこれを娯楽に用いるようになった。法楽ばかりでなくこれを娯楽に用いるようになった。それがだんだん変って後の催馬楽にも、猿楽にも、能にも、狂言にも、影響して時代の音楽趣味を支配しながら、舞楽自身も元の侭でも残りまたその影響を受けた俗楽も今に残っているというふうであります。
これより前にもインド人が日本に来ております。摩迦陀国王舎城から出て来た法道という人がある。日本の文化に大なる影響を与えた人であります。播州の赤穂から上陸して法華経山または広峰山という山がある。そこに籠りまして、インドから持って来た仏天を祭っている。牛頭天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、それに観音を礼拝していたのである。孝徳天皇がご病気であったので、宮中に参内して修法をした結果終にご恢復遊ばされた。その時に皇子が五人おいでになったのでありますが、五王子が陛下にお降りになって、父天皇の病気平癒に功能があったというので皆一同礼拝なされたということである。五王子羅拝の謝意を受けたのである。而して宮中に三カ月も留まりその間に仏教の様式を伝えたのであります。大蔵会というのはまた一切経講会ともいい、一切経の書写、供養、もしくは転読の法会であるが、この法道が宮中で初めてこれを行ったのであります。それから説戒会も行われた。これは一週間に一度戒律を読んで復習し、それに触れたものがあるならば告白懺悔する。そういう儀式を説戒会といい、または布薩会ふさつえまたは斎会というこれが宮中で行われた、これが今の日曜学校に当ります。これは仏教の最初からあることであります。
それから無遮会、それは誰がきても拒まず接待をする。この無遮会は五年に一回国王に依って行われる例であった。これを宮中で行ったのであります。それからまた外の斎会も宮中で行っている。その当時までは仏教行わるると雖も唯単なる学問的のことであったのだが、これからは本当の信者が多くなったと書いてある。法道はかくの如く仏教の上には大なる勢力を持ったのであります。のみならず祇園精舎の牛頭天王を持ち来ったものでありますから、祇園の祭の様式は皆これが教えたのであります。御旅所といって神さまが一週間ばかり他所に出張しておられる。その往来の行列はインドの式で「ヤートラ」と申しまして行像と訳します。それが行列を為し矛ほこを出し、山やまを出し、矢台やたいを出すというような儀式、これは皆インドの儀式に相違ない。それを教えまたいろいろそれに関しての作法も教えたのであろうと思うが、平安朝になって貞観十八年876円如法師が広峰山から牛頭天王を招待して、京都の今の八坂神社の所に移した、これを感神院祇園社と謂う。これは新羅の牛頭山に在ます素盞嗚スサノオ尊を勧請して祭ったともいう。ともかくインドの牛頭天王と合祭してある。それが維新後神仏判然の時代となり仏教系の神を棄てたが、八坂神社の前に牛頭天王と書いた額面は取除くことを忘れた。
牛頭天王と素盞嗚尊とうまいぐあいに関係を付けたと思いますのは、牛頭天王も素盞嗚尊も朝鮮に行かれた、また出られたともいう。朝鮮の牛頭里いまは「ソシモリ」というが、ソシというのは牛ということで、モリというのは頭という意味に相違ない。頭を「おつむり」というから「モリ」は頭の意と思います。それでソシモリの里、即ち牛頭山に素盞嗚尊がおられた。素盞嗚尊というのも「スサ」というのは牛の意かも知れない。ところが牛頭天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、インド祇園の山の名前は知れていないが多分牛頭山といったに相違ない。牛頭山は雪山の尼波羅国(ネパール)にもある、中アのコータンにもあった。シナには牛頭山、牛角山というのが三カ所もある。新羅にもあるべきである。これが牛頭里であると思う。この法道は王舎城の人であるのに、祇園精舎の鎮守を持って来て、なぜ王舎城の鎮守を持って来なかったろうかと考えて見ますと、やはり持ってきております。これは書いたものはありませぬけれども金毘羅社である。金毘羅神というのは王舎城の鎮守で王舎城の北の出口の所にある、向って左の山がちょうど象の頭によく似ている、これが象頭ぞうづ山というのである。一名は毘富羅ヒブラ山ともいう。象頭山の金比羅夜叉といってこれが王舎城の鎮守である。そして讃岐の象頭山にも金毘羅を祭り、そして内海を進んで赤穂から上陸して広峰の牛頭社を立てたのであろう。
