(承前)
湧別町の顕彰系肖像彫刻を紹介するシリーズで、4回中4回目のこれが唯一、旧上湧別町にある像です。
ユニークな人物・作品なので、少し長文になりました。
湧別町役場(旧上湧別町役場)より少し北側、かみゆうべつチューリップ公園の近くの、国道沿いにたっています。
特別養護老人ホームなどがある「湧愛園」の敷地内です。
肖像画や肖像彫刻というものは、本人を少しカッコ良くというか、偉い人物のように表現するのが通例です。
ところが、この彫像はどうでしょう。
丸めがねをかけ、ちょびひげをはやし、大きな耳、はげあがった頭…。
なんともユーモラスな表情をしています。
実在の近現代の人物で、ここまで威厳を欠いた、おだやかでしかし謹厳実直な風貌をした肖像彫刻というものを、筆者は見たことがありません。
(じつは役場の応接室に写真が飾ってあるのですが、もうすこし男前に感じられます)
しかしこれは、彼が地元に根ざした医師として、いかに人々に親しまれていたかを物語っているようにも思えます。
台座左側の碑文を掲げます。
読点が三つ付いているのは、上湧別町郷土研究会が編集し、上湧別町教育委員会が1982年に発行した冊子「上湧別町 碑・史跡集」に従いました。
また、筆者のいつもと違い、正字(いわゆる旧漢字)はそのままにしてあります(所、情、遊、都などは、パソコンでは正字が表示できず、新字を用いています)。
難読ですよね。
高田市は、豪雪地帯として知られる新潟県上越市です。
最後から2行目、佐藤昌介は、北海道帝国大学(戦後の北大)の初代総長を務めた人物として著名です。
読み下し文を附そうと思いましたが、それでも読めないでしょうから、前述の冊子「碑・史跡集」から「由来」を引用します。
漢数字は洋数字に改めました。
これが、現在、札幌や旭川など道内各地にある「厚生病院」の始まりです。
上には医療機器の寄附について記されていますが、『上湧別町史』(1979年)によると、1万円を寄附しているそうです。
戦前の1万円は大金です(岩波新書が1冊50銭。つまり1円が千円~2千円の感覚なので、1億~2億円になる)。
それにしても、上湧別から白滝までは、いま車を飛ばしても1時間以上かかります。
偉い先生がいたものだと思います。
「上湧別 碑・史跡集」からの引用を続けます。
この像を建てるとき、網走にある遠藤熊吉翁之像を参考にしたそう。
作者は大阪の松木雲峰。
乗馬ズボンに片手を入れている格好をとらえて制作したとのことです。
あまりちゃんと写真では見えませんが、額の筆者は頭山満(1855~1944)とのこと。
頭山は戦前のアジア主義者の大物として知られています。
どうしてこんな人に頼むことができたのか、ふしぎです。
除幕式は1938年(昭和13年)5月28日。
で、読者の皆さんはうすうす予想されているでしょうが、42年秋、銅像は金属供出となりました。
肩に「出征」の白いたすきをかけ、自動車で上湧別駅まで送られたと伝えられています。
戦後、東京在住の彫刻家村田龍正が、前の銅像の写真などを参考にして原型を作成し、それをもとに名古屋市の山田石材店主が彫刻を作りました。
石像は1949年9月20日、久美愛病院(現厚生病院)の開院記念日に、除幕式が行われたとのことです。
ネットで検索すると村田は三重県尾鷲市出身、日展会員。
庄田萬里は1870年(明治3年)、新潟県生まれ。
87年(同20年)に来道。
湧別に来たのは1897年(明治30年)です。
1901年(明治34年)に慈恵医院医学校の夏期試験に及第し、3年後に医術開業後期試験に及第。
1942年(昭和17年)、北海タイムス文化賞受賞、北海道庁長官表彰。
64年3月26日、自宅で逝去。94歳。
上湧別町は町葬を執り行いました。
湧別町の顕彰系肖像彫刻を紹介するシリーズで、4回中4回目のこれが唯一、旧上湧別町にある像です。
ユニークな人物・作品なので、少し長文になりました。
湧別町役場(旧上湧別町役場)より少し北側、かみゆうべつチューリップ公園の近くの、国道沿いにたっています。
特別養護老人ホームなどがある「湧愛園」の敷地内です。
肖像画や肖像彫刻というものは、本人を少しカッコ良くというか、偉い人物のように表現するのが通例です。
ところが、この彫像はどうでしょう。
丸めがねをかけ、ちょびひげをはやし、大きな耳、はげあがった頭…。
なんともユーモラスな表情をしています。
実在の近現代の人物で、ここまで威厳を欠いた、おだやかでしかし謹厳実直な風貌をした肖像彫刻というものを、筆者は見たことがありません。
