一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ぜんぶ、フィデルのせい』

2008-02-13 | キネマ
ここでいう「フィデル」とはキューバ革命の指導者フィデル・カストロのことで、映画はちょうどその頃1970年代のパリを舞台にしています。


主人公のアンナはボルドーでシャトーを持つおじいちゃんと、弁護士の父親、「マリ・クレール」の記者の母親を持ち、立派な家に住んでいます。
ところがスペインのフランコ政権の弾圧から逃れた親戚母子が家にかくまうことになったのをきっかけに父親はチリのアジェンデ政権と民主化運動支持に、母親は妊娠中絶合法化運動に力を入れだし、一家の生活は一変します。
狭い家に引越し、いつも家にはヒゲをはやした活動家があつまり、仲の良かったお手伝いさんはクビになってつぎつぎと変わり、という中でのアンナの困惑と不満が頂点に達し・・・


主人公のアンナはそれぞれの大人の言うことを聞きながらも、そして何でこうならなければいけないのか、逆にこうしろと言われて従ったつもりなのになんで怒られるのかに日々納得がいきません。
アンナ役を演じる子役の眉をしかめて真剣に考えている表情が最高で、それを子供の視線に立ったカメラワーク(デモ行進のシーンは象徴的です)が印象深くしています。


子供はひとつの価値観に縛られずに逆にすべての事象に対して純粋(ある意味原理主義的)に反応します。それが現実とぶつかりあって妥協を知ることで「大人になる」のですが、この映画は「正しいことは何か」から入る一方でそれを自己の正当化の論理立てとして使いがちな大人と子供の視点を対比することで、大人のあり方を描き出している映画でもあります。

大人たちの主張する「正しいこと」と行動とのギャップを意図せず指摘するアンナや進歩的でありながら子供には思わず権威主義的に当たってしまう両親のセリフなどはとても楽しめます。

また、自分の立てたテーゼに縛られない子供ならではの適応力の強さも見どころです。
仲の良かったキューバ人のお手伝いさん(彼女が「ぜんぶ、フィデルのせい」と言った人)から、両親の「政治的難民を助けるという人道的見地」からお手伝いさんがギリシャ人、ベトナム人ところころ代わっても、アンナはそれぞれのお手伝いさんからそれぞれの国の天地創造や神様の話を共通項に仲良くなっていきます。
(このあたりは監督のカトリック系教育へのアンチテーゼという意味もあるのかもしれませんが。)


主人公の演技、シナリオ、カメラワークとそろっお勧めの映画です。


※公式サイトはこちら










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