まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

風鈴が 身動きもせず 日が暮れる

2010年08月06日 | 自然

  今日、八月六日は「広島平和記念日」とか「広島原爆忌」の日・・。今年はアメリカとかフランスとか・・国連からの代表が出席しての慰霊祭が行われた・・・。少し・・・時代が動いたかなぁと思った・・・。


 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」号が、広島市上空で世界初の原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。広島市内の相生橋近くの外科病院上空600メートル上空で炸裂し、広島市街は壊滅し、約14万人の死者を出した。 


 その近くにある「商工奨励館跡」、いわゆる・・「原爆ドーム」。ここに、この・・・ドームを描き続ける被爆者がいる。 原爆ドームの絵を26年間描き続けている原広司さん(78)=安芸区=が、被爆65年の節目を機にした個展を、旧日本銀行広島支店(中区)で30日まで開いている。これまで描いた約2800枚から、152枚を選んだ。原さんは「原爆ドームが何を訴えているのかを感じ取ってほしい」と話している。

 「魂の水で原爆ドームを描く」と言われているのが、この・・原さんだ。元は国鉄職員。頼まれて・・「ヒロシマの語り部」「ヒロシマの証人」にもなる・・・ 


 13歳の時に江田島から広島に入って被爆した原さんは、1984年の原爆の日に1枚目を描いた。途中、病気で休んだ時期もあったが、毎日のように、原爆ドームの近くに腰掛けて絵を描いている。その前を、たくさんの観光客が笑顔で立ち止まり、過ぎていく。「写真をパチパチ写して、『これが原爆ドームか』と立ち去っていく。でも、原爆ドームはそういう存在ではないはずなんよね。あれは戦争の原点。65年前に思いをはせてみてほしい」

 指を二本立てて、笑顔でドームと納まる観光客には目を伏せる。「ここは観光地じゃないんです」

 このブログを読んだ皆さんは、決してそのようなまねはしないでください。ヒロシマというカタカナで書かれる広島は・・・魂の原点であり、人が人として生きようとしている座標軸の街なのです。

 「岡さんでしょ・・」と声をかけられることもしばしば・・・。「小学6年生の時に、ここで、岡さんに原爆ドームの絵を描いてもらいました。今日は・・・教え子を連れて、岡さんに逢いに来ました。教え子に原爆ドームの絵を教えてください」若者の笑顔に岡さんは笑顔で答えた。

•広島市 http://www.city.hiroshima.jp
•ヒロシマ・ピース・サイト http://www.pcf.city.hiroshima.jp/peacesite/

 そして今日はまた、「World Wide Webの日」。1991年のこの日、計算機科学者ティム・バーナーズ=リーが、自身が開発したWorld Wide Web(WWW)に関する情報をインターネット上に公開し、世界初のWebサイトhttp://info.cern.chを開設した。


 おかげで、私たちはこうして・・・WEBを利用し、恩恵を享受している。まるで夢のような技術革新を思う存分・・・楽しんでいるし、反面・・・苦しんでもいるかも・・・。

 「雨水の日」というのは、東京都墨田区が1995(平成7)年に制定したもの。 

 墨田区では、区役所・両国国技館・江戸東京博物館等区内の公共施設で雨水を有効利用している。1994(平成6)年のこの日、墨田区で市民主体による世界初の雨水利用国際会議が開かれたことに因み、翌年の雨水フェアでこの日を「雨水の日」とすることを宣言した。 

 「太陽熱発電の日」というのは、1981(昭和56)年のこの日、私たちの香川県三豊郡仁尾町の電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電が行われた記念日・・・。

 しかし、この場所は日照量が少なく、最大出力が2000kWと、実用になる程度の大規発電ができなかったため、この発電所での実験は1985(昭和60)年に中止された。あのころの喧噪がうそのように静まりかえっている仁尾の町だけが残った・・・。

 見え見えなんだけれど・・・「ハムの日」・・・。「ハ(8)ム(6)」の語呂合せだよね。コメントする意味もないか・・・。

 日本ハム・ソーセージ工業協同組合が制定したもの。

 似たようなものに・・・「ハローの日」は・・「ハ(8)ロー(6)」の語呂合せ。

  

 キティちゃんは関係ないのだが、「ハロー・・」と言えばこれしかない・・。こんな日もある。「ハンサムの日」だ。

 
 2008年11月公開の映画『ハンサム★スーツ』のPRのため、配給会社のアスミック・エースが制定。これまた・・・「ハ(8)ンサム(6)」の語呂合せなのだとか・・・。おやじギャグばっかりやね・・・。さむぅぅ・・・。

1971年、佐藤榮作首相が現職首相で初めて広島平和式典に出席したのもこの日だった。

  この日、原爆資料館から出てきた佐藤総理を見ようと・・群衆が集まったために警護の警官隊が緊張し、私たちは機動隊に取り囲まれた・・・。「動くな!」「身動きするな!」「動けば逮捕するぞぉ!」の怒号に包まれた思い出が・・・。やがてに・・・流れ解散的に散ってしまって・・「なんだよぉ・・」みたいな雰囲気で佐藤総理も人混みに消えた・・・。

