今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され密教興隆を誓われました。
国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第三通目) 一通
以下「宸翰英華」等によります。
今日延慶二年1310四月二十九日、後宇多法皇は三通目の手紙を醍醐寺憲淳に出され法流を継ぎ密教興隆を誓われましたがこの前には、憲淳が法皇に以下のような附法状を奉っています。憲淳は法皇が報恩院に住持した場合は、法皇を正嫡として門跡(院主)を継がせる心づもりであったのですがしかし法皇による報恩院への住持は実現せず、徳治三年八月の憲淳の入滅後、法皇と憲淳の正嫡・隆勝は本尊や重書の所有をめぐり対立しました。
「報恩院流を伝授申し上げ法流を継いでいただくことするが、
・門外不出であること。・醍醐寺にお住まいになる事。・経蔵の開閉は憲淳の弟子にさせること。・寺に入られないならば他人には伝授しないこと。・他寺を兼帯している僧には一尊一巻をも伝授してはならないこと。・醍醐寺の住職となられ元首となるならば憲淳の弟子達に伝法興隆のこと。・憲淳の弟子には伝授した内容は申請に従って勅許さるべきこと。・女人を遠ざけるべきこと等、を守っていただきたい。」とお願いしたことに対して後宇多法皇は延慶二年1310四月二十九日にこの附法状に答えて一事も違背せず條々守るべきことをおおせられさらに本尊聖教目録を徴せれられ更に憲淳が病を養い恵命全うすべきことを望まれています。
「一遍慥畢、始終偏廻當流紹隆之謀也、努々一事不可有依違事、殊可守條々旨者也、本尊聖教以下為存知、可被進目録候哉、委細道順(憲淳の弟子)令申候歟、所勞體其後不審、相構加療治、被全恵命者、尤可為弘法利生之道、殊可被施醫術者也、
四月二十九日 金剛性 敬白」
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