以前行法をしていて「全ては心から出て、心へ帰るのだ」ということに改めて気が付いたことがあります。コロナパンデミック下にある現在の世界をみて改めてこのことを思い出します。
古来疫病瘴癘時には般若経を読誦したのはこのすべてを生み出している「心も空である」と行疫流行神にも説いて聞かせる為でもあったのでしょう。
・至道無難禅師の道歌には
「いろいろに あらはれいずる心かな 心のもとはなにもかもなし(三世不可得・・「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得(金剛般若経)」のこと)ず
「佛といひ、神といひ、如来といひ、いろいろありがたき名は 人の心をかへて云ふなり。」とあり、
・栄西禅師の『興禅護国論』には有名な句があります。
「興禅護国論序・・大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出ず。日月の光はこゆべからず、しかるに心は日月光明の表に出ず。大千沙界は究むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出ず。それ太虚か、それ元気(万物を生み出す根本エネルギー)か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。天地は我を待って変化し、万物は我を待って生す。大いなる哉、心や。吾れ已むことを得ずして強いてこれに名ずく。これを最上乗(大乗のその上)となずけ、また第一義となずけ、また般若実相となずけ、また一心法界となずけ、また無上菩提となずけ、また楞厳三昧(首楞厳三昧、堅く絶対的な禅意)となずけ、また正法眼蔵となずけ、また涅槃妙心となずく。しかればすなわち三輪八蔵(凡ての経典)の文、四樹五乗(お釈迦様涅槃時に二対の沙羅双樹の1対は枯れ、1対は栄えて常と無常の理をあらわしたこと、五乗は三乗に人乗と天乗を加えたもの)の旨、打併して箇裡にあり(ひっくるめてここにあり)。」です。
古来疫病瘴癘時には般若経を読誦したのはこのすべてを生み出している「心も空である」と行疫流行神にも説いて聞かせる為でもあったのでしょう。
・至道無難禅師の道歌には
「いろいろに あらはれいずる心かな 心のもとはなにもかもなし(三世不可得・・「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得(金剛般若経)」のこと)ず
「佛といひ、神といひ、如来といひ、いろいろありがたき名は 人の心をかへて云ふなり。」とあり、
・栄西禅師の『興禅護国論』には有名な句があります。
「興禅護国論序・・大いなる哉、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出ず。地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出ず。日月の光はこゆべからず、しかるに心は日月光明の表に出ず。大千沙界は究むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出ず。それ太虚か、それ元気(万物を生み出す根本エネルギー)か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。天地は我を待って変化し、万物は我を待って生す。大いなる哉、心や。吾れ已むことを得ずして強いてこれに名ずく。これを最上乗(大乗のその上)となずけ、また第一義となずけ、また般若実相となずけ、また一心法界となずけ、また無上菩提となずけ、また楞厳三昧(首楞厳三昧、堅く絶対的な禅意)となずけ、また正法眼蔵となずけ、また涅槃妙心となずく。しかればすなわち三輪八蔵(凡ての経典)の文、四樹五乗(お釈迦様涅槃時に二対の沙羅双樹の1対は枯れ、1対は栄えて常と無常の理をあらわしたこと、五乗は三乗に人乗と天乗を加えたもの)の旨、打併して箇裡にあり(ひっくるめてここにあり)。」です。