一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

株を持つと手に入れられるもの(ドンキvsオリジン、一澤帆布)

2006-02-17 | M&A
ドン・キ、オリジン株51%取得を目指す
(2006年 2月16日 (木) 23:28 読売新聞)

ドンキホーテによるオリジン東秀株のTOBは失敗に終わりましたが、その後、ドンキは約15.28%のオリジン株をを市場にて取得し約46.21%を保有、さらに過半数を目指して追加取得する考えを示しました。

これに対してオリジン東秀は「ドン・キホーテによる一連の行為は、証券取引法に違反するか、ないしは証券取引法の改正作業中の法の不備をつく著しく不適切な行為である」として証券監視委員会に調査要請をしました(オリジン東秀のリリースはこちら

一方でドン・キホーテは、今回の取引は適法かつ適切である、と番越しの意見書つきで主張しています(ドン・キホーテのリリースはこちら

証取法上のTOB規制は、1/3を超えるような株の取得は市場で買うかTOBによる、というものですが、1/3直前まで市場外で買い増して、極端に言えば最後の1株を市場で買うような行為(ライブドアがニッポン放送の株を買ったような)は脱法的であるが違法ではないということで、現在証取法の改正が議論されているわけですが、オリジンの主張はドンキの今回の市場内での株取得はTOB前の市場外での株取得と一体のもので、まさにこれにあたるというものです。

一方でドンキの主張は、取引の一体性を否定すると共に、まだ法改正の方向も決まっていないこと、イオンの対抗TOBも設定株数がドンキが応じなければ意味がないのに打診すらなく、ドンキのTOBを妨害することのみを主目的としているではないか、などと反論しています。

素人の感想としては、今回のドンキの行為は形式的には違法でないですし、これがダメ、となるとTOBに失敗した企業は市場での株の買い増し自体も制限されてしまうわけで、そこまでは言えないと思います。
そもそもTOB規制は市場への不意打ちを規制する趣旨なので、既にTOBの時点で保有株数や取得の意図を明確にしている以上、不意打ちでもない訳です。
イオンが市場で買い増せないTOB期間中に行った事がフェアでない、という議論もあると思いますが、対抗しているTOB当事者以外がキャスティング・ボートを握って高値で買い取り請求しようなどと見込んで市場で取得するケースもあるので、そこはホワイトナイトとしてTOBという手段を選択した時点で覚悟の上アンフェアとまでは言えないんじゃないかと思います(イオンはドンキのTOB期間中に市場で買ってからTOBという戦術もとれたわけで)
また、TOB失敗時にドンキは「今後再度のTOBは行わない」と発表したことも問題にされていますが、ただ、企業はすべて手の内を公表する必要もないわけですし、逆に「市場内で買い増す」などと言ってしまうと、逆に風説の流布になるのでは、という問題もありますね。


ところで法律論はさておき、ドンキはこうまでしてオリジン株を買うメリットはあるのでしょうか?
持ち帰り弁当店という業態は資産としては店舗(借家権)程度しかなく、商品開発力と従業員教育などのマンパワーが重要な経営資源だと思います。それなのに、現経営陣から労働組合まで反対している中でむりやり子会社化しても、シナジーは生まれるのでしょうか。
かえってやる気のない会社をグループに入れただけ、になってしまうように思います。


これのもっと極端な例が、今週号のAERAに載っていた一澤帆布の内紛です。

一澤帆布は女性を中心に人気のある京都のカバンメーカーですが、先代が亡くなった際に家業を継いで社長をしていた次男が遺言を託され、それに基づき会社の株を相続したのですが、そのあとに長く銀行勤めをしていて家業には関係なかった長男が突然日付の新しい遺言を持ち出し、自分が株を相続する権利があると主張しました。
裁判の結果、新しい遺言の効力が認められ、長男は相続した株を元に次男を社長から更迭し、自らが新社長に就任しました。

これに対して従業員は全員、次男とともに別会社に移籍してしまい、そちらで製造を継続しているようです(一澤帆布のHPはこちら。トップページの左下の「一澤帆布スタッフからのお知らせ」をクリックすると経緯が書いてあります)

もともと次男は家業を継ぐ前9年ほど朝日新聞に勤めていたそうなので、AERAの記事も身内びいきが入っているかもしれませんが、一澤帆布の場合は職人やデザイナーが根こそぎいなくなり、取引先も次男の会社の方にしか卸さないと言っているらしいので、株を持った長男は工場などの帳簿に乗っている資産以外はカラの会社を買ったことになるわけです。
※次男の会社の「一澤帆布」の商標使用とか不正競争防止法などによる長男側からの攻撃などの可能性もありますがそのへんは置いておきます。


俗に会社は「ヒト・モノ・カネ」で成り立っていると言われます。
会社の株式を取得しても手に入るのは「モノ」だけで、「ヒト」がついてこなければ機能しません。
また「カネ」のうち資本は自分が株取得の対価として出しているわけですし、借入金は企業が機能しなければ借りつづけられるかもわかりません。

