「大室古墳群・Mー4号墳と復元住居」を見て、公園の西端の流れ山と小二子古墳の間を北へ戻って来ました
北駐車場側に大きなモニュメントがあります
南側から見ず時計のオブジェです
東側から
説明プレートです
水時計のオブジェ
このモニュメントは、「時の広場」の中心に広場のランドマークとして造ったものです。
モニュメントのテーマは、史跡の持つ長い時間の経過と市のキャッチフレーズである「水と緑と詩のまち」です。
多くの人々に親しんでもらえる事を願い、親しみやすいオブジェと水の演出を組み合わせ、ユーモラスな動きを交えた詩情豊かなモニュメントとしてデザインしています。
平成8年11月設置
大室古墳群・M-1号墳は、北駐車場のすぐ東側です
案内図です
南側から見ました
説明版ですが、表示内容が読めなくなっています
内堀遺跡群 Mー1号古墳 (帆立貝式古墳)
公園整備に先立ち実施した発掘調査(昭和63年度)の結果に基づき、平成5年度に盛土と芝張りによって往時の姿を想像し再現したものです。
二列の石張り(鉄平石)は周堀の範囲を表しています。また、この下には発掘調査の終わった古墳がそのままの形で保存されています。
帆立貝の形をしたこの古墳は、発掘調査の結果、全長は周堀を含め約37m、幅は約39mであることがわかりました。
墳丘の上部は後世の耕作によって削られていたので、高さや形ははっきりしませんが二段で造られていたようです。
石室もすでに壊されていましたが、石の跡から両袖型の横穴式石室だったと思われます。
墳丘からは円筒埴輪や人物、盾持ち人、馬、靫、鞆、鉾、帽子などの形象埴輪などが多数出土しました。
前・中・後の三二子古墳(国指定史跡)と比べれば小規模ですが、墳丘に数々の埴輪を立ち並べ、威風を誇っていた当時の姿がしのばれます。
墳丘の下の土や周堀を埋めて土の中の火山灰、また出土遺物等から、6世紀後半に造られたものと思われます。
南西側から、復元した墳丘にはあちこちに登った跡が深い溝になってしまっています
西側から
西北西側から
北側から、少し北側が高くなっているので、形が分かりやすく思います
北東側から
東側から、帆立貝の丸い形ですね
南東側から見ました
では、埼玉に戻りましょう
北駐車場側に大きなモニュメントがあります
南側から見ず時計のオブジェです
東側から
説明プレートです
水時計のオブジェ
このモニュメントは、「時の広場」の中心に広場のランドマークとして造ったものです。
モニュメントのテーマは、史跡の持つ長い時間の経過と市のキャッチフレーズである「水と緑と詩のまち」です。
多くの人々に親しんでもらえる事を願い、親しみやすいオブジェと水の演出を組み合わせ、ユーモラスな動きを交えた詩情豊かなモニュメントとしてデザインしています。
平成8年11月設置
大室古墳群・M-1号墳は、北駐車場のすぐ東側です
案内図です
南側から見ました
説明版ですが、表示内容が読めなくなっています
内堀遺跡群 Mー1号古墳 (帆立貝式古墳)
公園整備に先立ち実施した発掘調査(昭和63年度)の結果に基づき、平成5年度に盛土と芝張りによって往時の姿を想像し再現したものです。
二列の石張り(鉄平石)は周堀の範囲を表しています。また、この下には発掘調査の終わった古墳がそのままの形で保存されています。
帆立貝の形をしたこの古墳は、発掘調査の結果、全長は周堀を含め約37m、幅は約39mであることがわかりました。
墳丘の上部は後世の耕作によって削られていたので、高さや形ははっきりしませんが二段で造られていたようです。
石室もすでに壊されていましたが、石の跡から両袖型の横穴式石室だったと思われます。
墳丘からは円筒埴輪や人物、盾持ち人、馬、靫、鞆、鉾、帽子などの形象埴輪などが多数出土しました。
前・中・後の三二子古墳(国指定史跡)と比べれば小規模ですが、墳丘に数々の埴輪を立ち並べ、威風を誇っていた当時の姿がしのばれます。
墳丘の下の土や周堀を埋めて土の中の火山灰、また出土遺物等から、6世紀後半に造られたものと思われます。
南西側から、復元した墳丘にはあちこちに登った跡が深い溝になってしまっています
西側から
西北西側から
北側から、少し北側が高くなっているので、形が分かりやすく思います
北東側から
東側から、帆立貝の丸い形ですね
南東側から見ました
では、埼玉に戻りましょう
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