浄厳「眞言修行大要鈔」に「阿字本不生」がわかりやすくかかれています。紹介します。
「眞言修行大要鈔
問、真言宗の修行は機根に従うがゆえにその品多しと聞く。我、今愚鈍なれば多岐に堪えず。願わくは其の要を聞ん。
答、真言修行の要道は阿字観を過ぐることなし。この阿字観に三つあり。
所謂「聲」と「字」と「實相」なり。
初めに、「聲」とは口に阿字を唱えてその聲に心を入れて出息ごとに唱え唱ふるごとに心を入るる時は妄想おのずから止みて心寂滅す。妄心やむ時はおのずから真智生じて自心の本源を明にし諸法の真実を了達するなり。
次に、「字」とは先ず自心中に円明の月輪を観じ其の中に八葉の白蓮華を観じ其の蓮台上に金色の阿字ありと観念するなり。かくのごとく念々相続して余念なきときは妄念漸漸に退き、無明次第に盡て本覚の心佛自然に顕るるなり。
三つに、「實相」とは阿字の實義なり。その實義をいはば一切諸法本不生(大日経の文なり)とて、ありとしあらゆる天地の間の万物より佛菩薩も地獄餓鬼畜生修羅人間諸天も悉く皆本来本有にして始めもなく終わりもなし。生ずるに似たれども今始めて生ずるにあらず、また昔生じたるにもあらず、滅するに似たれども今始めて滅するにあらず、後に必ず滅すべきにもあらず、常住にして動轉することなく、遷變することなしと知る、是を本不生の実義というなり。但しこの義は甚深幽玄にしてかりそめに知らるる処にあらず、唯佛のみ能く此の真實を明らめ玉へり、縦へ文殊、弥勒、普賢、観音のごとき大菩薩も自分にては解知することあたはず、若し佛これを説聞かせたまふ時は其の智の分齊に応じて証徳するなり、この故に此の位は法相(弥勒の法門)、三論(文殊の法門)、天台(観音の法門)、華厳(普賢の法門)の四宗大乗の知るところにあらず、唯真言一宗のみ大日如来より嫡々相承して今日まで傳へ知るものなり。
問、もし文殊、弥勒も自知するところあらざる甚深の玄理ならば今時の愚癡の凡夫如何にしてか此の境界に入ること得べけんや。
答、文殊、弥勒も自ら知ることあたわざれども佛の言によって領解するが如く、今次下劣の凡夫なれども大日如来よりこのかた師資相伝するを以て随分には知らるるなり。されども其の妙処に至ってはみずを飲む者の冷煗自知するがごとくして教示こと能はず、先ず大綱を教えられて後に自ら工夫を尽くしなば自ずから其の妙に至るべし。若し其妙の極処を得るときは即ち大日如来と同等なり。凡そ心有らんもの豈にこの法に信を傾けざらんや。
問、禅宗には諸宗に超えて教外別伝とて師家の示しに任するにはあらず、唯自己に返照し工夫して悟道するを本意とす。門よりいる者は是家珍に非ず(古人の語)とて他に教えられたるをば真実にあらずといえり。いま真言の実義は師の教えを待って解するといえば禅門の心地にはすこぶる劣れるにや如何。
答、教えを待たざれども自得するは「法」の勝れたる規模にはあらず、唯是「機」の勝れたる故なり。その故は声聞の得るところも独覚の得るところも俱に同じく人空般若の理なれども声聞は佛の教えに依り、羅漢の示しを聞いて悟る。声を聞いて理に入るがゆえに名を声門と云う。独覚は飛華落葉を見て世法の無常を知りて、自ら修行して悟る。独り覚がゆえに名を独覚という。是則ち声聞は鈍根なるがゆえに他に教えられ独覚は利根なるがゆえに自ら悟るということ経論に明らかなに見へたるところなり。禅法も機の鈍なるは始めまず教えられずんば何を拠り所としてか至ることを得べきや。さて真言法は必ず佛の教えによらざれば解することあたわずというはその理、究竟最上にして大菩薩も其の境界にあらざるゆえなり。例えて云はば法華経の諸法実相の理は甚深なるがゆえに智慧第一の舎利弗なれども自らは入ること能ず。佛の説を信じて始めて入ることを得たりといへるが如し。阿字本不生の理も亦かくの如し。この故に大日経疏に曰く、然もこの自証の三菩提は一切の心地を出過して諸法本初不生を現覚す。このところは言語盡竟し、心行亦寂なり。若し如来威神の力を離んぬれば則ち十地の菩薩といえどもその境界に非ず。況や余の生死の中の人をや。守護国界経には釈迦如来成仏の時も十方の諸仏にこの心地を教えられて悟りたまふといへり。是をもって密宗は師資相承を以て規模とす。然るときは自工夫して得は猶其の理の浅きゆえなり。他に教えられざれば入ることあたわざるは却って其の理深故なりと知るべし。