M&Aというのは取得した企業が当初(以上)の価値を生み出してはじめて成功なわけですから、特にノウハウや労働集約的な企業のM&Aは、従業員に歓迎されることが前提だということを改めて認識させられる例だと思います。
(なので村上ファンドなどは、資産の切り売りで投資を回収できる会社に絞っているわけですね)


※小説のドン・キホーテが突進した頃の風車は、羽根に帆布を張るタイプだったようで、これも何かの縁ですかね。
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理解すること、知ること、その前に関心を持つこと。(「絵はがきにされた少年」)

2006-02-16 | 乱読日記

毎日新聞のアフリカ特派員として95年から2001年までヨハネスブルグに駐在していた著者のエッセイ。

取材や生活を通じて知り合った人々と、それに向き合う著者の心の動きを素直な筆致で描いている。


「貧しいアフリカを援助しよう」という考え

アフリカといえば貧困、後進性、民族紛争、搾取、混乱であり、同情し、援助すべき対象として語られがち。
しかし私たちはそこに住む人々は自らのことをどう考えてに暮らしているのかについて知る機会はほとんどない。また、援助だけではとてもすべてを助けられないほどの絶望的な貧しさや混乱に対してどのように向き合っていくのか、ということについて、真剣に考える機会も少ない。

表題になったエッセイは、70年前の少年時代に英国人が撮った自分の写真が絵葉書になっていたことを知り、それを今も大切に持っている老人の話。
老人は言う。

「あの英国人も、これまで見た外国人も、それにあなたも、この国にやってきて、ほんのわずかの時間ですべてを見てしまう。・・・私たちが一生かけても見ないものを。・・・たいしたものだと思いますよ」
「でも、私たちにはそれができない。どうしてだと思います?」
「貧しさ、そう、思いますか。そうかもしれませんね。でも私はそうは思いません。仮に我々に、お金と暇があったら、どうするでしょうか。あなたの国に行ったり、欧州をくまなく歩いたりするでしょうか。そんなことしないと思いますね。多分その山の向こうにさえ滅多に行くことはないでしょう。・・・あの山の向こうのことを知りたいとも思いますが、それより家族や友人たちとうまいものを食べ、話をしているほうがよほどいい。気質でしょうかね」
「"inquisitive"(知りたがり、好奇心が強い)という言葉をご存知ですか。欧州人や日本人はそれでしょう。でも、我々は違う」
「で、あなたはどう思います。インクィジティブなのとそうでないのと、どちらが良いんでしょうか」
「そう、これは難しい問題です。好奇心旺盛であちこち見て回れば物の見方も豊かになり、お金も儲かるかもしれませんが旅行をするにはお金がいる。でも、そうでなければ、お金など大して使わずに暮らしていける。私が子供のころは、お金なんて、ないも同然でしたから」

また、筆者は「貧困」を目の当たりにしておきる「助けなきゃ」という条件反射的な情動、「"予定調和的"ともいえる流れ作業」についてこう書く。

 ぼんやりとアフリカの貧民街を眺め、望遠レンズで貧しげな子供の絵を切り抜いているとき、「何とかしなくては」という思いは涌きやすい。しかし、目をこらしてそこに暮らす一人一人の生活をのぞき、その中に降り立ってみたとき、空気がすっと変わり頭の中の霧が晴れる。そしてそこで数日間も暮らしてみれば、次第に自分の周囲がごく普通のものに見え始める。そして「何とかしなくては」という切迫感はいつの間にか消える。
 つまり、対象についての知識がないほど、「助けなくては」というメッセージは響きやすい。そして、それを伝えられたものは上野の横断歩道にいた小学生の私のように、条件反射的にポケットに手が行く。

 漠然と無数の人々への援助を考えるよりも、救うべき相手をまず知ることから始めなければならない。先進国の首脳会議などの会場を取り囲み、「貧困解消、貧富の格差の是正」を叫ぶ若者たちがいる。こうしたエネルギーを見ていると、一年でいいからアフリカに行って自分の暮らしを打ち立ててみたらいいと思う。一人のアフリカ人でもいい。じぶんが親しくなったたった一人でいい。貧しさから人を救い出す、人を向上させるとううことがどれほどのことで、どれほど自分自身を傷つけることなのか、きっとわかるはずだ。一人を終えたら二人、三人といけばいい。一般論を語るのはその後でいい。いや、経験してみれば、きっと、多くを語らなくなる。


南アフリカの白人


今でも南アフリカには差別の残滓が残っているし、貧富の格差は圧倒的で、治安は悪化の一途をたどっている。
筆者は、アフリカ生まれの白人は、欧州生まれの欧州人と明らかに違い、皆厳しい顔をしている、そしてそれは彼らが単に先住民を搾取し、自らの特権を謳歌していただけではなく、何代にもわたり、アフリカ人ばかりの土地に住み着いているなかでしみついた彼ら自身の孤独と戦っているからではないか、という。

もともと南アフリカには17世紀にオランダ系の移民が最初に移り住んできた。彼らは自らを欧州と切り離し「アフリカーナー」と自称していた。それをイギリスがボーア戦争(1899~1902)で奪い取り、植民地とし、アフリカーナーたちは英国系白人の下で差別されるようになった。
第二次大戦後植民地の独立の動きの中で、アフリカーナーにも民族独立の気運が高まり、1948年にアフリカーナーたちの白人国家が生まれた(ここがアパルトヘイトの発祥のように言われるが、もともと白人以外の人種を差別する法律は19世紀後半までさかのぼる)

