地蔵菩薩三国霊験記 6/14巻の19/22
十九、 古佛造営功力の事
中古朱雀大路の祇陀林寺(京都中御門京極の東にあった天台宗の寺。 長保二年(1000)良源の弟子仁康の創建と伝えられる。)の門前にて童部あつまり毱打・・もろばし合ひけり。保元二年(1157)正月中旬の比(ころ)例の如く集まり合て打相ひける中に歳二十ばかりなる者の小童の中に立ち交じりて見ければ或童部の持て打ちける玉の形少し長くして人の頭に似たり。奇く思ひて能々見れば地蔵菩薩の御頭やらんと覚けり。あな浅間敷(あさましき)やと敬心をこりて、其の玉は何地にてか求るぞと問ふ。童子の云く、かれは法城寺(現在の京都鴨川の東岸、京阪三条駅の北側にある心光寺)の二王堂にて見付けたるなりと云へば、さればこそ𦾔き地蔵の御頭に争ふ所なしと思ひ其の玉予に得させよと云ければ、ことの外に腹立してけり。誠に惜事は断りなりと新き玉を求めて様々こしらへすかして取易て、若し本の寺に送りなば見知て又もや取るべしと直に佛士の所に行向て此の玉を御頭として地蔵菩薩を造りくれよとて荘厳のさま細かにたのみぬ。やがて造り續き奉て彼の祇陀林寺の傍に安置して諸人の力を借りて毎月廿四日に地蔵講を興行しけり。隣家に住みける人に常に放逸の者ありしがこの度の講衆に加はられよと強ひければ笑ひ嘲りて耳にも聞き入れず。されども彼の男申すは在地近隣の交わりなればなどか聞き玉はざらん。彼の一結の講衆は縁に随って生ずと申して現當二世の善縁を互に誓処なりとさまざま諫言すれども少しも用ひず。然るに世間一般の病起ることあり。若し此の病に取り付ぬれば十に八九は死せぬものはなし。彼の諫を聞かざる男も病悩を受けて二七日ばかりほどしてつひに死去しけり。親しき人も怖れをなして来る人もなきに、枕頭に人影のしけるに水を乞ふと思て目を見あげ見るに小僧の錫杖をつえにし玉ふが立ちより在すと見へければ、誰ぞと申しければ、我は是祇陀林寺の傍に住みける地蔵薩埵也。汝が辞する所を諫むる男からにて二度相好を成ず。故に益々衆生を利すその報謝のために今爰に来れり、汝悪業かぎりなきといへども彼の造立の男の志の切なる餘を報じて命を増すぞ。此の恩を報ひんとをもはば速やかに廿四日の講衆に連なりて常に我所に来って値遇の縁をなすべしと曰て書消様に失せ玉ふと思て見送奉らんとたれなみけるほどに彼の男やがて病しりぞきて速やかに身心安楽なる事を得たり。人心付て日来(ひごろ)辞しける講衆に望み入りて其の上に毎月の参詣を企だて禮拝供養し奉って我が身の事を具に語り廣めて、是我が信ずる大綱なりとて人をも勧めけりと承る。されば玉もと光なし。磨きて則ち真珠の光を生ずと云へり(禮記「玉琢かざれば器とならず。人学ばざれば道を知らず。」)。
引証。本願經に云く、復次に地蔵若し未来世中に善男子善女人有りて佛塔寺大乘經典を新たにする者に遇ひて布施供養瞻禮讃歎恭敬合掌し、若し故き者に遇へ或は毀壞者修補營理し或は獨り發心し、或は多人を勸めて同じく共に發心す、如是等の輩は三十生中に常に諸小國王と為らん。
(地藏菩薩本願經校量布施功徳縁品第十「復次地藏。若未來世中有善男子善女人。遇佛塔寺大乘經典新者布施供養瞻禮讃歎恭敬合掌。若遇故者或毀壞者修補營理。或獨發心或勸多人同共發心。如是等輩三十生中。常爲諸小國王檀越之人。常爲輪王還以善法教化諸小國王」)。