「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

性のミステリー(2)

2006年05月16日 19時47分24秒 | 心理
 
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34547969.html からの続き)

 染色体の問題で、生まれた時に男性器が女性器のように小さい男の子もいます。

 その子は女子だと判断されて、女の子として育てられ、何の問題もなく女の子として育ちます。

 第二次性徴が現れるまでは、疑問を感じることもありません。

 つまり体の本来の性とは関係なく、性自認は後天的に確立されるということなのです。

 「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」どいうボーボワールの言葉。

 それは、“女は女らしく” “女は~~でなければならない”というジェンダー役割から、女性を解放するフェミニズムの理論的根拠になりました。
 

 しかし、話はそう簡単ではありません。

 この説に反する、次のような例も存在するのです。

 生後7ヶ月の双子の男の子のうち、一人が事故でペニスを失ってしまいます。

 臨界期を過ぎる前だったので、その子は女の子として育てられることになりました。

 もう一人の兄弟とは明らかに異なる成長を見せ、女の子の服や人形を好むようになりました。

 ところが、この子は実は自分の性に違和感を持ち続けており、

 14才になると、それまで受けていた女性ホルモンの投与を拒否します。

 そして男として生きることを選び、手術を受けて男に戻ったのでした。

 その後25才で女性と結婚したということです。
 

 要するに、性自認は先天的な性に関係なく環境によって決まる場合もあるし、

 後天的に変えることはできないケースもある、ということなのです。

 そもそも「性同一性障害」は、生まれ育った性別にどうしても馴染めず、それに耐えられないという症状です。

 例えば男性として生まれ育ったのに、どうしても自分は女だという意識が捨てられず、

 女らしくなりたいと求めずに入られないわけです。

(それはフェミニストにとっては敵でした。)

 セクシュアリティにはひとつの決まったパターンは存在しません。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34698821.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

性のミステリー(1)

2006年05月15日 20時20分58秒 | 心理
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34378772.html からの続き)


 友人が以前メールをくれました。

 長男が小さい時、お姉ちゃんの友達と遊んでいたので、ママごとやピンクのTシャツが好きだったという話。

 男らしさ,女らしさは環境の影響を受けます。

 ところがそれだけでなく、自分が男か女かという意識=「性自認(セクシュアル・アイデンティティ)」さえも、

 環境(後天的なジェンダー)に左右されるというのです。

 
(以下「性のミステリー」伏見憲明より)

 性自認の形成には「臨界期」というものがあって、2才位まで男ないし女として育てられると、

 その後に性自認を変更するのは難しいという説があります。

 例えば、胎児期のホルモンの関係で、男性器のような女性器を持って生まれた女の子がいます。

 性別は生まれた時の外性器で判定されるので、その子は男子と判断されました。

 そして当然のように男の子として育てられ、女の子に初恋もしました。

 しかし、思春期になると胸が膨らみはじめ、体が女性化してきました。

 検査をすると、卵巣や子宮が発見されたのです。

 しかしそれでも、“彼”は男性であるという性自認が揺るがず、体のほうを男に変える選択をします。

 手術を施し、ホルモン投与をして、彼はその後も男として生き、女性と結婚もしたのです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34637367.html
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の日にカーネーション

2006年05月14日 13時29分11秒 | Weblog
 
 今日は母の日。

 お袋の遺影に、赤とピンクのカーネーションを飾りました。
 

 学生時代のある母の日のこと、絵を描いていた僕は自分で描いたカーネーションの絵を、下宿先から実家のお袋に送りました。

 お袋は大層喜んでくれて、その後僕が帰省したとき、自分のヘソクリ(?)から小遣いだと言って、5万円も渡してくれました。( ^^;)

 それから、お袋が脳出血で入院していたとき、母の日に見舞いに行く都合が付かなかった僕は、

 カーネーションの絵とメッセージをFAXで病院に送りました。

 それを見たお袋は思わず涙を抑えられず、ヘルパーさんにからかわれたそうです。

 今はそんなこともできなくなってしまいましたが、心はいつでも通じていると思います。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「『ジェンダーフリー』の誤解」の誤解