南アフリカの白人は、自らも差別・搾取され、また差別・搾取してきた歴史、そして貧富の格差、治安の悪さ、という現状を受け入れながら生きている。

2003年にノーベル文学賞を受賞した南アフリカの作家J.W.クッツェーの「恥辱」を読んだときに、怒り、贖罪、諦観が入り混じった「ざらついた」感触が残った記憶がある。

本書でも著者の妻が自宅の入り口で強盗にあった話の中で、クッツェーの著書を引用している。

<なにかを所有するというリスク。車、靴、ひと箱のタバコ。なにもかも行きわたるほどは無い。車も、靴も、タバコも。人が多すぎ、物が少なすぎる。ここにあるものを使いまわしていくしかないのだ、誰もが一日でも幸福になれるチャンスを得るには。それが理屈だ。理屈を死守し、理屈の慰めにしがみつけ。これは人間の悪業というより、たんなる巨大な循環システムなのだ。その営みに、憐れみや恐怖は無縁だ。この国では、人生をそんなふうにとらえねばならない。おおむねのところ。そうでもしなければ、頭がおかしくなってしまう。車、靴、それに女もだ>


ルワンダ

ルワンダにおけるフツ族とツチ族の争いは、ツチ族の王政からベルギーの植民地時代までのツチ族によるフツ族の支配までさかのぼる。そして独立後のフツ族の政権下でのツチ族の追放・弾圧。そしてツチ族の国外からの侵攻に対抗したフツ族によるツチ族の大虐殺と、政権奪取後のツチ族によるフツ族の虐殺、と今に至るまで民族間の憎悪・対立が続いている。
傍からは外見も変わらないように見えるが、ツチ族はフツ族を「教養がなく、鼻がつぶれているなど人目でわかる」という。
筆者の問いかけに答えたフツ族の老人の言葉

「ツチとフツの違い?そりゃ、神様だけが知っている謎ですよ。」
「ツチとフツがなぜ戦うかって?そりゃ、あなた。あっちの畑を見てみなさい。例えば、いつも角を突き合わせている牛が二頭いるとするでしょ。その牛たちに、お前たち、何でケンカしてるんだ。そう聞くようなものですよ」


アフリカについては、たまに取り上げられる飢餓や地域紛争以外はほとんど何も知らない、というのが正直なところです。
なので、飢餓や貧困の問題にしろ、民族紛争にしろまずはステレオタイプの理解をする前に、現実を知ること、から始めることが重要だとは思います。

そう考えると、アフリカについては取り上げられる機会も情報も圧倒的に少ない、というところが一番の問題なわけです。

なので、まずは関心を持つことから始めなければいけない、というところに、アフリカの遠さを改めて感じてしまいます。


これは、ラテンアメリカ諸国やパキスタンやアフガニスタン、チベットや新彊ウイグル自治区などの中央アジアについても言えることかも知れません。


タイトルは児童向け啓蒙書風ですが、問いかけは重い本だと思います。

絵はがきにされた少年

集英社


恥辱

早川書房


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住友信託の目論見についての邪推(UFJvs住友信託)

2006-02-15 | 法律・裁判・弁護士
UFJvs住友信託の損害賠償請求事件の一審判決については昨日の記事でちょいとふれたのですが、正確な理解のためには専門家のブログをご覧いただくとして、私としてはtoshiさんろじゃあさんのところで一瞬盛り上がった「法律事務所(弁護士)のビジネス・モデルのありかた」的な切り口から野次馬的な感想を。


法律的な争点としてはすごくざっくり言えば、住信側が履行利益(合意書どおりに経営統合が実現された場合に得られたであろう利益)の損害賠償(2000億は下らない!)を主張したのですが、これは認められず、また、信頼利益(契約の成立を期待して交渉をすすめたのにドタキャンされて無に帰してしまった費用など)については裁判所はこの点についてはUFJの義務違反があるとしながらも、住信側がその賠償および損害額を主張・立証しなかったので、損害賠償を認めなかった、というものです。


今回の訴訟の住信側の弁護団長である升永弁護士は、青色ダイオード事件で中村氏の代理人であるとともに「高額納税者に登場される著名な先生」((C)toshiさん)であり、また何かと記者会見を開いて新聞などに登場することでも有名です(プロフィールはこちら)。
でもそもそも升永弁護士は知財の分野が専門のはずですし、仮処分事件においては住信の代理人にはなっていなかったと思います。

そこで今回の損害賠償請求訴訟に弁護団長として起用した住信の意図についての邪推。


住信としても今回の訴訟は取れて信頼利益(多くて数千万程度?)というのは最初から承知しているはず。
ただ最初からそれだけだと仮処分も却下され、東京三菱との経営統合を止められなかった後の敗戦処理の色あいが濃い訴訟になるので世間体上もみっともない。
なのでここはひとつ升永弁護士の「ケレン」に期待して華々しくぶち上げてもらい、「企業として筋を通した」という形にしたい。
そのために履行利益として2000億という巨額の請求をし、一度は「名誉ある敗北」を甘受する。
そして高裁で信頼利益の主張をして和解で決着をすることで「精一杯やりました」感を出すというあたりを落としどころとして狙っているのではないでしょうか?


