明治維新の失敗・・その7
明治維新の失敗・・その6
・「逝きし世の面影・渡辺京二」は幕末の西洋人の眼を通して、江戸期の日本がユートピアのような世界だった、がそれが滅ぼされようとしていたことを証明しています。「一つの文明が滅んだのである。一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。それを江戸文明とよぶか徳川文明とよぶか、呼び名はどうでもいい。しかし、そのように呼びたくなるほど、われわれにとっての大きなもの、つまり文明が、いつしか喪失してしまったのだ。
バシル・チェンバレン(東京帝国大学名誉教師)は「あのころー1750年から1850年ころーの社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか」と嘆声を発した。(イザベラバード(イギリス人女性旅行家)は江戸から日光まで人力車で旅をしたとき車夫達が一切余分な金銭を受け取らずそれどころろか野の花を摘んで渡してくれたと書いているようです。)安政5年に、日英修好通商条約を結ぶために来日したオリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、まったく驚くべき事実である」と書いた。・・ヒュースケン(ハリスの付き人)は「この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことの出来なかった私は、おお神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が重大な悪徳を持ち込もうと しているように思われてならない。」といい、・・リュードルフ(1855下田に来港したプロシャ商船の乗組員)は「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。しかし丁度自分の家の礎石を一個抜き取ったと同じでやがては全部の壁石が崩れ落ちることになるであろう。そして日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう。」・・・異邦人たちが予言しやがて目撃し証言することになった古き日本の死は‥一つの全体的関連としての有機的生命、すなわち一つの個性を持った文明の滅亡であった。」
その江戸期までの日本文明の個性とは、「日本には「親和力」があったということ(荒野に立つ虹・渡辺京二)」のようです。この「親和力」は、神仏一体の壱千年の日本人の信仰生活以外からは生じようがありません。神仏分離・国家神道を推し進めた明治政府によりこの「親和力」はみごとに崩壊させられて今日に至っているといえます。
・夏目漱石も明治の「精神的困憊・道徳の敗退」を批判していました。「精神の困憊と身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず道徳の敗退も一緒に来ている。日本国中何所を見渡したって輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。(それから)」
・日本人は江戸期までは人生を丁寧に丁寧に生きていたようです。例えば杉本鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年)- 1950年(昭和25年)6月20日)『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』はアメリカで初の日本人ベストセラー作家。コロンビア大学の初の日本人講師)が回想する長岡藩家老稲垣家の盆行事をさきの「逝きし世の面影・渡辺京二」で引用しています。「数日前から準備が始まる。庭木生垣を刈りそろえ庭石を洗い、床下まで掃き清める。・・仏壇は行事の中心である。当日爺やは夜が明けぬうちに蓮池へ降りてゆく。これは朝日が差し始める光と共に華が開くからである。仏壇には茄子や胡瓜で作った牛馬が供えられ、蓮の葉に野菜が盛られる。女中が盆灯篭を高々と掲げる。・・黄昏には一家そろって大門のところで、二列に分かれて精霊を待つ。街中が暗く静まり返り、門ごとに焚く迎え火ばかり。・・ひくく頭を垂れていますと待ちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遥か彼方から蹄の音が聞こえて白馬が近つ゛いてくるおが判るようでございました。・・」とあります。
・ラフカデオハーン「神国日本」によれば、以前、日本の家庭は無数の神様、仏様のおられる神聖な場所でした。又職業も神様に見守られていました。「・・日本人は、その職業がなんであるにしろどの神が(その職業を)支配していた。どんな道具を使用するにしろその道具はその技芸技術の祭祀に加入している人たちに許されている慣習に従っての作法通りの使用法で用いなければならなかった・・・」「・・日本の外見上の不思議さには結局美しさが充ち溢れていることがわかるのだが、それと同様その内面的な不思議さの中にもそれ自体の美しさがあるように思われる。・・それは庶民の日常生活に反映している道徳的な美しさなのである。こうした庶民生活の魅力に富む部分は・・こうした外国人が・・半年か一年日本内地のどこか古風な町に住んだと考えてみよう。その滞在のそもそも初めから彼の周囲に生活している人たちが如何にも親切で楽しそうな様子に深い印象を受けずにはおれまい。・・だれもかれもがお互いに仕合せそうな顔をして楽しそうな言葉で挨拶をしあっている。にこにこ顔をはなすことがない。・・いつどんな場合にもそとに表れる快活さだけは決してなくならない。つまりどんな災難が・・暴風雨や火災、洪水や地震があっても挨拶しあう笑い声、明るい笑顔に丁寧な会釈、心からの慰問にお互いをよろこばせたいという気持がいつも人の世を楽しいものにしようとしている。宗教もこの日の光のような明るさの中では暗い影を持ち込まない。そこで神様や仏様の前で人々はお祈りを捧げながらもにこやかである。寺院の境内は子供たちの遊び場であり、大きな氏神の社殿のある境内・・神聖な場所なのだ・・には踊りの屋台が作られたりする。家庭の生活はどこでも安穏を旨としているらしい。それだから表だって喧嘩などもないし、怒鳴ったりの罵声もないし、泣くこともなければ叱言も聞かれない。虐待は家畜に対しても見られないようで、町に出てくる百姓さんが自分の牛や馬に根気よくよりそっててくてく歩く、そしてこの口のきけない相手の荷物運搬を手伝い、鞭や突棒などな使わないのである。・・何百年もの間盗難事件など一度もあったことのない地方に私は住居したことがある。・・明治になって新しく刑務所を造ったところがいつもがらあきで用がなかった。・・・そこでは住民は夜も昼も戸締りをしなかった、こんなことはどの日本人にも耳新しいことではない。・・・」