2006年05月13日 20時11分05秒 | 心理
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34296397.html からの続き)


 きのうの朝日新聞に、ジェンダーフリーに関する記事が載っていました。

 「ジェンダーフリー」という言葉が使われるようになって、もう10年くらいになるのでしょうか。

 「男は仕事、女は家庭」という性役割など、社会的・文化的に作られた性である「ジェンダー」を見直し、

 固定的な男らしさ女らしさにとらわれず、自分らしい生き方を求めるのが「ジェンダーフリー」ですね。

 しかしフェミニズムと連動してのことでしょうか、従来の男女差別的な慣行に対する反動で、

 “ジェンダーフリー”がエスカレートしてしまいました。

 教育現場などでは、男女を少しでも区別するようなことはいけないと言われ、問題になりました。

 例えば、女の子に「かわいい」と言ってはいけないとか、先生が小学生の男の子にも「さん」付けで呼ぶとか。

 ジェンダーフリーの考えに対する偏った誤解ですが、

 その行き過ぎが批判されるようになり、今度はまたその過度の揺れもどしが起きているそうです。

 「ジェンダーフリー思想」を広げてはいけないという理由で、女性センターが廃止され、

 ドメスティック・ヴァイオレンスなどの受け皿がなくなったとか。

 また、「ジェンダーフリー」という言葉を表題に入れた市民企画が、市の広報に掲載拒否されたりとか。

 どうしてこう極端から極端へ走ってしまうのでしょう……。(- -;)

 男女共同参画局は、「ジェンダーフリー」という言葉自体を不使用としているそうですが、

 過剰な差別用語狩りや自己規制と似た動きです。

 言葉が誤解されているのであれば、正しい理解を広めるよう努力すべきでしょう。

 「ジェンダーフリー」という言葉が消えてしまっては、作られた男女観にとらわれず個性を発揮するという、

 本来の価値観自体も埋もれてしまいます。

 また、個性を抑圧する押しつけられた男女らしさではなく、

 自然で自由な個性を活かすような男女らしさもあるはずです。

 そんなことも踏まえて、「セクシュアリティ」の記事の連載を続けていきたいと思います。

(続く)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セクシュアル・オリエンテーション

2006年05月12日 20時17分34秒 | 心理
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34207010.html からの続き)


 性的な関心(恋愛感情)をどの性別に抱くかを、「性的指向(セクシュアル・オリエンテーション)」と言います。

 性的関心が同性に向かうのが同性愛(ホモセクシュアル),異性に向かうのが異性愛 (ヘテロセクシュアル),両性に向かうのが両性愛(バイセクシュアル)です。

 性的指向は自分の意思で決められるものではなく、「性的嗜好」とは異なります。

 さらに、性的指向には様々なバリエーションがあります。

 体に対しては異性を求め,心に関しては同性を求める(またはその逆)という人もいます。

 また、ヘテロセクシュアルからホモセクシュアルに移行したり、性欲の対象がない場合(アセクシュアル)もあります。

 ただし例えば、右利きは多数派だから世の中では便利ですが、左利きを病気だとは言えないように、同性愛を異常だとは言えません。
 

 同性愛の原因ははっきりしていません。

 胎児期のホルモンの影響で、体の性と脳の性が異なってしまうことがあります。

 しかし、そのために同性愛になるとは言えません。

 ゲイ(男性同性愛者)でもレズビアン(女性同性愛者)でも、それぞれ男性的なタイプや女性的なタイプなどがいて、

 必ずしも女性化した脳=ゲイ,男性化した脳=レズビアンという図式にはならないのです。
 

 同性愛は時代や国を問わず、人口の数%~10数%いると言われます。

 生物の原則からすると、子供を産めない同性愛は何故存在するのでしょう? 