 あれは・・なんだったんだろうか・・・。

 今日の誕生花だとkの・・凌霄花[のうぜんかずら,しょうりょうか] Trumpet Flower・・。
 

 花言葉は・・・「名声」 名声も・・財産も・・・何もないね・・。何も持って生まれて来なかったんだから・・・何も持ってゆけない世界に還って行くのだから・・・。所詮・・、何もなくていいんだと思う・・・。

 トレニア(夏菫[なつすみれ]) Toreniaは、そのあたりにある花だと思う・・・。花言葉は「閃き」


 で、この前に・・サンフランシスコの新聞社「スポーツJ」から取材を受けた件なんだけれど、
以下のURLで見られると思うけれど・・・、どんなんだろうかね・・・。サンフランシスコの新聞だというても、スーパーとかの広告ばかりだし・・・、一応・・、「まほろば工房」とは書いてあるものの・・・・、意味がよくわからないことだ。この月末に・・・ケント記者に会えたら光栄だがね・・。

http://sportsj-usa.com/page/731.pdf

 じゃぁ、明日の早朝から・・・さぬき広島に行って、日曜日の夕方に戻ってくるので、予約投稿はセットしません・・・。元気でいますので、心配はしにでくださいな・・。

じゃぁ、また、週末に会えるといいね。

ヒロシマの ことしも八月は 暑い夏

2010年08月06日 | 歴史

 広島市内の「平和公園」内にある「原爆の子の像」をご存じだろうか・・・。今年も暑いヒロシマにあの夏の日がやってきた。 


 佐々木 禎子(ささき さだこ、昭和18(1943)年1月7日 - 昭和30(1955)年10月25日)さんは、昭和20(1945)年8月6日、2歳のときに広島市に投下された原子爆弾によって、爆心地から1.7kmの自宅で黒い雨により被爆した。

 同時に被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。1954年8月の検査では異常なかった。しかし、11月頃より首のまわりにシコリができはじめ、1955年1月にシコリがおたふく風邪のように顔が腫れ上がり始める。病院で調べるが原因が分からず、2月に大きい病院で調べたところ、白血病であることが判明、長くても1年の命と言われ入院した。

 私が小学校の二年生の時だったかに、このサダコさんのために折り鶴を折って送った記憶が残る・・・。折り鶴を折ることも大流行した・・・。 

佐々木禎子-広島2008


 佐々木 禎子(ささき さだこ、1943年1月7日 - 1955年10月25日)さんは、日本の広島市に住んでいた原爆の被爆者で、広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルともなっている。また、シアトルの平和公園にも銅像がある。2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。

 


 佐々木禎子が在籍していた広島市立幟町中学校に、1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。

 その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、擱に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。

 禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われる。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。

 

 原爆の子の像(げんばくのこのぞう)は、広島県広島市の広島平和記念公園内にある、佐々木禎子(像のモデル、原爆による白血病で死去)の同級生等による募金運動により作られた像。1958年5月5日完成。 

 昭和30(1955)年11月8日に禎子の同級生に対し「禎子さんを始め原爆で死んだ子の霊を慰める石碑を創ろう」と新聞で禎子の死を知った青年により提案され、設置のための活動を始めた。12日に全日本中学校長会場で、禎子の同級生8人によるビラ配りが行われ、全国の中学校より寄付金が寄せられた。12月に入り反響の大きさにより広島市内の小・中・高校に運動への参加を呼びかけ、「広島平和をきずく児童・生徒の会」が組織された。1956年は街中での募金活動が繰り返し行われ、年末までに540万円の寄付金を集めた。募金活動には全国の3000校以上の学校が協力し、募金は海外からも寄せられた。

 私たちもこの運動に賛同し、少ないお小遣いの中からお金を集めて協力した。それが、この、「原爆の子の像」である。

 像の真下にある石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」と刻まれている。 



  内部には鐘があり、風鈴のように、かぜがふくと中にぶら下がっている金の折り鶴がゆれ、鳴る仕掛けになっている。鐘に刻まれた文字は、湯川秀樹が揮毫した。 また原爆を体験した子ども達の証言『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』(文庫版で全2分冊)は、広島大学の教育学の教授、長田新により編纂され、1951年に岩波書店から刊行された。 



 やがてには映画も作られて、みんなで大声をあげて泣きながら・・・映画を見たのも胸に残る・・・。

 

 社会人になってから・・・42年間に18回、ヒロシマの暑い夏を迎え、原爆の子の像に足を運び、「サダコ」のことを思い出してきた・・。

 そんな暑い・・ヒロシマのことを・・・書き残しておきたいと思った夏である・・。

じゃぁ、また。

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