・柳田國男も日本民族の数千年の行為を再度顧みることが必要と論じました。「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。(山の人生)」
「天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。(遠野物語)」
・江戸期までは胞衣信仰もありました。胞衣塚はいたるところにありました。恵那山は天照大神の胞衣を埋めたところと伝えられています。明治維新で禁止された修験道はまさにそれまでの神仏一体の日本人の精神生活の基盤を表すものでした。自然と人間(父母所生の肉身)はともに法身(神仏)であるとしていました。先の胞衣についても修験者の笠(斑蓋)は胞衣をあらわし修験者が胎児として胞衣にいだかれ、障難から免
「胞衣」信仰をのこしていました。
・柳田國男も日本民族の数千年の行為を再度顧みることが必要と論じました。「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。(山の人生)」
「天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。(遠野物語)」
・以上のように江戸期までに日本人は「目に見えないもの」を大切にして、非常に丁寧にきめ細やかに人生を送ってきました。これが明治初期の外国人には日本がユートピアに見えた理由です。
・これを明治政府は一気に破壊しました。
明治維新の失敗・・その6
・「逝きし世の面影・渡辺京二」は幕末の西洋人の眼を通して、江戸期の日本がユートピアのような世界だった、がそれが滅ぼされようとしていたことを証明しています。「一つの文明が滅んだのである。一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。それを江戸文明とよぶか徳川文明とよぶか、呼び名はどうでもいい。しかし、そのように呼びたくなるほど、われわれにとっての大きなもの、つまり文明が、いつしか喪失してしまったのだ。
バシル・チェンバレン(東京帝国大学名誉教師)は「あのころー1750年から1850年ころーの社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか」と嘆声を発した。(イザベラバード(イギリス人女性旅行家)は江戸から日光まで人力車で旅をしたとき車夫達が一切余分な金銭を受け取らずそれどころろか野の花を摘んで渡してくれたと書いているようです。)安政5年に、日英修好通商条約を結ぶために来日したオリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、まったく驚くべき事実である」と書いた。・・ヒュースケン(ハリスの付き人)は「この国の人々の質朴な習俗とともに、その飾り気のなさを私は賛美する。この国土の豊かさを見、いたることろに満ちている子供たちの愉しい笑い声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見出すことの出来なかった私は、おお神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が重大な悪徳を持ち込もうと しているように思われてならない。」といい、・・リュードルフ(1855下田に来港したプロシャ商船の乗組員)は「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。しかし丁度自分の家の礎石を一個抜き取ったと同じでやがては全部の壁石が崩れ落ちることになるであろう。そして日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう。」・・・異邦人たちが予言しやがて目撃し証言することになった古き日本の死は‥一つの全体的関連としての有機的生命、すなわち一つの個性を持った文明の滅亡であった。」
その江戸期までの日本文明の個性とは、「日本には「親和力」があったということ(荒野に立つ虹・渡辺京二)」のようです。この「親和力」は、神仏一体の壱千年の日本人の信仰生活以外からは生じようがありません。神仏分離・国家神道を推し進めた明治政府によりこの「親和力」はみごとに崩壊させられて今日に至っているといえます。
・夏目漱石も明治の「精神的困憊・道徳の敗退」を批判していました。「精神の困憊と身体の衰弱とは不幸にして伴っている。のみならず道徳の敗退も一緒に来ている。日本国中何所を見渡したって輝いている断面は一寸四方も無いじゃないか。(それから)」