PS うーん、言い訳になってしまうのですが、当初この倍くらいの文章を自主検閲した結果「目黒のサンマ」の殿中で出されたサンマのような記事になってしまいました。反省。
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「日本的慣行」の問題?(UFJvs住信判決)

2006-02-14 | 法律・裁判・弁護士

昨日のUFJvs住友信託の東京地裁判決については、事実関係について詳しく知らないので判決を見てから、などという当事者みたいな前置きになってしまうのですが、 Nikkei Net

金融大再編を舞台にした異例の法廷闘争で、基本合意をほごにして旧三菱東京フィナンシャル・グループと経営統合したUFJ側に一定の責任を認めつつ賠償請求を退けた司法判断は、双方の信頼関係を重視し、違約金条項などを定めたがらない日本的契約やビジネス慣行のあり方に一石を投じそうだ。

とあるのは、整理としてどうかなぁ、と。

定型的でない大きい案件について確定的な合意をした場合には違約金条項を含めてきっちり契約書を締結するのは「日本的契約やビジネス慣行」においても同じだと思います。

ただ、交渉の途中においては、当事者間でどこまで拘束力を持った合意をするか、またはどの程度交渉が進んだ時点で契約を締結するかは(特に定型的でない案件においては)ケース・バイ・ケースです。一定の拘束力のある契約を締結しようとする場合も、そこに違約金条項を入れることで契約自体に難色を示されることもあれば、違約金額や違約の定義(=当事者の義務の範囲の明確化)について細かい議論に時間をとられてしまうこともあります。
なので、段階を踏んで徐々に拘束力の強い契約にしていく、とか、共同記者会見をして事実上翻意しにくくさせるとかいろんなことを考えながら商談をすすめていくわけです。

今回も、住信としては違約金条項がないなどの一定のリスクは承知の上で、基本合意書の締結を優先させるという事業判断をしたのではないかと思います。
それを「ビジネス慣行」で切って捨てるのはどうでしょうか。


それから、日経がこういうことを書くと、ただでさえアメリカ流の契約書が流行っている上に、さらに"MOU (Memorundom of Understanding)"とか"LOI (Letter of Intent)"などの用語が流行り、猫も杓子もその用語「だけ」を駆使して、「そろそろLOIを結んだらどうだ」とか「これはMOUなのかLOIなのか?」などという中身がないけど仕事しているように思える会話が飛び交う、という悪影響が懸念されます。
どういう内容の契約書を結ぶか、当事者の合意内容をどうやったら正確に反映できるかが問題なのに、「脱日本的契約」が目的にすりかわってしまっては意味がないですから。


ところで、最近定着した外来用語に「デューディリジェンス(due diligence)」というのがあります。
もともと株式とか不良債権とか不動産などを購入するときの事前の価値の精査をする作業のことを言うのですが、10年前は発音するのに舌を噛んでいた人たちまでもが「デューデリ」とか「DD」などと略称で言うまでに日常化しています。
ところがその一方で、サービスを提供する会社も増えた結果、コンサル会社+会計士+弁護士+税理士などの立派なチームをコストをかけて組成した時点で安心してしまい、デューディリジェンスがdueでも diligentでもない単なる手続き・発注作業になってしまっていることもたまにあるようです。


あまり「なんちゃって専門用語」は増えて欲しくないものです。



PS ちなみに私は仕事においては攘夷派でして、日本人同士の国内取引のときの不必要な英語やカタカナ言葉にはかなり厳しいです。
今日の打ち合わせでも出くわしたのですが、わざわざ「今日のアジェンダ」なんてタイトルをつける奴は許せないと思いませんか?

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メダルについての過剰な期待と勝手な落胆

2006-02-13 | 余計なひとこと
女子モーグルは、予選の上村・里谷を見ただけで、上位選手は見なかったのですが、後のニュースなどでは日本選手の滑走しか放送しないないので、上位陣とどれくらいの差があったのかがわからないのが残念でした。

上村愛子がトリノに向けて3Dに賭けてそれを本番で見事成功させわけで、本人としては納得いく滑りだったと思うのですが、それとメダリストの差がどれくらいのものだったのかも興味があります。
(後から皆言い出した)今の採点基準をべースにしても僅差だったのか、エアだけを完璧にしても上位陣のミスがない限りはメダルには届かなかったのか、というあたりを知りたかったですね。
この辺は総集編待ちでしょうか。



男女スノーボードは、メダリストのレベルと日本選手のレベルの違いが一目瞭然でしたね。


オリンピックの前評判の「メダルの期待」ってのももう少し冷静に世界レベルでどのへんにいるのかを分析したほうがいいんじゃないか、と思います。
根拠のない過剰な期待と勝手な落胆をぶつけられたら、選手もかわいそうです。


