早朝(4時かな?)はまだ明けきらなくて、薄闇が張っている。
それがしだいに6時前後には陽の光りで満ちてくる。
部屋の隅々にいた、得たいの知れない物の類が徐々に姿を消していく。
これは単に、光りに透けて視え難くなるだけで、まったく姿を消し去るのとは違う。
我が家は1年中、こういう気配に満ちていて、集まってこれる素因があるのかな・・・と心中複雑である。
実家の両親が、高齢に加えて余病を併発し、田舎での暮らしが困難になってきたことで、兄妹間の行き違いが現れてき始めた。
現在の介護状態では、お金がない事には、世話はできないし、どんなに気持ちがあったとしても追いつかない。
考え方の極端な差も、自分達の家庭があってこそ、というのと、せめて生きている間、できることを精一杯という思いだけでは成り立たない。
枇杷茶でいろいろしてあげていても、それは余計な事だと罵声を浴びせられる。
それを聴いている親の萎縮した姿には哀しみしかない。
今の状態では、薬が離せない。けれども薬づけにする前に、するべきことがあったであろう悔恨の想いに眠れなくなった。
ここ数日で、両親の生きる気力がないことから、年内の判断をした。
そしてまた、高齢の親をこの手で、連れて逝こうかと本気で思考している分身を視ている。
誰しも、窮地に起った選考方法が異なるのかもしれないが、本人達にとっての幸せはなんだろうか?
幻覚が視え、あらぬ事を口走ると言うが、視える者にははっきりとわかる。
その日の近いことを知らせているのだ。
両親を連れ、遥かな彼方に旅立とうか、日々想いが強くなっていく。