たいてい仏教と一緒に渡来した神様ならば「儀軌」といって祭式が明らかに教えられてある筈である。神様を拝む特別の方法が教えてあるのであるが、金毘羅に関してはそういふ儀軌がない。経もあるが偽書である。多分法道がインドから日本に着して赤穂に上陸する前に金比羅神を讃州の象頭山に祭り、牛頭天王を上陸後広峰に祭ったのであろうと思う。そういうふうにいろいろとインドと直接の関係があるのであります。こういうふうに考えていくと仏教、風俗、儀式、美術、薬物、遊戯に至るまで辿って行けば面白い研究でありますが今日はそれくらいにしておきまして、インド文明の大波が北と南とを通って東方に移って来たことを今少し話したい。普通はシナに一応伝わりもしくは朝鮮に伝わったのを日本が受けたのでありますが、そうでなく前に述べたように直接にインド人が日本にきて伝えたものも相当ある。そしてこれは実地に移したのでありますから日本にとって非常に深い関係を持つのであるということを知っておかなければならぬのであります。而して然らば今日の主題たる一切経がどういうぐあいに日本にきたかということを述べ、そしてどうして出版する運びになったかということを少しお話いたしたいと思うのであります。
先にお話しましたように舞楽が今に残っており、その中にインドの舞楽があるのでありますが、それが臨邑からきた臨邑八楽(蘭陵王(らんりょうおう)・迦陵頻(かりょうびん)・安摩(あま)・倍臚(ばいろ)・抜頭(ばとう)・胡飲酒(こんじゅ)・万秋楽(まんじゅうらく)・菩薩。)が主であった。奈良朝の末頃になるとこれを娯楽に用いるようになった。法楽ばかりでなくこれを娯楽に用いるようになった。それがだんだん変って後の催馬楽にも、猿楽にも、能にも、狂言にも、影響して時代の音楽趣味を支配しながら、舞楽自身も元の侭でも残りまたその影響を受けた俗楽も今に残っているというふうであります。
これより前にもインド人が日本に来ております。摩迦陀国王舎城から出て来た法道という人がある。日本の文化に大なる影響を与えた人であります。播州の赤穂から上陸して法華経山または広峰山という山がある。そこに籠りまして、インドから持って来た仏天を祭っている。牛頭天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、それに観音を礼拝していたのである。孝徳天皇がご病気であったので、宮中に参内して修法をした結果終にご恢復遊ばされた。その時に皇子が五人おいでになったのでありますが、五王子が陛下にお降りになって、父天皇の病気平癒に功能があったというので皆一同礼拝なされたということである。五王子羅拝の謝意を受けたのである。而して宮中に三カ月も留まりその間に仏教の様式を伝えたのであります。大蔵会というのはまた一切経講会ともいい、一切経の書写、供養、もしくは転読の法会であるが、この法道が宮中で初めてこれを行ったのであります。それから説戒会も行われた。これは一週間に一度戒律を読んで復習し、それに触れたものがあるならば告白懺悔する。そういう儀式を説戒会といい、または布薩会ふさつえまたは斎会というこれが宮中で行われた、これが今の日曜学校に当ります。これは仏教の最初からあることであります。