これは、マーケティングが不十分なまま開発された「画期的新製品(当社比)」というのに似ているんじゃないでしょうか。
社内的には新技術を投入したり、従来製品より性能が向上していても、ライバル製品がもっとよかったり、そもそも消費者ニーズにあっていなければダメなのですが、社内的に画期的だったり思い入れがあったりという内輪の理屈が判断をゆがめる事ってありませんか?
まあ、個人の努力なんかでもそうですけど・・・


PS 原田の失格って仕込んだネタではないかと疑っているのは私だけでしょうかw
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心配ある事情

2006-02-12 | よしなしごと
パン屋に寄ってブール(丸いフランスパン)を買いました。


(上の写真の左上のやつです)

これは中身の白い部分が多いので、ソースやオリーブオイルなどをつけるのにいいのと、皮も薄くてパリッとしていておいしいところが魅力です(しかもだいたいどこでも150~160円とバゲットやバタールよりも安い^^)
考えてみれば、球形が同じ表面積に対して体積がいちばん大きくなる形なので、中身の部分が多いわけなんですね。

球の表面積(4πr^2)と体積(4/3πr^3)の語呂合わせ「心配ある事情」「身の上心配ありて参上」などを思い出してしまいました。

※ ちなみにDONQのHPによると、この「ブール」(丸、ボール、という意味)が「ブーランジェ(パン焼き人)」「ブーランジェリー(パン屋)」の語源だそうです。



食後に、気になっていた寝室の照明の切れた電球を交換。
こんな形の器具なので

まずはガラス製の曲面でできたカバーをはずして、下(ベッドの上)に置いてから電球交換

と、手が滑って電球を下に落としてしまい、カバーと電球がぶつかり・・・

あろうことかカバーのほうが割れてしまいました(泣)

電球なんて直径3cm程度のミニクリプトン球で、かたやカバーはガラスの厚みが3mmくらいあるのに。普通なら電球の方が割れるはずでは・・・
電球の接点の方を下にして落ちて、先端(といっても丸まってるけど)の部分が当たったにしても、この程度の衝撃で割れるものなのでしょうか。

そうだとすると、寝ている真上にあるものですから、そもそもの安全性は大丈夫なのか心配になります。

ガラス製品の製法とかわからないのですが、曲面は凸面側は衝撃に強いけど凹面側からの衝撃には弱い構造だとか?
企業の内部告発じゃないんだから、そんなことじゃ困るんだけどなぁ・・・


まあ、文句を言っても仕方がないので、ヤマギワ電気に電話したところ、カバーの部分だけ取り寄せ可だったのが不幸中の幸い。


球面に一喜一憂した次第です。
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世代論の陥穽

2006-02-11 | 余計なひとこと
昨日の記事へのmomoさんからコメントをいただいて考えてみたのですが、

ホリエモンについては「若手企業家」とか「IT関連」が同じ穴のムジナ視されているのに、東横インの社長については世代論で語られないのはなぜなんでしょうか?


「オジサンは君たちと違って真っ正直に生きているから(エヘン)」
まさか・・・


ひょっとするとオジサンは既に汚れている、社会正義は期待できない、という共通の了解があるのかな・・・?

だから、世の中の会社の経営陣は大半が50歳代以上のオジサンなので「コンプライアンス」の重要性が説かれているのかしら?


世代論による批判を切り返されたとき、それぞれの世代はどう反論するのだろうか。
自分も胸に手を当てて考えてみよう。
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東横イン問題について前言撤回します

2006-02-10 | 構造偽装・東横イン

東横イン本社ビルは容積率2倍、解体作業に着手へ
(2006年 2月10日 (金) 20:34 読売新聞)

 大手ビジネスホテルチェーン「東横イン」の施設改造問題で、違法改造が判明している東京都大田区の同社本社ビルに新たな改造が見つかり、同ビルの容積率は建築基準法上の制限の2倍近くに達していたことが10日、同区の調査で分かった。

新たに判明した改造は、地下1階部分を新たな工事で約150平方メートル増やして倉庫にしていたほか、2~6の各階でも、1階部分の広さに合わせる形で約75平方メートルずつフロアを拡大していた。区によると、こうした改造は、同ビルが完成した翌年の1981年ごろに行われたという。

今まで、建築基準法の制度上竣工検査後の改造をすべて取り締まるということは事実上不可能ではないか、なので、東横インについても建築基準法違反という文脈だけで取り締まると個人住宅などへの社会的影響がおおきいのではないかな・・・という意見を持っていたのですが、ここまで来ると撤回せざるを得ません。

事業の規模に相応の責任感や品性を育むことができなかった愚かな企業は退場していただくほかないと思います。
(それにご追従した建設会社や金融機関の見識も疑いますが・・・)


さて、上記の従前の私見の前提は、建築基準法では竣工検査後の改造を把握する事は事実上難しい(個人住宅などはあえて竣工検査を受けないものも多いです。実際、国の統計でも「建築着工統計」はあっても「建築竣工統計」はないくらいですから)
ただ、竣工後も消防検査などは定期的に入るので、少なくとも不特定多数の出入りするホテルについて、消防設備や避難誘導設備のチェックはされているはずで、安全の検知からは一応行政は機能していたのではないか。
竣工後の改造工事はCSR・企業の見識という次元で議論すべきもの、というものでした。