問、請ふらくは禅密の理の浅深を聞ん、又前に聞きつる本不生の義は唯其の大概のみにして委細の説明なし。猶その深義を演らるべし。
答、禅密の理の浅深は本不生の理を明かすに自ずからあらはるべし。先ず本不生の義を広説せば凡そ是に相濫すること多し。真金を識んと欲せば先ず鍮鉐(チュウセキ、真鍮)を弁ぜよというが故に先正見に似たる邪見を弁知べし。(邪見の)一には本不生とは本とは生ぜずといふ義なりとこころえて目前歴々たるところの万法は因縁より起こる。因縁いまだ合せざる已前には一物も無、故に本は生ぜずと云うなりと解す、是れ天台宗に無明法性より起こると云う、一念不生のところを強いて中道と号すると、三論宗に一念不生前後裁断と云ひ、又因縁性のゆえに無自性、無自性のゆえに畢竟空、畢竟空のゆえに不可得というに々。また因縁性とは談じざれども禅家に本来無一物というも此れに同じ。
(邪見の)二には又一類の人錯って解することあり。いわく本不生は本有の義なり。本有というは松は何も松なり、竹は何も竹なり、人は三世に人なり、畜は三世に畜なりと思ふ族らあり、是は外道の常見に全同なれば此の二義ともに謬見なり。又華厳宗に真如の理性より自ら万法を生ずと云うも是なり。
さて真実の本不生の義と云うは一切色心の諸法おのおの一一に万法を具したり、もし有情に就いて云はば唯合は人にして人の形を具したれば人と名ずくれども、若し一念瞋恚を起こすときは即ち地獄の火なり。一念の慳恡(けんりん)を起こせば即ち餓鬼の飢渇となる。少分も愚痴を起こせば即ち畜生の無知なり。少分も我慢闘争を起こせば即ち修羅の心なり。もし五常を守り五戒を持てば(五戒は五常にあたる)即ち人道なり。若し一食の頃なりとも十善戒を守り或は四禅四無色定を修すれば天道の心なり。若し四諦を修行する心を起こせば声聞なり。若し十二因縁を観ぜば縁覚なり。若し自利し利他する心をおこらば即ち菩薩なり。若し諸法の本不生を観ぜば即ち物心なり。頼耶の別種子生あらざることを能く弁ずべし。こかくの如く人の心に本より十界を具したり、自余の九界にも亦各余の九界を具したり。これを新にそれそれの心起こるとみるは四宗大乗及び禅門の意なり。本有なるがゆえに縁によって顕るると云うは真言の義なり。たとえばとう籥の中に風満ちてあれども鼓動かざれば風出でざるが如し。然れば則ち現世は人なれども善悪の業を造るによって来世に三悪道に赴き、あるいは天上浄土にも生ずるなり。ゆえに前にいうところの松は松、竹は竹、人は人、天は天にしていつまでも改むることなしというとは雲泥遥かに異せり。又十界に各十界を具したれば自他平等の理ここに決定す。たとえば礼楽射御書数に通ぜる者六人あらんに各々一芸を以て是は礼者、是は楽者等と名を呼ぶが如し。名は異んずれども其の六芸を備えたることは全同じきが如し。佛はこの本有の義に通達したまふが故に自他平等にしてよく他の心を知り、能く無量の形を変現す。衆生は此の本不生の理に暗きがゆえに他の心をも知ることあたわず。形を変ずることも自由ならず。真言教に説くところの三密(身には印を結び、口には真言を唱え、意には観念するをいう)を行ずる力によって、病身を転じて無病となし、禍を転じて福となし、賊しきが貴き人となり、怨も変じて親しくなることはこの本不生の深理を具したる印真言観念なるがゆえなり。又唯是のみにあらず、陵は崩れて谷となり、草木変じて蟲類となり、昔の牛哀が虎となり、夫を思ふて遥かに望みやりし女変じて石となりしも皆本有の法なるがゆえに本より具したるが不図あらわるるとなり。金は至って堅けれども火に入るるときは湯となる。水は冷なるものなれども火の縁に依っては熱く成る。これ等も堅き物にもとより軟なる徳を具え、冷なるものに本より熱なる功を具したる故なり。かくのごとく万法に歴て各々に万法を具したりと知るこれを本不生の知見といふなり。
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