大般涅槃經金剛身品第五
(ここでは仏の身は金剛身法身であると説くと共に、護法の為には刀杖を執るべし、と説いています。)
爾時世尊、復た迦葉に告げたまはく「善男子。如來身は是れ常住身・不可壞身・金剛之身・非雜食身、即ち是れ法身なり」と。迦葉菩薩白佛言「世尊。佛の所説の如く、如是等の身、我れ悉く見ず。唯だ無常・破壞・塵土・雜食等の身を見る。何以故。如來は今ま當に入涅槃の故に」。佛迦葉に告げたまはく「汝今、如來之身は不堅・可壞にして凡夫身の如しと謂ふ莫れ。善男子よ。汝今ま當に知るべし。如來之身は無量億劫に堅牢難壞なり。人天身に非ず、恐怖身に非ず、雜食身に非ず。如來之身は非身是身、不生不滅、不習不修、無量無邊にして足跡あることなし。無知無形、畢竟清淨、動搖あることなし。無受無行、不住不作、無味無雜なり。是れ有爲に非ず、非業非果、非行非滅、非心非數、不可思議、常不可議、無識離心にして亦た不離心なり。其の心平等、無有亦有、去來あることなし。而も亦た去來し、不破不壞、不斷不絶、不出不滅、非主亦主、非有非無、非覺非觀、非字非不字、非定非不定、不可見了了見、無處亦處、無宅亦宅、無闇無明、無有寂靜而亦寂靜、是無所有、不受不施、清淨無垢、無諍斷諍、住無住處、不取不墮、非法非非法、非福田非非福田、無盡不盡、離一切盡、是空離空、不常住と雖も念念滅に非ず、垢濁あることなし、無字離字、非聲非説、亦修習に非ず、非稱非量、非一非異、非像非相、諸相莊嚴、非勇非畏、無寂不寂、無熱不熱、不可覩見、相貌あることなし。如來は一切衆生を度脱す。度脱無きが故に能く衆生を解す。解あることなきがゆえに衆生を覺了す。覺了無きが故に如實に説法す。二あること無きが故に不可量・無等等にして平かなること虚空の如く、形貌あることなし。衆生の性に同じて不斷不常、常に一乘を行ず。衆生は三を見、不退不轉にして一切結を斷ず。不戰不觸、非性
住性、非合非散、非長非短、非圓非方、非陰入界亦陰入界、非増非損、非勝非負なり。如
來之身は如是の無量功徳を成就す。知者あることなく不知者無く、見者あることなく不見者無し。爲あるにあらず爲なきに非ず。非世非不世、非作非不作、非依非不依、非四大非不四大、非因非不因、非衆生非不衆生、非沙門非婆羅門、是師子、大師子、非身非不身なり、宣説すべからず。一法相を除き算數すべからず。般涅槃時に般涅槃せず。如來の法身は皆な
悉く如是の無量微妙功徳を成就す。迦葉よ、唯だ如來のみありて乃ち是の相を知る。諸の聲聞・縁覺の所知に非ず。迦葉よ、如是の功徳は如來身を成ず。是れ雜食長養する所の身に非ず。迦葉よ、如來の眞身功徳は如是なり。云何んが復た諸疾・患苦・危脆・不堅坏器の如くなるを得んや乎。迦葉よ、如來の病苦を示す所以は、諸衆生を調伏せんと欲するが故なり。善男子、汝今ま當に知るべし。如來之身は即ち金剛身なり。汝今日より常に當に專心に此義を思惟すべし。食身を念ずること莫れ。亦た當に人の為に如來身は即ち是れ法身なりと説くべし。」
迦葉菩薩白佛言「世尊。如來は如是の功徳を成就したまふ。其の身、云何んが當に病苦・無常・破壞あるべきや。我れ今日より常に當に如來之身は是れ常に法身安樂之身なるを思惟すべし。亦た當に人の爲に如是に廣説すべし。唯だ然なり世尊、如來の法身は金剛不壞なり。而も未だ能く所因云何を知ること能ず」。佛、迦葉に告げたまはく「能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得。迦葉よ、我、往昔に於いて、護法の因縁、今是の金剛身常住不壞を成就することを得たり。善男子よ、正法を護持する者は五戒を受けず、威儀を修せず。應に刀劍・弓箭・鉾槊を持ちて持戒清淨の比丘を守護すべし」。迦葉菩薩白佛言「世尊よ、若し比丘有りて守護を離れ獨り空閑塚間樹下に處せば當に説くべし是の人は眞の比丘なりと。若し守護に隨逐する行者あらば當に知るべし是の輩は是れ禿居士(破戒僧)なり」。佛、迦葉に告げたまはく「是の語を作して禿居士と言ふ莫れ。若し比丘有りて所至の處に随ひて供身取足、讀誦經典、思惟坐禪し、來りて問法するもの有らば即ち爲に