・日本人は江戸期までは人生を丁寧に丁寧に生きていたようです。例えば杉本鉞子(すぎもと えつこ、1873年(明治6年)- 1950年(昭和25年)6月20日)『A Daughter of the Samurai(武士の娘)』はアメリカで初の日本人ベストセラー作家。コロンビア大学の初の日本人講師)が回想する長岡藩家老稲垣家の盆行事をさきの「逝きし世の面影・渡辺京二」で引用しています。「数日前から準備が始まる。庭木生垣を刈りそろえ庭石を洗い、床下まで掃き清める。・・仏壇は行事の中心である。当日爺やは夜が明けぬうちに蓮池へ降りてゆく。これは朝日が差し始める光と共に華が開くからである。仏壇には茄子や胡瓜で作った牛馬が供えられ、蓮の葉に野菜が盛られる。女中が盆灯篭を高々と掲げる。・・黄昏には一家そろって大門のところで、二列に分かれて精霊を待つ。街中が暗く静まり返り、門ごとに焚く迎え火ばかり。・・ひくく頭を垂れていますと待ちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遥か彼方から蹄の音が聞こえて白馬が近つ゛いてくるおが判るようでございました。・・」とあります。
・ラフカデオハーン「神国日本」によれば、以前、日本の家庭は無数の神様、仏様のおられる神聖な場所でした。又職業も神様に見守られていました。「・・日本人は、その職業がなんであるにしろどの神が(その職業を)支配していた。どんな道具を使用するにしろその道具はその技芸技術の祭祀に加入している人たちに許されている慣習に従っての作法通りの使用法で用いなければならなかった・・・」「・・日本の外見上の不思議さには結局美しさが充ち溢れていることがわかるのだが、それと同様その内面的な不思議さの中にもそれ自体の美しさがあるように思われる。・・それは庶民の日常生活に反映している道徳的な美しさなのである。こうした庶民生活の魅力に富む部分は・・こうした外国人が・・半年か一年日本内地のどこか古風な町に住んだと考えてみよう。その滞在のそもそも初めから彼の周囲に生活している人たちが如何にも親切で楽しそうな様子に深い印象を受けずにはおれまい。・・だれもかれもがお互いに仕合せそうな顔をして楽しそうな言葉で挨拶をしあっている。にこにこ顔をはなすことがない。・・いつどんな場合にもそとに表れる快活さだけは決してなくならない。つまりどんな災難が・・暴風雨や火災、洪水や地震があっても挨拶しあう笑い声、明るい笑顔に丁寧な会釈、心からの慰問にお互いをよろこばせたいという気持がいつも人の世を楽しいものにしようとしている。宗教もこの日の光のような明るさの中では暗い影を持ち込まない。そこで神様や仏様の前で人々はお祈りを捧げながらもにこやかである。寺院の境内は子供たちの遊び場であり、大きな氏神の社殿のある境内・・神聖な場所なのだ・・には踊りの屋台が作られたりする。家庭の生活はどこでも安穏を旨としているらしい。それだから表だって喧嘩などもないし、怒鳴ったりの罵声もないし、泣くこともなければ叱言も聞かれない。虐待は家畜に対しても見られないようで、町に出てくる百姓さんが自分の牛や馬に根気よくよりそっててくてく歩く、そしてこの口のきけない相手の荷物運搬を手伝い、鞭や突棒などな使わないのである。・・何百年もの間盗難事件など一度もあったことのない地方に私は住居したことがある。・・明治になって新しく刑務所を造ったところがいつもがらあきで用がなかった。・・・そこでは住民は夜も昼も戸締りをしなかった、こんなことはどの日本人にも耳新しいことではない。・・・」
・柳田國男も日本民族の数千年の行為を再度顧みることが必要と論じました。「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。(山の人生)」
「天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。(遠野物語)」
・江戸期までは胞衣信仰もありました。胞衣塚はいたるところにありました。恵那山は天照大神の胞衣を埋めたところと伝えられています。明治維新で禁止された修験道はまさにそれまでの神仏一体の日本人の精神生活の基盤を表すものでした。自然と人間(父母所生の肉身)はともに法身(神仏)であるとしていました。先の胞衣についても修験者の笠(斑蓋)は胞衣をあらわし修験者が胎児として胞衣にいだかれ、障難から免
「胞衣」信仰をのこしていました。
・柳田國男も日本民族の数千年の行為を再度顧みることが必要と論じました。「同胞国民の多数者の数千年間の行為と感想と経験とが、かつて観察し記録しまた攻究せられなかったのは不当だということと、今後の社会改造の準備にはそれが痛切に必要であるということとは、少なくとも実地をもってこれを例証しているつもりである。(山の人生)」
「天神の山には祭ありて獅子踊あり。ここにのみは軽く塵たち紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊というは鹿の舞なり。鹿の角をつけたる面を被かぶり童子五六人剣を抜きてこれとともに舞うなり。笛の調子高く歌は低くして側かたわらにあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔いて人呼ぶ者の声も淋さびしく女は笑い児こは走れどもなお旅愁をいかんともする能あたわざりき。盂蘭盆うらぼんに新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚あげて魂たましいを招く風ふうあり。峠の馬上において東西を指点するにこの旗十数所あり。村人の永住の地を去らんとする者とかりそめに入りこみたる旅人とまたかの悠々たる霊山とを黄昏は徐に来たりて包容し尽したり。遠野郷には八ヶ所の観音堂あり。一木をもって作りしなり。この日報賽ほうさいの徒多く岡の上に灯火見え伏鉦ふせがねの音聞えたり。道ちがえの叢くさむらの中には雨風祭あめかぜまつりの藁人形わらにんぎょうあり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥ぎょうがしてありたり。以上は自分が遠野郷にてえたる印象なり。(遠野物語)」
・以上のように江戸期までに日本人は「目に見えないもの」を大切にして、非常に丁寧にきめ細やかに人生を送ってきました。これが明治初期の外国人には日本がユートピアに見えた理由です。
・これを明治政府は一気に破壊しました。