枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

もの 念う

2008年08月11日 | Weblog
 

 早朝(4時かな?)はまだ明けきらなくて、薄闇が張っている。 
 それがしだいに6時前後には陽の光りで満ちてくる。

 部屋の隅々にいた、得たいの知れない物の類が徐々に姿を消していく。
 これは単に、光りに透けて視え難くなるだけで、まったく姿を消し去るのとは違う。
 我が家は1年中、こういう気配に満ちていて、集まってこれる素因があるのかな・・・と心中複雑である。

 実家の両親が、高齢に加えて余病を併発し、田舎での暮らしが困難になってきたことで、兄妹間の行き違いが現れてき始めた。
 現在の介護状態では、お金がない事には、世話はできないし、どんなに気持ちがあったとしても追いつかない。

 考え方の極端な差も、自分達の家庭があってこそ、というのと、せめて生きている間、できることを精一杯という思いだけでは成り立たない。

 枇杷茶でいろいろしてあげていても、それは余計な事だと罵声を浴びせられる。
 それを聴いている親の萎縮した姿には哀しみしかない。
 今の状態では、薬が離せない。けれども薬づけにする前に、するべきことがあったであろう悔恨の想いに眠れなくなった。

 ここ数日で、両親の生きる気力がないことから、年内の判断をした。
 そしてまた、高齢の親をこの手で、連れて逝こうかと本気で思考している分身を視ている。
 誰しも、窮地に起った選考方法が異なるのかもしれないが、本人達にとっての幸せはなんだろうか?

 幻覚が視え、あらぬ事を口走ると言うが、視える者にははっきりとわかる。
 その日の近いことを知らせているのだ。
 両親を連れ、遥かな彼方に旅立とうか、日々想いが強くなっていく。

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