ところがここまでの改造をしていたとなると、消防検査をどうやって通ったのかという疑問もわいてきます。
制度自体への信頼性も根底からゆらぐような感じもしています。

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開幕! トリノオリンピック

2006-02-10 | ネタ
といっても新しいネタを思いつかなかったので、昔のネタをご案内します。

既にご覧いただいた方、手抜きですみませんm(_ _)m

*******************

こちらをごらんください。
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 「731」 (または自己実現至上主義の危うさ)

2006-02-09 | 乱読日記
731部隊についてのまとまった本を読んだのは実はこれがはじめてでした。
前半は「豪放果断で宣伝上手な実行力のある軍医」と言われた石井四郎が、「(軍医の最高位である中将より上の)大将にならねばならん」と防疫給水の分野に目をつけ、そこからから細菌戦のアイデアで陸軍を説得し「日本ではできないこと」をやるために満州に巨費を投じて巨大(丸ビル14個半分の大きさ)な実験・研究施設をつくりあげるまでを描いています。

そして後半は、戦後石井が戦犯の訴追を免れるために隊員の面倒をみながら口裏合わせをするとともに極秘に持ち帰った研究データの提供を条件にGHQと駆け引きをする様子や、細菌戦のデータを他国に公開せずに密かに独占しようとする情報局と極東軍事裁判にかけようとする検察官とのGHQの中での騙しあいを、新たに発見した石井の日記や公開された米軍の文書を元に描き出しています。


そこからうかがえるのは、石井は細菌兵器や人体実験に魅せられたマッド・サイエンティストではなく、731部隊は石井にとっては出世の階段を上る手段だったのではないか、ということです。
それはGHQに集まったアメリカ人も同じで、マッカーサーにとっての占領軍総司令官という地位が文民統制のくびきを遠く逃れて自由になるための理想の居場所であり、極東軍事裁判は法律家にとっては正義の実現の場所である一方で、情報部の将校にとっては情報の独占を妨げる場に過ぎない、と各人各様の思いが交錯しています。

邪悪な(または不公正な)出来事は、個人の「本質的な悪性」を原因とするのではなく、目的実現のために手段の悪い面を無視することの積み重ねから起るのだな、と改めて感じさせられます。
戦時中や占領時代に起きた事を「異常時における異常者のおこなった異常な行為」として片付けるのではなく、私たち誰もが陥る可能性がある出来事としてとらえる必要があるのではないでしょうか。

その意味では731部隊も、ライブドアやヒューザーや東横インも同じ所に根っこがあるのかもしれません。


しかし今日でも雑誌やノウハウ本などで「単に会社に使われるのでなく、仕事を通じての自己実現をしろ」などと言われ、そのための転職や「起業」や「キャリアアップ」(って何を意味するのか良く分からないのですが)などが盛んに取り上げられています。

日本の社会は、自分自身の社会的責任を自覚せずに欲求のおもむくままの自己実現を貫徹することの悪性について、またもや無自覚になりつつあるのかもしれません。







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主義の問題でなく距離感の問題では?

2006-02-08 | よしなしごと
デンマークでのムハンマドの風刺画をきっかけにしたイスラム圏の抗議活動がエスカレートの一途をたどっているようです。

そもそもきっかけは風刺画の何に対して怒っていたのか、それがなぜデンマークという国単位への非難にエスカレートしたのかが曖昧なまま、怒りが怒りを増幅させてしまっている感じですね。

そもそも風刺画は何らかの批判を覚悟しているはずなので、それに対していきなり「言論の自由を守る」と他のマスコミが立ち上がったことが火に油を注いだのでしょうか。それとも最初の抗議から「発売禁止にすべきだ」というような批判があったのでしょうか。

ここまで来てしまうと山火事のようなもので自然鎮火を待つしかなさそうです。



この騒動で思い出したのが学生の頃友人から聞いた話で

友人達で駄話をしていたときに、その中のひとりが、
極真空手をやっている奴に向かって

   「大山マスカク」

というギャグをとばしたら、
いきなり殴られた

というもの。


真面目に空手をやっている奴相手に創設者をネタにしたギャグをかます事自体、リスクを承知のうえでの行動のはずなので、殴られた事自体には誰も同情しません。

また、殴った奴に対しても怪我をさせない程度に手加減しているのであれば、常識の範囲内の反応なので非難もしないわけです(ここで骨折などの怪我をさせるようだと、それはそれで「ギャグを言った奴も失礼かもしれないが、お前それはちょっとやりすぎ」ということになる)



卑近な話で恐縮ですが、ヨーロッパ諸国にもイスラム教徒はたくさんいるわけだし、お互い友達付き合いしようと思ったら、そういう距離感が必要だと思うのですが・・・




※この記事は極真空手を揶揄することを意図してはおりませんが、ご覧の方で不愉快な思いをさせてしまったらお詫びしますm(_ _)m
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東横インの社長は辞任しなければならないか?

