313年に出された「ミラノ勅令」は、全てに宗教の平等、信仰の自由をうたったものであったが、皇帝コンスタンチヌスの意図は、単純ではなかった。権力者ローマ皇帝がキリスト教の公認したというのは、単に信仰の問題ではなく、そのキリスト教を権力を保持するための手段として使っていくということが隠されていた。というのは、度重なるローマ帝国の皇帝交代劇に、理論的な根拠を求める必要があり、皇帝の権力は「神が与えたもの」という理屈が民衆を納得させるのに好都合にできているからだ。コンスタンチヌス、息子コンスタンチウスはこの考えを進める。教会関係者の資産は非課税扱いとなり、ローマ社会の裕福層はこぞってキリスト教布教者になっていく。キリスト教に改宗することの方が生きていきやすいとなると、人々はおのずからキリスト教に改宗していく、というものだ。
「いったんキリスト教徒になれば、皇帝といえども一匹の羊にすぎない。『羊』と『羊飼い』では、勝負は明らかであったのだ。ミラノ司教アンブロシウスは、キリスト教と世俗との権力関係を、実に正確に把握していたに違いない。皇帝がその地位に就くのも権力を行使できるのも、神が認めたからであり、その神の意向を人間に伝えるのは司教とされている以上、皇帝といえども司教の意に逆らうことはできない。これが両者の関係の真実であると。」
ローマ皇帝より権力を持つキリスト教司教の誕生である。
この流れに釘をさしたのが「背教者皇帝ユリアヌス」(361年~363年)だ。ユリアヌスは、キリスト教と世俗権力との癒着を是正し、「ミラノ勅令」のレベルに戻したにすぎないが、キリスト教関係者からは、以来「背教者」と侮蔑されてきた。逆に、ユリアヌスはキリスト教から「背教者」と言われることにより、キリスト教のなんたるかを歴史上に刻印する栄誉をうけることになったのだ。
キリスト教が権力と結びつくことにより、それまで多神教であったローマ社会の歴史的な建造物、神殿や円柱などは、全て「異教」のレッテルを張られ、破壊されていく。それまでの文化、社会的出来事が記録されていた文書、図書などが保存されていた図書館ともどもすべて破壊された。今日からみると、歴史を語る1級の原資料が無くなってしまったということだ。
393年には、オリンピアの競技会の全廃を決めた法案が元老院で可決された。第1回は紀元前776年に開催されそれ以降1169年後に幕を閉じることになった。西欧史上では「393年をもってギリシャとローマの文明が公式に終焉した年」とされている。