(じつは役場の応接室に写真が飾ってあるのですが、もうすこし男前に感じられます)
しかしこれは、彼が地元に根ざした医師として、いかに人々に親しまれていたかを物語っているようにも思えます。
台座左側の碑文を掲げます。
庄田萬里翁高田市人明治三十年移住湧別兵村
既而遊東都修醫學業成而還開醫院為村醫兼學
校醫濟生會救療所醫員以至今、翁資性仁厚能盡
其職至老不衰而持身儉素尤厚於人情是以闔郷
仰其徳民風作興宜哉、今茲昭和丁丑有志相謀
建銅像以表景慕之情也翁之榮譽亦大矣、銘曰
湧別之郷 有仁厚人 以醫救衆 種德化民
慶貽百世 澤傳千春 於戲偉乎 芳名不泯
昭和十二年九月
男爵 佐藤昌介撰
西田 庄書
読点が三つ付いているのは、上湧別町郷土研究会が編集し、上湧別町教育委員会が1982年に発行した冊子「上湧別町 碑・史跡集」に従いました。
また、筆者のいつもと違い、正字(いわゆる旧漢字)はそのままにしてあります(所、情、遊、都などは、パソコンでは正字が表示できず、新字を用いています)。
難読ですよね。
高田市は、豪雪地帯として知られる新潟県上越市です。
最後から2行目、佐藤昌介は、北海道帝国大学(戦後の北大)の初代総長を務めた人物として著名です。
読み下し文を附そうと思いましたが、それでも読めないでしょうから、前述の冊子「碑・史跡集」から「由来」を引用します。
漢数字は洋数字に改めました。
庄田萬里は、明治30年5月湧別屯田中隊本部に看護兵として(…)移住して来た。現役中の明治34年兵村諮問会の要請をうけて、将来本村の医師として専任することを条件に医学の勉強に上京した。39年8月業成り医師の免許を取って兵村に帰り、以後終生この地の医療保険に尽力された。
庄田萬里は医師の資格を取るまでに屯田兵村から受けた援助に深く恩義を感ぜられ、金銭を度外視してその報恩の医療に努められた。遠く白滝、丸瀬布に移った屯田兵でも、病状悪しと聞けば夜中乗馬で駆けつけ診療にあたった。往診の先生に脈を取られながら、男泣する屯田兵もあったと云う。
こうした庄田医師の仁徳に昭和9年、南北湧別兵村部会で、庄田先生の銅像を建て、顕彰と感謝の意を表そうとの話が出た。
折柄全国的に農民自身の手で医療組合を結成し、病院経営を行い、病気と貧困の悪循環を改善しようと組合運動が盛り上り、網走支庁管内では紋別郡内の産業組合を網羅して、医療組合連合会結成の動きが活発となった。この運動の一番の障害は、医師会の反対であった。
時に庄田医師は齢65歳、農村医療施設充実のためならば、進んで病院を閉鎖し、医療機器(レントゲン設備等)を寄附し、組合立病院の医師として協力する意志が表明された。
これが、現在、札幌や旭川など道内各地にある「厚生病院」の始まりです。
上には医療機器の寄附について記されていますが、『上湧別町史』(1979年)によると、1万円を寄附しているそうです。
戦前の1万円は大金です(岩波新書が1冊50銭。つまり1円が千円~2千円の感覚なので、1億~2億円になる)。
それにしても、上湧別から白滝までは、いま車を飛ばしても1時間以上かかります。
偉い先生がいたものだと思います。
「上湧別 碑・史跡集」からの引用を続けます。
この像を建てるとき、網走にある遠藤熊吉翁之像を参考にしたそう。
作者は大阪の松木雲峰。
乗馬ズボンに片手を入れている格好をとらえて制作したとのことです。
あまりちゃんと写真では見えませんが、額の筆者は頭山満(1855~1944)とのこと。
頭山は戦前のアジア主義者の大物として知られています。
どうしてこんな人に頼むことができたのか、ふしぎです。
除幕式は1938年(昭和13年)5月28日。
で、読者の皆さんはうすうす予想されているでしょうが、42年秋、銅像は金属供出となりました。
肩に「出征」の白いたすきをかけ、自動車で上湧別駅まで送られたと伝えられています。
戦後、東京在住の彫刻家村田龍正が、前の銅像の写真などを参考にして原型を作成し、それをもとに名古屋市の山田石材店主が彫刻を作りました。
石像は1949年9月20日、久美愛病院(現厚生病院)の開院記念日に、除幕式が行われたとのことです。
ネットで検索すると村田は三重県尾鷲市出身、日展会員。
庄田萬里は1870年(明治3年)、新潟県生まれ。
87年(同20年)に来道。
湧別に来たのは1897年(明治30年)です。
1901年(明治34年)に慈恵医院医学校の夏期試験に及第し、3年後に医術開業後期試験に及第。
1942年(昭和17年)、北海タイムス文化賞受賞、北海道庁長官表彰。
64年3月26日、自宅で逝去。94歳。
上湧別町は町葬を執り行いました。