・「人が知ると知らないとにかかわらず、天地間に存在するありとあらゆる一切のものは、いずれもが相依って「生」そのものの内容を構成し、これらの細胞なり、個体なりの力によって、その全一を生かしているのであるから、いずれの細胞、いずれの個体も、絶対至上の意義と価値を発揮して居らぬものはない・・これを真言宗では宝部族の世界(注1)といい、ありとあらゆるものが、いずれも一様に、至上の価値を発揮展開していることを示す。(真言宗読本・栂尾祥雲)」
・「この万物一体の上から、一切のものを生命が貫いているのであるから、たとひ一切のものが種々に分かれていても、互いに牽引し相合せんとして、自他の間に灼熱する感じが、いわゆる愛そのものの本性である。したがってこの愛の本性そのものは、いかなるものの間にも流通しているのであるから、もしこれをせきとめるようなことなく、・・心の扉を開いて、これを受け入れるようにすると、自然にその本然の愛の力が、全身中に流れ込み、心ゆくばかりにこれを愛し、把握することが出来るのである。これを真言宗では蓮華部族の世界(注2)といい、かの蓮華が、泥土から生じてその泥土に汚されない如くに、ありとあらゆる一切のものは本来清浄なる本質の、同根より生じたる枝葉にすぎないのであるから、互いに相愛し相扶くるそのものの実相を示すことになっている。(真言宗読本・栂尾祥雲)」
注1、金剛界曼荼羅では五佛のうちの阿閦佛の徳にあたる。
胎蔵曼荼羅では金剛部は金剛手院、除蓋障院。
注2、金剛界曼荼羅では、西方無量寿佛(阿弥陀)の妙観察智の徳を司る部に当たり、法部ともいう。胎蔵曼荼羅では観音院と地蔵院が蓮華部とされる。部首は観音菩薩の為観音院ともいう。阿弥陀と観音は果位と因位(覚った後と前)の関係。
・「この万物一体の上から、一切のものを生命が貫いているのであるから、たとひ一切のものが種々に分かれていても、互いに牽引し相合せんとして、自他の間に灼熱する感じが、いわゆる愛そのものの本性である。したがってこの愛の本性そのものは、いかなるものの間にも流通しているのであるから、もしこれをせきとめるようなことなく、・・心の扉を開いて、これを受け入れるようにすると、自然にその本然の愛の力が、全身中に流れ込み、心ゆくばかりにこれを愛し、把握することが出来るのである。これを真言宗では蓮華部族の世界(注2)といい、かの蓮華が、泥土から生じてその泥土に汚されない如くに、ありとあらゆる一切のものは本来清浄なる本質の、同根より生じたる枝葉にすぎないのであるから、互いに相愛し相扶くるそのものの実相を示すことになっている。(真言宗読本・栂尾祥雲)」
注1、金剛界曼荼羅では五佛のうちの阿閦佛の徳にあたる。
胎蔵曼荼羅では金剛部は金剛手院、除蓋障院。
注2、金剛界曼荼羅では、西方無量寿佛(阿弥陀)の妙観察智の徳を司る部に当たり、法部ともいう。胎蔵曼荼羅では観音院と地蔵院が蓮華部とされる。部首は観音菩薩の為観音院ともいう。阿弥陀と観音は果位と因位(覚った後と前)の関係。