それから無遮会、それは誰がきても拒まず接待をする。この無遮会は五年に一回国王に依って行われる例であった。これを宮中で行ったのであります。それからまた外の斎会も宮中で行っている。その当時までは仏教行わるると雖も唯単なる学問的のことであったのだが、これからは本当の信者が多くなったと書いてある。法道はかくの如く仏教の上には大なる勢力を持ったのであります。のみならず祇園精舎の牛頭天王を持ち来ったものでありますから、祇園の祭の様式は皆これが教えたのであります。御旅所といって神さまが一週間ばかり他所に出張しておられる。その往来の行列はインドの式で「ヤートラ」と申しまして行像と訳します。それが行列を為し矛ほこを出し、山やまを出し、矢台やたいを出すというような儀式、これは皆インドの儀式に相違ない。それを教えまたいろいろそれに関しての作法も教えたのであろうと思うが、平安朝になって貞観十八年876円如法師が広峰山から牛頭天王を招待して、京都の今の八坂神社の所に移した、これを感神院祇園社と謂う。これは新羅の牛頭山に在ます素盞嗚スサノオ尊を勧請して祭ったともいう。ともかくインドの牛頭天王と合祭してある。それが維新後神仏判然の時代となり仏教系の神を棄てたが、八坂神社の前に牛頭天王と書いた額面は取除くことを忘れた。
牛頭天王と素盞嗚尊とうまいぐあいに関係を付けたと思いますのは、牛頭天王も素盞嗚尊も朝鮮に行かれた、また出られたともいう。朝鮮の牛頭里いまは「ソシモリ」というが、ソシというのは牛ということで、モリというのは頭という意味に相違ない。頭を「おつむり」というから「モリ」は頭の意と思います。それでソシモリの里、即ち牛頭山に素盞嗚尊がおられた。素盞嗚尊というのも「スサ」というのは牛の意かも知れない。ところが牛頭天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、インド祇園の山の名前は知れていないが多分牛頭山といったに相違ない。牛頭山は雪山の尼波羅国(ネパール)にもある、中アのコータンにもあった。シナには牛頭山、牛角山というのが三カ所もある。新羅にもあるべきである。これが牛頭里であると思う。この法道は王舎城の人であるのに、祇園精舎の鎮守を持って来て、なぜ王舎城の鎮守を持って来なかったろうかと考えて見ますと、やはり持ってきております。これは書いたものはありませぬけれども金毘羅社である。金毘羅神というのは王舎城の鎮守で王舎城の北の出口の所にある、向って左の山がちょうど象の頭によく似ている、これが象頭ぞうづ山というのである。一名は毘富羅ヒブラ山ともいう。象頭山の金比羅夜叉といってこれが王舎城の鎮守である。そして讃岐の象頭山にも金毘羅を祭り、そして内海を進んで赤穂から上陸して広峰の牛頭社を立てたのであろう。
たいてい仏教と一緒に渡来した神様ならば「儀軌」といって祭式が明らかに教えられてある筈である。神様を拝む特別の方法が教えてあるのであるが、金毘羅に関してはそういふ儀軌がない。経もあるが偽書である。多分法道がインドから日本に着して赤穂に上陸する前に金比羅神を讃州の象頭山に祭り、牛頭天王を上陸後広峰に祭ったのであろうと思う。そういうふうにいろいろとインドと直接の関係があるのであります。こういうふうに考えていくと仏教、風俗、儀式、美術、薬物、遊戯に至るまで辿って行けば面白い研究でありますが今日はそれくらいにしておきまして、インド文明の大波が北と南とを通って東方に移って来たことを今少し話したい。普通はシナに一応伝わりもしくは朝鮮に伝わったのを日本が受けたのでありますが、そうでなく前に述べたように直接にインド人が日本にきて伝えたものも相当ある。そしてこれは実地に移したのでありますから日本にとって非常に深い関係を持つのであるということを知っておかなければならぬのであります。而して然らば今日の主題たる一切経がどういうぐあいに日本にきたかということを述べ、そしてどうして出版する運びになったかということを少しお話いたしたいと思うのであります。