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ビーズうさぎのハナちゃんです!!

日々の生活、山登りや釣り、ドライブなどをアップします。ここの所、巨樹めぐりがメインですが!(汗)

埼玉県行田市、埼玉「埼玉古墳群・将軍山古墳」です!!

2024-12-03 06:30:11 | 遺跡・史跡
 丸墓山古墳・稲荷山古墳に続いて将軍山古墳です

 将軍山古墳は、実物の横穴式石室を建物の中から見学できる、将軍山古墳展示館が設置されています

 丸墓山古墳の南西側入口脇の案内図です、さきたま古墳公園図の下端(公園の東端)に潰れた形で将軍山古墳です

 南西側の駐車場から見ました、説明版も有ります

 北西側に行ってみました、説明版の脇には外堀のブリッジと左手に造出しです

 説明版です
   将軍山古墳
 将軍山古墳は、全長90m、後円部の直径39m、前方部の幅68mの前方後円墳です。
 明治27年(1894)に、地元の方々によって発掘調査が行われ、横穴式石室から、銅鋺・太刀・鉄矛・甲・冑・金銅製馬具・馬冑・蛇行状鉄器など多数の豪華な副葬品が出土しました。
 造られた年代は、出土した遺物から、6世紀の後半と考えられます。埼玉古墳群の中では、4番目に大きい前方後円墳で、はじめて横穴式石室を採用した古墳です。
 この横穴式石室には、千葉県富津市付近の海岸で採取された「房州石」と呼ばれる石材が利用されており、関東地方の古墳時代の歴史を考える上で重要な古墳となっています。
 平成3年度から平成8年度に、文化庁の協力を得て、墳丘・堀の発掘調査及び復元、石室の保存施設の建設などの整備を行いました。
 発掘調査の結果、周囲には長方形の堀が二重にめぐり、後円部と中提に、死者を弔う祀りが行われた場所と考えられる大きな造出しがあり、稲荷山古墳・二子山古墳と同じ形態であることがわかりました。
 また、前方部には木の棺を竪穴の中に安置した、木棺直葬と呼ばれる埋葬施設が新たに発見されました。さらに、墳丘頂上と斜面の段、堀の中(墳丘から落下したもの)からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪をはじめ、盾・靫・人物などの形象埴輪が出土しました。
 後円部南側には、副葬品の復元模型が置かれた横穴式石室や古墳の断面が見学できる展示館があります。

 後円部と造出しです、円筒埴輪が並べられています

 南西側から見ました

 将軍山古墳展示館へ行ってみましょう

 将軍山古墳南東側の堀跡は無くなってしまっていますが、アオサギが水路脇に居ましたよ

 後円部南側に将軍山古墳展示館です

 将軍山古墳展示館に入ります、通常入館料が必要ですが「埼玉県民の日」ということで無料でした

 一階の展示室に入りました、将軍山古墳出土の埴輪などが並んでいます

 騎馬像が展示されています


 説明版です
   復元!古墳時代の馬の装い
 わが国に騎馬の風習がはじまるのは、4世紀末ころからで、朝鮮半島との交流のなかで、はじめて騎馬術と馬具がもたらされました。
 馬具は5~6世紀の古墳に、副葬品として納められていますが、金属部分をつないでいた革や布・木質部分は、腐食してしまうため残りません。馬への装着方法は、馬具の形状や馬形埴輪を参考に復元しました。
 将軍山古墳のような、金色に輝くきらびやかな馬具や旗をつけて飾りたてる馬は、儀式や祭典などの際に重要な役割を果たしました。時には馬冑をつけて武装し、威信を高めることもあったと考えられます。

 二階へ上がると、横穴式石室(玄室)の復元展示です

 馬具装着想定図です
 将軍山古墳から発見された馬具には、騎乗に必要な轡・鞍・鐙・馬を飾るための鏡板・辻金具・鈴・杏葉・雲珠・蛇行状鉄器、戦いの際に馬の頭を保護する馬冑があります。
 これらの馬具の中で、馬冑と蛇行状鉄器は全国的にも発見例が少ない貴重な資料です。蛇行状鉄器は、鉄棒を数段にわたって折り曲げ、一方を二股に作って鞍に装着し、片方の端に旗竿を差し込んだものです。
 この使用例は、埴輪や朝鮮半島の古墳の壁画にみることがでみます。
 将軍山古墳からは鉄製の珪甲と衝角付冑が出土しています。これらは敵の攻撃から身を守るための防具です。
 珪甲は約900枚の小札とよばれる孔の開いた細長い小さな板を、紐や革で綴じ合わせて作る「よろい」です。
 衝角付冑の頂には、三尾鉄とよばれる後方に3本の枝が出る小さな部品が付き、ここには、偉容を表わすために鳥の羽をつけていたようです。
 想定図のように、頸・肩・腕を守るための装具が出土する例もあり、これらで武装すると30kg近い重量になります。

 遺構模型配置図です
 将軍山古墳は、埼玉古墳群で初めて横穴式石室を採用した古墳です。石室は石積みで造られ、棺を納めるための長方形の玄室と、外部から玄室に通じる羨道で構成されています。
 側壁の石は、120kmも離れた千葉県富津市の海岸で採取されたと考えられる「房州石」が使用され、天井には埼玉県長瀞町付近で採取される、大きな板状の緑泥片岩を使用していました。
 現在は石積みの最下段だけが残り、他の部分の石は、石室周辺の土とともに消失していました。また、羨道も全長の半分以上が失われています。
 将軍山古墳の横穴式石室は、明治27年(1894)に最初の発掘が行われ、多数の豪華な遺物が出土していることで知られています。
 しかし、遺物の多くは破損し、腐食していることから、これらの遺物の復元模型を製作し、石室内に副葬された当時の状態を想定して配置し、埋葬のようすを再現してみました。
 遺体の安置には木棺が使われ、鏡・金環・玉・大刀は棺の中に納められます。矛や矢は棺の周辺に、銅鋺や須恵器などの容器は棺の手前に置かれ、甲・冑などの武具、鞍・鐙などの馬具は各々がまとまりをもって置かれたと推定されます。
 副葬品には時期差が認められることから、追葬が行われたことが考えられます。その際には古い副葬品は隅にかたづけられたようです。

 では、将軍山古墳展示館を出て、次は南西側の二子山古墳へ行ってみましょう

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