2006-02-07 | 構造偽装・東横イン
(2/7一部加筆修正しました)

東横イン社長「自分が上等な人間だと増長して…」
(2006年 2月 7日 (火) 00:01 読売新聞)

テレビで、会見の映像を見ると、この社長は謝ったり反省した経験が極めて乏しい人なんだな、という印象です。


ところで記者会見で進退についても言及され、辞任する意思のないことがテレビでも非難がましく伝えられましたが、社長は辞任しなければならないのでしょうか?

多分東横インは非上場なので、社長または一族でほとんどの株を持っていると思うのですが、そうだとすれば、辞任する・しないで損をするも得をするもすべて自分なので、自分の意思に反してまで辞めなければならないということはないはずです。
昨日も少し書いたのですが、世間からの非難をしのぐためには反省(および世間への恭順の意を示すために)「辞任したほうが得策」だとは思うのですが「辞任すべき」とまでは言えないのではないでしょうか。


確かに違法行為は問題です。

ただ、建築基準法や条例違反については、行政が適切な監督措置をとるはずです。
行政が動かなければ国民として行政に建築基準法違反などで使用停止や保健所によるホテルの営業停止(これは根拠がないから難しいか?)を求めるべきだと思います。


またそれが公正な競争を阻害する、ということであれば、同業他社なりが自ら業界団体を通じてペナルティを課すとか、行政により厳しい罰則の適用を訴えるべきです。

企業活動では、こういう多少の不正を承知の乱暴な競争相手というのは常に現れます。
それに対し、いかに対処するかは企業の本来の仕事のはずです。
(自らのコスト競争力をつけて対抗しようと考えて結局総研に騙されてしまった京王プレッソはその判断を誤ってしまった例ですね)


そして、利用者としてけしからんと思うのであれば、どんなに便利でも安くても東横インを利用しなければいいだけの話です。

ただ製品の安全のように消費者本人が不利益を蒙るものについては直接的な非難が盛り上がりやすいのですが、「消費者は利益を得るが、第三者が(または社会全般が薄く広く)被害を蒙る」類型では、非難が具体的な形になりにくいという問題があります。
この「第三者」が日本国民(環境汚染とか脱税など)であればまだ社会問題化することもあるのですが、外国(環境汚染とか児童労働・低賃金労働)になるとそもそも意見が分かれたりもしますね。


要するに、問題の解決には「社長の辞任」は本質的な要素ではないのではないか、ということです。


「個人住宅などでの軽微な改造まで問題にされたくないが、こういうズルはやめさせてほしい」「自分は安くて便利なら使いたいけど、ちょっと気が引ける」という免罪符代わりに社長の辞任を求めるというような気持ちがあれば、それはちょっと間違っているのではないでしょうか。


「東横インの社長が辞任すべきだ」という発想の裏には、そういう自らの行動を回避する安易さが垣間見えるように思います。
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光麺六本木店

2006-02-07 | 飲んだり食べたり
今日(あ、もう昨日ですね)は六本木で昼飯どきになったのですが、フレンチだイタリアンだと高いランチを食べるような面子でもなく、寒空の下体が温まるラーメンにしようということに。

一蘭という意見もあったのですが、病み上がりの身としてはトンコツとウンチクに対抗する気力・体力に自信がないということで拒否権を行使し、(昼は大盛・味玉・半ライスetcから1つサービス、という謳い文句にもつられ)向かいの「光麺」六本木店へ。


最近あまり流行りのラーメン店に関心を払っていなかったのですが、光麺というのは池袋の激戦区を生き残った(勝ち抜いた?)有名店だそうです。
六本木店は最近のオープンとか。

店は黒を基調にした内装。カウンターの向かいに小さな液晶モニターがあったりします。ただメニューやPOPがコテコテなのがちょっと不釣合い。


とりあえず要領をえなかったのでお勧めの「全部のせ」を注文。
玉子・チャーシュー(炙ってある)・ノリ・メンマ・揚げニンニク・炒め葱・ちんげん菜・角煮で構成されています。


写真では具がはみ出しているように見えるかもしれませんが、なぜか具だけが皿に盛ってあって、皿の下にドンブリに麺とスープが入っています。

つまり
 つけ麺=(スープ+具)+麺
に対して、
 全部のせ=具+(スープ+麺)
というわけです。
※ちなみに別にある「つけ麺全部のせ」は、具+麺+スープでした。
 店主は順列組合わせが好きなのでしょうか?

せっかく別盛だったのですが、明太子とか紅しょうがなど入れると全体の味が変わってしまいそうなものがないので、いきなり全部投入して食べます。

スープは醤油味でさっぱりしたもの。ちょっとさっぱりしすぎかな、というくらいです。
具も揚げニンニクがアクセントになる以外はあまり個性を主張せず、まとまった感じでした。

これだと、ぜひもう一度という感じではないな、と思いながら帰ってきてググッてみたところ、トンコツスープの「熟成光麺」がお勧めだったらしい・・・

今度機会があれば再チャレンジしてみます。



しかしこの店のHP何だかなぁ・・・
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世の中のしくみについての雑感