宣説す。所謂、布施・持戒・福徳・少欲知足、能く如是の種種の説法すと雖も、然もなほ師子吼を作す能はず、師子之圍繞する所とならず、非法の惡人を降伏すること能はざる、如是の比丘は自ら利し及び衆生を利すこと能はず。當に知るべし、是の輩は懈怠懶惰、能く持戒し淨行を守護すと雖も、當に知るべし是の人は能く爲す所なし。若し比丘有りて、供身之具亦た常に豐足し、復た能く所受の禁戒を護持し、能く師子吼して妙法を廣説す。修多羅・祇夜・受記・伽陀・優陀那・伊帝目多伽・闍陀伽・毘佛略・阿浮陀達磨を謂ふ。如是等の九部經典を以て他の為に廣説し、諸衆生を利益安樂するが故に、如是の言を唱ふ。「涅槃經中、諸比丘を制す。應に・牛羊・非法之物を畜養すべからず。若し比丘、如是等の不淨之物を畜ふる有らば、應當に之を治すべし。如來は先の異部經中において比丘、如是等の非法之物を畜ふる有らば某甲國王、如法に之を治す。驅って還俗せしめよ」と。若し比丘有りて能く如是の師子吼を作す時、破戒者ありて是語を聞き已りて、咸く共に瞋恚して是の法師を害せん。是の説法は設たとへ復た命終すとも故(なほ)持戒自利利他人と名く。是の縁を以ての故に、我、國主・群臣・宰相・諸優婆塞等の説法の人を護るを聴ゆるす。若し正法を護ることを得んと欲する者あらば、當に如是に學すべし。迦葉よ、如是に破戒して法を護らざる者を名て禿居士となす。持戒者は如是の名を得るに非ず。善男子よ、過去久遠無量無邊阿僧祇劫に此の拘尸那城において佛ありて出世す。歡喜増益如來・應供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛・世尊と號す。爾時、世界は廣博嚴淨、豐樂安隱、人民熾盛、
無有飢渇なり。安樂國の諸菩薩等の如く、彼の佛世尊、世に住すること無量、衆生を化し已りて然る後に乃ち娑羅雙樹に於いて般涅槃に入る。佛涅槃後、遺法は世に住すること無量億歳、餘四十年、佛法未だ滅せず。爾時、一の持戒の比丘有り。名けて曰く覺徳。多くの徒衆有りて眷屬圍繞す。能く師子吼して九部經典(修多羅、祇夜、受記、伽陀、優陀那、伊帝目多伽、闍陀伽、毘佛略、阿浮陀達磨)を頒宣廣説す。諸比丘を制して「・牛羊・非法之物を畜養するを得ざれ」と。爾時多く破戒比丘あり。是説を作すを聞きて皆惡心を生じ、刀杖を執持して是法師に逼る。是時、國王、名て曰く有徳。是事を聞き已りて護法の為に故に、即便ち説法者の所に往至。して是破戒の諸惡比丘と共に戰鬪を極めて、説法者をして危害を免るを得しむ。王、時に創を被りて擧身周遍す。爾時、覺徳は尋いで王を讃じて言く「善哉善哉。王、今、眞に是れ正法を護る者なり。當來之世、此身當に無量の法器となるべし」と。王、是時に於いて聞法を得已りて心大歡喜す。即ち命終して阿閦佛國に生じ、彼の佛の第一弟子と作る。其王の將き從へる人民眷屬、戰鬪者あり、隨喜者有て、一切菩提之心を退かず。命終して悉く阿閦佛國に生ず。覺徳比丘、却後壽終りて亦た阿閦佛國に往生するを得て彼の佛の為に聲聞衆中第二の弟子と作る。若し正法滅盡せんと欲する時あらば、應當に如是に受持擁護すべし。迦葉よ、爾時の王は則ち我身是なり。説法比丘は迦葉佛是なり。迦葉よ、正法を護る者は如是等の無量の果報を得る。是の因縁を以て、我今日に於いて種種相を以って自ら莊嚴し、法身不可壞身を成就することを得。」
迦葉菩薩復白佛言「世尊。如來常身は猶し畫石の如し」と。佛告迦葉「善男子よ、是因縁を以ての故に、比丘比丘尼優婆塞優婆夷、應當に勤加して正法を護持すべし。護法の果報は廣大無量なり。善男子よ、是の故に護法の優婆塞等、應に刀杖を執りて如是の持法比丘を擁護すべし。若し五戒を受持し具する者あるも、名けて大乘人の人と為すことを得ざるなり。