 人間以外の動物は子孫を残すと一生を終えますが、人間は進化の過程で生殖後も長い寿命を獲得しました。

 その間に人間は様々な知識や経験を次の世代に伝えます。

 人間はDNAだけでなく、文化を残し伝える生物なのです。

 同性愛なども何か意味があるのではないでしょうか。

 非婚や子供を産まない人生があるように、様々な性的指向の人々のライフスタイルにも意義があるはずでしょう。

(続く)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セクシュアリティ

2006年05月11日 19時56分22秒 | 心理
 
 2日続けて同性愛者の映画の感想を書きました。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34019511.html 「ブロークバック・マウンテン」
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34081107.html 「メゾン・ド・ヒミコ」

 これを受けて、同性愛や「セクシュアリティ」についての記事を、少し連載してみたいと思います。
 

 「男と女」という単純な2分化は、セクシュアリティの世界には通用しません。

 「セクシュアリティ」(精神的・心理的な性)には、次の3つの位相があります。

○性的指向……性的な関心がどの性別に向かうか

○トランスジェンダー……体の性と、心の性・生活上の性が一致しない人

 (この内、性転換手術を必要とする人が「性同一性障害」)

○性自認……自分が男であるか女であるかという意識

 これらは、あれかこれかのデジタルではなく、全てがグラデーションとして存在します。

 そして、3つの軸が互いに交錯してあらゆる組み合わせがあり、想像もできないようなミステリーが生まれます。

 そういう事実は、まだ一般的には充分理解されておらず、その存在さえ知られずに、苦しんでいる人たちが沢山いるのです。

(続く)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「メゾン・ド・ヒミコ」

2006年05月10日 11時28分00秒 | 映画
 
 昨日書いた「ブロークバック・マウンテン」と同じく、ゲイの人が主人公の映画「メゾン・ド・ヒミコ」を去年観ました。

 不思議な雰囲気の映画でした。

 銀座のゲイバーの伝説のママ・卑弥呼(田中泯)があるとき突然姿を消し、ゲイの老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を開きます。

(老人ホームといっても職員も医療者もいないのですが。)

 数年後のある日、沙織(柴崎コウ)の所に春彦(オダギリ・ジョー)が訪れ、卑弥呼が末期がんなので、世話をして欲しいと言います。

 卑弥呼はかつて沙織を捨てた実の父、春彦は卑弥呼の愛人でした。

 沙織の母は夫(卑弥呼)がいなくなって心労で病に臥し、間もなく亡くなってしまいました。

 沙織は父を嫌っていますが、母の医療費で借金があり、春彦がお金を払うというので老人ホームで働くことにします。

 沙織は初めは老人ホームに嫌悪感を持っていましたが、ゲイの老人たちと接するうち次第に気持ちの変化が起きてきます。

(ゲイというよりも、戸籍上の性と異なる性を生きている、「トランスジェンダー」〔*注〕としてのアイデンティティの問題を抱えた人が、中心に取り上げられていましたが。)

〔*注:明日のヤフーブログの記事参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/34207010.html〕

 周囲に事実を隠したまま歳を取り、死を目の前にするゲイの人の問題や心情を、ユーモラスにシリアスに描いていました。

 構築的なシナリオでもなく、エピソードが重ねられていくのですが、沙織たちの複雑でデリケートな心の揺れや、開放的なアクションによる表現に胸を打たれます。

 ゲイの人たちとの交流を通して、ラストは人と人との繋がりが感じられる佳作でした。

 柴崎コウがすっぴんのようなメイクダウンで好演し、オダギリ・ジョーがとてもかっこよく見えました。

 また、キスだけのラブシーンが無性に官能的でした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブロークバック・マウンテン」