2006-02-06 | よしなしごと
昨日は風邪を初期症状で食い止めるべく、一日何もせずごろごろ。
で、とりとめもなく考えた事を。


そもそも人がゆっくり寝ているときに限って新聞の勧誘やらがくる。
それも、今取っている新聞の契約が4月で切れるので更新して欲しいとのこと。

実は2週間前にも販売店の人が来て同じことを言っていた。
そのときは別に新聞を変えるつもりはないけど、3ヶ月前なんて早すぎるんじゃない?(それに、1年契約って言っても中途解約できるんだし、意味ないじゃん)と言ったところ、先方は「いやぁ、勧誘員の人が契約しちゃうとその人に手数料払わなきゃなんなくて・・・」と。
でも、それってそもそもインセンティブの設定の仕方がおかしいんじゃないの?と言うと、「本社のルールなんですよねぇ」だと。
それなら、勧誘員とは契約しないから4月に来てね、と断った。

今回、販売店の言うとおり、勧誘員のご来訪。丁重にお引取り願う。

最近新聞で「格差の広がり」などの特集を見かけるが、自分が末端で使っている勧誘員(歩合と言う事は基本給はかなり低そうだし、雇用でなく業務委託という雰囲気)などの問題はどう思っているのだろうか。
NHKの受信料の徴収人も似たような雰囲気だし。



あとは本を読んだりテレビを見たり。

改めて東横インの社長の当初の記者会見の様子を見る。

「こういう人、中小企業の社長によくいるよなぁ」というのが率直な感想。
会社を大きくするワンマン社長なんてものは、ルールも見つからない範囲で誤魔化そうとするし、税金はできるだけ節税しようとするもので、社会的責任というのはよくて顧客満足と同義(東横インはその程度の意識はあった)という程度の認識なんだと思う(少なくとも僕の知っている人にはそういう人が多い)。

それで、株式を公開するとかいう段になって、急にコーポレート・ガバナンスだ内部統制だCSRだなんだと意識するのが普通なんじゃないだろうか。

それがいきなり「社会的責任」という文脈で取りざたされたもので、戸惑っていた、というのが正直なところではないか。「制限速度60キロを67、8キロで」というのは素直な感想だろう。

そうやって無防備に記者会見に臨んでしまうというところが、東横インという企業の限界(社長の想像力であったり、ブレーンの不在であったり)なんだろう。


ふと「企業の社会的責任」とは何か、と改めて思う。


ライブドアのような上場企業は、証券取引法などの規制を当然遵守しなければならない。
それは当然。

新会社法では、大会社について取締役会の内部統制システム整備義務をうたっている。東横インは規模的には多分これにあたる。
でも、株主が社長だけ、とか同族だけだとしたら、今回の事態について誰も責任を問うことはない。そういう会社は「そんな面倒くさいシステムを構築しない」という意思決定をする、ということなんだろう。

となると、東横インで問われているのは建築基準法や条例違反の話か?
ただ、「事後的な改築はわからない」と行政もお手上げだし、個人住宅などでの軽微な違反はけっこうある。
どの程度が許される軽微な違反なのか?
個人は良くて法人はだめなのか?どの程度の規模の企業から守らないといけないのか?


結局、突き詰めて言えば、東横イン問題は「記者会見で下手打った」のがいけなかったという広報戦略の誤りというだけの問題だったのかもしれない。

① 「正義の味方」マスコミがある企業の「不祥事」をあばく
② 企業はそれについて「深く反省」し「原因究明と再発防止」につとめる
③ 反省(恭順)の意を確認したマスコミ・世間は「これを教訓にしっかり社会復帰するんだぞ」と「許し」を与える。

という基本の「儀式」を踏まえていればよかったのだろう。


こういう「世間の目」のメカニズムが企業がCSRを意識した活動をすることにとって、底上げという点ではプラスになるのかもしれないが、逆に「うまく立ち回れ」という意識をもたらさないだろうか。それは消費者などの被害を事前に防ぐ方向には働かないようにも思うが。

まあ、今の段階では「マスコミに出たらまずい」基準でも企業に自制が働くのをよし、とするのかな。
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「シンデレラマン」

2006-02-04 | キネマ
どうも先週中盤から風邪の初期症状が出ていて、早めに厚着+葛根湯+時差通勤などでごまかしつつ週末まで持ち込んだので、今日は回復にあてました。

で、元気付けにレンタル開始早々の「シンデレラマン」を借りて観ました。

そもそも予告編がとてもよくできていたので、ストーリー自体は分かっているのですが、144分ときっちり時間をかけて芸達者たちが作った映画として楽しめました。

ラッセル・クロウは今や仕事を選べる大スターですが、ボクシングのファイト・シーンもスタントを使わずに自分で演じている部分も多く、さすがの存在感でした。
(ラッセル・クロウをはじめて知ったのは「インサイダー」でですが、最近は役を選んでますね。まあ、「ラッセルクロウ演じる〇〇」になってしまわないできちんと役を演じるスタンスを堅持しているのなら立派です)

監督のロン・ハワードも久々の作品なんじゃないかと思うのですが、こういうストレートに感動させるものを作らせると上手ですね。
マイケル・ベイの手になる「大作」(ライブドアの「時価総額」に似てません?)とは一味違います。


まあ、今日は養生のためにここいらへんで切り上げて、早めに寝るとします。






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