五戒を受けざるも爲に正法を護る者は乃ち大乘と名く。正法を護る者は應當に刀劍器仗を執持して法師を侍衞すべし」。迦葉白佛言「世尊よ、若し諸比丘、如是等の諸優婆塞、刀杖を持する者と共に伴侶と為らば、師徳有りとなすや、師徳無しとなす乎。是れ持戒と為すや、是れ破戒と為すや」。佛、迦葉に告げたまはく「是等は破戒人と為すと謂ふ莫れ。善男子、我れ涅槃後、濁惡之世、國土荒亂し互に相ひ抄掠して人民飢餓す。爾時、多く飢餓を為すの故に發心出家する者あり。如是之人を名けて禿人と為す。是の禿人輩は、持戒威儀具足する清淨比丘の正法を護持するもの有るを見て、驅逐して出さしめ若しは殺し、若しは害す」。迦葉菩薩は復た佛に白して言さく「世尊よ、是の持戒の人・正法を護る者、云何んが當に
村落城邑に遊行して教化するを得べきや。善男子よ、是の故に我今、持戒の人、諸白衣の刀杖を持する者に依りて以て伴侶と為すを聽す。若し諸國王大臣長者優婆塞等、護法の為の故に刀杖を持すと雖も、我説きて是等を名けて持戒と為す。刀杖を持すと雖も應に命を斷ずべからず。若し能く如是ならば、即ち名けて第一持戒と為すことを得」
迦葉言さく「夫れ護法の者は、謂く正見を具し、能く廣く大乘經典を宣説す。終に王者の寶蓋・油瓶・穀米・種種の果蓏を捉持せず。利養の為に國王大臣長者に親近せず。諸檀越に於いて心諂曲無く、威儀を具足し、破戒の諸惡人等を摧伏す。是を名けて持戒護法之師となし、能く衆生の眞の善知識と為る。其の心は弘廣にして譬へば大海の如し。迦葉よ、若し比丘有りて利養を以ての故に他の為に説法す、是の人所有の徒衆眷屬、亦た是の師にならひて利養を貪求す。是の人、如是に便ち自ら衆を壞す。迦葉よ、衆に三種あり。一は犯戒雜僧。二は愚癡僧。三は清淨僧なり。破戒雜僧は則ち壞すべきこと易く、持戒淨僧は利養の因縁、壞する能はざる所なり。云何んが破戒雜僧といふ。若し比丘有りて禁戒を持すと雖も利養の為の故に、破戒者と坐起行來し、共に相ひ親附し其の事業を同じくす。是を破戒と名け、亦た
雜僧と名く。云何んが愚癡僧なるや。若し比丘ありて阿蘭若に處り。諸根不利、闇鈍どうもう、少欲乞食、説戒日及び自恣の日に於いて、諸弟子に清淨懺悔を教へ、弟子に非ざるものの多く禁戒を犯すを見て、教へて清淨懺悔せしむる能はず。而も便ち與共に説戒自恣す。是を愚癡僧と名く。云何んが名けて清淨僧となすや。比丘僧有りて百千億の魔の能く壞すこと能はざる所、是の菩薩衆本性清淨、能く上の如きの二部之衆を調へて、悉く清淨衆中に安住せしむ、是を名けて護法無上大師とす。善持律の者、調伏して衆生を利せんと欲するが故に、諸戒相、若しは輕、若しは重を知る。是れ律に非ざる者は則ち證知せず。若し是れ律なる者は則便ち證知す。云何んが衆生を調ふるが故にす。若し諸菩薩、衆生を化せんが為に、常に聚落に入りて、時節を擇ばず。或は寡婦及び婬女の舍に至り、ともに同じく住止して多年を經歴す。若し是れ聲聞は爲すべからざる所。是を調伏利益衆生と名く。云何んが知重なる。若し如來、事に依りて制戒するを見、汝今日より、愼んで更に犯すこと莫れ。四重禁(殺・盗・婬・妄)の如きは出家之人の應に作すべからざる所なり。而るを故ことさらに作す者は是沙門に非ず、釋種子に非ず。是を名けて重と為す。云何が輕と為すや。若し輕事を犯すに如是に三諫するに、若し能く捨つる者は是を名けて輕と為す。非律不證とは、若し不清淨物を應に受用すべしと讃説する者有らば、共に同止せず。是律應證とは善く戒律を學び、破戒に近ずかず、所行戒律に隨順するを見て心に歡喜を生ず、如是に能く佛法の所作を知りて
善能く解説す、是を名て律師となす。善く一字を解す。善く契經を持するるも亦復た如是なり、如是なり。善男子よ、佛法は無量不可思議なり。如來も亦た爾なり。不可思議なり」。迦葉菩薩白佛言「世尊よ、如是なり如是なり。誠に聖言の如し。佛法は無量不可思議なり。
如來も亦た爾なり。不可思議なり。故に知りぬ、如來は常住不壞にして變異あること無し。我今善く學し、亦た當に人の爲に是義を廣宣せん」。爾時、佛、迦葉菩薩を讃じたまはく、「善哉善哉。如來身は即ち是れ金剛不可壞身なり。菩薩、應當に如是に善く正見正知を學すべし。若し能く如是に了了知見せば、即ち是れ佛の金剛之身不可壞身を見ること鏡中に諸色像を見るが如し。」