2006年05月09日 18時58分16秒 | 映画
 
 アカデミー賞候補の「ブロークバック・マウンテン」、前回満席のため入れなかったので、観るのが1ヶ月遅れになってしまいました。

 男同士の同性愛の物語ですが、純粋なラブストーリーですね。

 1963年のアメリカ西部、雄大で美しいブロークバック・マウンテンで、

 イニスとジャックは羊の放牧の季節労働で出会います。

 無口で無骨なイニスと、天衣無縫でセクシーささえ感じるジャック。

 大自然の中で助け合いながら働く二人は、友情が高まって、ある夜、肉体的に結ばれます。

 映画では明確にしていませんが、ジャックは最初からバイセクシュアルだったのでしょうか。

 イニスはその時フィアンセがいましたが、ジャックによって同性愛に目覚めたのか、

 それとも今まで気付かないできたものが掘り起こされただけなのか。

 当時は同性愛は罪悪視され、同性愛者は陰惨なリンチにあって殺されるほどだったので、

 同性愛を抑圧したまま生きてきてもおかしくないでしょう。

 イニスもジャックも社会的にはそれぞれ女性と結婚し、子供ももうけ、平凡な家庭を持ちます。

 しかし自分の感情に正直なジャックは、イニスへの愛情を断つことができず、20年に渡って二人の関係を続けるのです。

 同性愛が認知される時代であれば、女性と結婚して表向きの立場を維持する必要はなく、

 二人だけの生活という道を選ぶこともできたでしょう。

 それが許されないために、不倫という形で男同士の愛を全うしなければならなかったのですね。

 そのために家庭にも亀裂が入っていくという、不幸な結果を招かざるを得ませんでした。

 同性愛といえども、異性同士の恋愛と全く変わりがありません。

 相手を恋い慕う熱情あり、すれ違いやいさかいもあり、主人公が男と女なら、普通のラブストーリーと同じなのです。

 時代が許せば、もっと平穏な人生があったのかもしれません。

 人は常に時代や社会に縛られて生きていかなければならない、そんなメッセージも感じ取ります。

 真っ青な空に、絵に描いたような白い雲が浮かび、緑の草原や岩場が広がるブロークバック・マウンテンは、

 どこまでも美しいのでした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日比谷公園・松本楼--百年の歴史

2006年05月08日 21時52分40秒 | Weblog
 
 日比谷公園の木立の中に、松本楼という老舗のレストランがあります。

 日比谷公園は心子とも何度か行ったことがある場所です。

 日本で初めての洋風の公園で、当時は松本楼でカレーを食べて珈琲を飲むのが時代の最先端だったそうです。

 新聞のコラムに、この松本楼のことが載っていました。

 今からちょうど百年前、日露戦争の講和条約に反対する勢力が松本楼での会合を企てました。

 警官隊と衝突し、焼き討ちなど3日間に渡る騒乱が続いて、多数の死傷者が出たということです。

 その後も松本楼は、関東大震災での消失、米軍の接収、過激派の焼き討ちなどを乗り越えてきました。

 今では花々が咲き誇り、昼休みにOLたちがくつろぐ日比谷公園に、そんな歴史があったとは知りませんでした。

 松本楼の3代目社長はこう語ります。

「百年たって漸く平和な公園になった」と。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミイちゃんのプレゼント

2006年05月07日 20時01分55秒 | 心子、もろもろ
 
 心子は学生もしていました。

 大学ではミイちゃんという、アメリカ育ちの日本人の友達がいました。

 ミイちゃんは留学で来日したのですが、日本にまだ馴染めない彼女に、心子のほうから声をかけました。

「May I help you?」

 心子はオーストラリアでホームステイしていた経験があって、日常会話程度の英語はどうにかできます。

 そのときからミイちゃんとの親交が始まりました。

 島国根性の日本人の中で閉塞感を感じていた心子は、リベラルで自立的なミイちゃんと価値観が合い、一番親しくなりました。

 心子は日頃から、自分はアメリカのほうが合うと言って、渡米を望んだりしていました。

 ミイちゃんは心子よりずっと年下ですが、背も高くてリーダーシップがあり、子供っぽい心子のお姉さんのようにしていました。
 

 心子と僕が付き合いはじめて間もないころ、ミイちゃんが心子にプレゼントをくれたといいます。

 おしゃれなパックに入ったコンドームでした。

 そのとき心子と僕は、まだそういう縁がありませんでした。

 ミイちゃんは、奥手の心子と僕の背中を押そうとしていたのです。

「こんなの冗談だよ」

 心子はコンドームのパックをポイと放って笑いました。

 それからしばらく経ったクリスマスの日、僕の部屋で二人でイブを祝いました。

 夜になって、僕は思い切って言ったのです。

「ミイちゃんのプレゼント、使わせてもらおうか?」

 心子はびっくりした顔を見せてどぎまぎしていました。

 心子と抱き合い、そして、その日、僕たちは初めて結ばれました。

「……やっと、ここまで来られたね」

「ひとつになった……」

 そう言って心子は胸を一杯にさせたのでした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦場のアリア」(2)

2006年05月06日 10時09分40秒 | 映画
 
 戦争という場で会わなかったら、本来こうして心を通い合わせることができるはずの人間同士なのです。

 それが互いに憎み合い、殺し殺され合わなければならない。

 悲惨な戦闘シーンとは別の形で、戦争の空しさや無意味さを感じさせられました。

 人としての友情でつながった両軍の指揮官は、自国の攻撃から相手軍を守り合うようにまでなります。

 それが本来の人間の自然な姿でしょう。

 しかしながら、現地にいない軍上層部や教会から見れば、彼らの取った行動はとんでもない反逆行為であり、非国民です。

 ミサを行なった神父をはじめ、指揮官や兵士たちは全員処罰されるのでした。

 そして、こういう事実は戦争の記録としては抹消されました。

 ところが兵士たちが故国に送った手紙などから史実が明らかになり、こういうでき事は実は各地で起こっていたということが分かってきたのです。

 血で血を洗う戦禍の中でも、人間は平和や友情を求め、相互に信頼し合える存在なのですね。

 まさに戦場で起きた、奇蹟の真実でした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦場のアリア」(1)

2006年05月05日 19時01分27秒 | 映画
 
 第1次大戦中の実話を元にして創られた映画です。
(何か戦争映画の感想が多いですね。 (^^;))

 フランス・スコットランド連合軍とドイツ軍が、至近距離で銃撃戦を交えるフランス北部の戦場に、クリスマスイブが訪れます。

 ドイツから戦地に送られてきた10万本のクリスマスツリー。

 ドイツ兵たちはそれを塹壕の手前に飾って、クリスマスイブをささやかに祝いました。

 ドイツ兵の中のテノール歌手が、仲間のハーモニカに乗せて「きよしこの夜」を披露します。

 その歌声がスコットランド軍の塹壕まで聞こえてきて、スコットランド兵の一人が歌にバグパイプの音色を重ねました。

 そのとき、敵同士だった兵士たちの心がつながるのです。

 テノール歌手は1本のクリスマスツリーを手に塹壕の外へ出て、歌いながら敵軍のほうへ歩いていきました。

 スコットランド軍も彼を攻撃することなく迎えます。

 フランス軍も加わって臨時に指揮官たちが協議をし、しばしの休戦が成立するのです。

 きのうまで殺し合っていた者の間でこんなことが起きるのかと思いつつも、とても自然な感情の流れでした。

 フランスのシャンパンで乾杯し、兵士たちは皆入り交じって、片言の英語や相手国の言葉で語らい合うのでした。

 兵士の中にいた神父は、その場でミサを行ない、全員で神の愛を祝福します。

 テノール歌手に会うため現地に来ていた恋人のソプラノ歌手も、天使のような澄みきった声で聖歌を歌い上げます。

 その美しさに涙する心の琴線は、荒々しい兵士であろうが、敵味方の国の人間であろうが、変わりはありません。

(続く)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬も人格障害? 

