鹿ケ谷の陰謀で藤原成経・平康頼・俊寛は鬼界が島に流されますが、丹波少将(藤原成経、許されて帰京後は出世する)、康頼入道(平康頼。許されて帰京し、平家滅亡後は阿波国の保司に任命される)は信仰心が篤く鬼界が島内に熊野権現に似た場所を見つけ熱心に二人で拝み続け結果として赦免されます。不信心な俊寛は拝まないで赦免から外されます。この赦免の使いが来たのが治承二年1178九月二十日ごろとされています。
「平家物語・赦文」には「さるほどに鬼界が島の流人どもの、召し帰かへさるべきこと定まりしかば、・・・長月二十日頃にぞ、鬼界が島には着きにける。」として九月二十日ごろに赦免の使いが鬼界が島に着いたことになっています。
ここで言いたいのは、康頼入道(平康頼)が島内の熊野権現に見立てた所で祈願する時「結・早玉の両所権現、おのおの機に随って、有縁の衆生をみちびき、無縁の群類をすくはむがために、七宝荘厳の栖を捨てて、八万四千の光を和らげ、六道三有の塵に同じ給へり。故に定業亦能転・・(康頼祝言)」と「定業亦能転」という言葉を出していることです。「定業」をも転ずることが出来る、という信仰がこの時代から人口に膾炙していたということは注目すべきことです。(出典は、法華文句「若其機感厚定業亦能轉」であろうと思われます。)
「康頼祝言」を出しておきます。
「康頼祝言」
「参るたびごとには、康頼入道祝詞を申すに、御幣紙も無ければ、花を手折りて捧げつつ、
維あれたる当歳、次治承元年丁酉、月の並び十月二月、日の数三百五十余箇日、吉日良辰を択んで、掛けまくも忝く、日本第一大領験、熊野三所権現、飛滝大薩埵の教令、宇豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原成経並に沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の志を抽めて、謹んでもつて敬白。夫証誠大菩薩は、済度苦海教主、三身円満之覚王也。或東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来也。或南方補陀落能化の主、入重玄門の大士、若王子は娑婆世界の本主、施無畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願を満て給へり。是によって、上一人より下万民に至るまで、或現世安穏のため、或後生善処のために、朝には浄水を結んで煩悩の垢をすすぎ、夕には深山に向て宝号を唱えふるに、感応おこたることなし。峨峨たる嶺の高きをば、神徳の高きに喩へ、険険たる谷の深きをば、弘誓の深きに准へて、雲を分けて登り、露を凌いて下る。爰に利益の地をたのまずむば、いかんが歩を険難の路にはこばむ。権現の徳をあふがずんば、何必しも幽遠の境にましまさむ。仍証誠大権現、飛滝大薩埵、青蓮慈悲の瞳を相並べ、さをしかの御耳をふりたてて、我等が無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則ち結ぶ、早玉の両所権現、おのおの機に随って、有縁の衆生をいちびき、無縁の群類をすくはむがために、七宝荘厳の栖を捨てて、八万四千の光を和らげ、六道三有の塵に々給へり。故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝、袖をつらね、幣帛礼奠を捧ること暇なし。忍辱の衣を重ね、覚道の花を捧げて、神殿の床を動かし、信心の水をすまして、利生の池を湛たり。神明納受し給はば、所願なんぞ成就せざらむ。仰願は十二所権現、利生の翅翔を並べて、遥に苦海の空にかけり、左遷の愁をやすめて、帰洛の本懐をとげしめ給へ。再拝。とぞ、康頼祝言をば申しける。」
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