2006年05月04日 18時01分24秒 | ボーダーに関して
 
 僕の元の実家は、親父が亡くなったあと僕の兄が相続して、一家で住んでいます。

 きのうはゴールデンウィークで、兄貴に誘われ食事をごちそうになってきました。

 兄貴の家では最近犬の子を買いました。

 パピヨンの「コタロー」といい、4ヶ月です。

 でもよく具合が悪くなるそうで、ストレスからか2日間エサを食べないで点滴を打ったり、チック症みたいにふるえたり、目ヤニが出たり。

 獣医さんに話を聞いて初めて分かったそうですが、昨今のペット事情によるものがあるようです。

 ペットショップでお客が犬を見て買いたいという衝動に駆られるのは、生後1~2ヶ月のかわいいときだそうです。

 そのため、小犬は生まれるとすぐに親から離されて、ペットショップに送られケージに入れられます。

 つまり実の親に育てられ、スキンシップが与えられる期間がないのです。

 本来の親子の愛情を得られず、犬としての“アイデンティティ”も育たないということです。

 その結果不安定になってしまい、ストレスを抱えて体の不調などが現れるそうです。

 まさに人間の境界性人格障害と同じです。

 犬といえどもやはり親の自然な情愛が必要なのです。

 こんなところでも愛情の大切さが証明されるのですね。

 犬の場合は人間ほど複雑ではないのか、飼い主が充分に愛情を与えたりしつけたりすることで、一人前に育っていくようですが、

 人間の一時的な都合で、ペットが受難の時代になってしまっています。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つつじ祭り

2006年05月03日 10時06分56秒 | 心子、もろもろ
 
 近くの神社のつつじ祭りに行ってきました。

 拙著にも書いた、花見のとき心子と甘酒を飲んだ所です。

 彼女を偲んで甘酒を味わいました。
(おいしかった( ^^) )

 このつつじ祭りには、心子とも一緒に行きたいと思っていたのですが、その時分彼女は長い引きこもりに入っており、それは叶いませんでした。

 神社には「ねがいぶみ」というのがありました。

 願い事や感謝,誓いの言葉などをしたため、初穂料を添えて祈願箱に入れるものです。

 「境界に生きた心子」が一人でも多くの人の目に留まって、彼女の生きた証が伝わり、そして境界性人格障害に関する理解が深まることを願いました。

 心子はクリスチャンでしたが、僕は特定の宗教を信仰していないので、神様は共通の存在だということで、彼女にも分かってもらえるのではないでしょうか。( ^^;)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「境界に生きた心子」をセミナーで発表

2006年05月02日 15時54分34秒 | 「境界に生きた心子」
 
 参加している「ユング心理学研究会」のセミナーで、先日僕が「境界に生きた心子」をテーマに発表をしました。

 内容は拙著のこと、このブログにある記事をうまくまとめたものです。

 セミナーは出席者15人ほどでしたが、大学講師,臨床心理士,学生,主婦など、色々な人が参加している会です。

 皆さんに関心を持っていいただき、充実した時間を持てました。

(会場で拙著が2冊売れました。 (^^)
 あと1冊は物々交換です。 (^^;))

 当日の出席者からいただいた発言を、いくつか紹介させていただきたいと思います。
 

 まず、青山学院大学講師・裏千家専任講師のKさん(http://tea-therapy.com/auther/index.html)のご意見です。

『人間は現実には得られない癒しのストーリーを別の場所で作ることによって、人生の意味を補償するものだ。

 心子はこの世では自分を癒すストーリーを作れなかったが、「境界に生きた心子」を書くことによってそれが補償される。

 「境界に生きた心子」をどう描くかということが、心子の生に還元される。

 心子が幸福だったか不幸だったかは、「境界に生きた心子」がどう描かれるかに関わっている。

 「境界に生きた心子」がどう評価されるかということと、心子がどう生きたのかということは関わってくる。

 心子の人生がどう展開したかということは、筆者が「境界に生きた心子」を書くことと連続している。

 心子の人生が終わってから書いているというのではなく、心子の治癒のプロセスは今も続いている。』

 とても興味深いご意見で、拙著を書くということはこういう意味もあるのかと思わされました。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする