少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

ラチチュードについて

2005-02-18 23:46:45 | 写真
以前から知っていたといえば知っていたのだが、ポジフィルムとモノクロネガフィルムのラチチュード(諧調)の差が載ったグラフを見た。

ポジはラチチュードがせまい。確かに写真に撮った時、ちょっと陰になったところがすぐつぶれてしまう。ちょっとオーバーすると白トビしてしまう。とにかく露出が微妙だ。色はもちろん鮮やかなのだけれど、その光の濃淡に対しては実に淡白なのだ。あっさりしている。それがポジフィルムの特性だ。

それに比べてモノクロというかネガはラチチュードが豊かだ。だから多少の露出ミスも、焼付けの条件でごまかせる。それなりの写真になる。

でも、そこでハタと思い至った。モノクロ写真をモノクロ写真として、そのアドバンテージを生かすとすればラチチュードを一杯に使うことが必須だということを。だって、それがポジに打ち勝つための武器なのだから。いや、まあ別にリバーサルとタメをはっても仕方はないのだけれど。とにかくラチチュードが広いから、多少の露出ミスは平気と思ってはいけない。わずかな露出ミスが、その武器を全くだめにしてしまうのだから。ここは真剣勝負しなければいけない。

ラチチュードを一杯に使っていないモノクロ写真ほどかわいそうなものはない。色もついていなければ諧調もろくにないでは、仕方がない。なるほど、そういうことだったのか。

いや、知っていたといえば知っていたんだけどね。でも、そういうことってあるよね。腑に落ちるっていゆうか、そういうのって。

世界ラン展

2005-02-18 22:17:59 | 写真
明日から開催される世界ラン展に行ってきた。関係者用のチケットをいただいたのだ。時間があまりなかったので、ゆっくりとはいかなかったが、比較的すいていてよかった。久しぶりにデジカメで撮影した写真。デジカメも楽しいね。

アレニウスの式

2005-02-17 22:31:36 | 哲学
今この式のことで頭の中が一杯になっている。アレニウスというのハッセルのふるさとスウェーデンが生んだノーベル賞科学者だ。化学反応の温度依存性に関するアレニウスの式を提出したことで有名だ。

ウィキぺディア百科事典によれば、この式は化学反応だけではなく、部品の寿命予測などのにおいても広く使われている。が、その式の根拠は未だにはっきりしないのだという。つまり、アレニウスは、この式を何か基本的な物理法則から導出したのではなく、パッと机の中から出して、化学反応に当てはめたら上手くいった、と言ったにすぎないのだ。

これにはちょっと驚いたが、量子力学のシュレジンガー方程式も証明はないし、もっとポピュラーなところではニュートンの万有引力の法則だって、その式の証明は「それでいろんな現象が上手く説明できる」ということだけだ。ニュートンの法則に証明はない。その意味ではアレニウスの式も証明がないからといって責められる筋合いはない。

今、僕はこの式で何かの寿命予測をしようなどとは思っていない。そうではなくて、非常にノイズの多い情報の中から温度あるいは活性化エネルギーという形の意味を抽出するツールとしてこの式が適用できないかと考えている。まだ、きっちりとした形にはなっていないが、直感がそれを支持ししている。それは複雑さの程度やエントロピーの概念とも関連していると思う。このきわめて単純な指数関数の意味を朝から晩まで考えている。面白くてやめられない。

感動

2005-02-17 22:18:35 | 哲学
会社の工場を訪問したお礼に、その時撮った写真を送った。工場長から受け取った旨のメールを受け取った。写真を送るとも言っていなかったので、ずいぶん驚かれたようだったが、とにかく喜んでもらえた。

感動や喜びというのは、予想していないことが起こったときに爆発的に発生する。予想していたことが起こってもうれしいことはうれしいだろうが、それと予想外のことが起こる時のそれは大きく違うだろう。

感動を引き起こすためには、今自分が何を知らないかということを知らなくてはいけない。なんだか込み入った言い方だが、要するに自分が何を知っていて何を知らないかの区別(境界)をはっきり持たない人には、喜びや感動はボヤーとしか訪れないということだ。逆に、自分が知らないことを明確に持っている人には、すごい感動がいつも訪れる。毎日の経験は、未知との遭遇の連続に違いない。

一体知ることとは何か。それは、意味を見出すことだ。混沌の中に意味を見出すこと、それが知るということだ。意味があることは知ることが出来るし、意味がないことを知ることは出来ない。だってそれは無意味だから。

それでは意味とは何か。意味とは類似性だと思う。二つの事柄が同じか似ているといことを見出すことが何かに意味を見出すことだと思う。と、そこまで考えておかしいことに気がついた。だって、感動するためには何か異質なことが起こることによってもたらされるのに、それを突き詰めるとそれは同質なものを見つけることだということになってしまった。異質と同質が同じ???

世の中は矛盾に満ちている。それだけは言える。間違いなく。

たばこの広告

2005-02-16 23:10:57 | その他
浜松町だったと思うけど、たばこの大きな広告が目に入った。

僕はタバコは吸わないので、その広告自体はどうでもいいのだが、その広告の下のほうの文言が気になった。

ちゃんととは覚えていないが、タバコをすうとがんになる確率が高くなるといったたぐいの生々しい話がしつこく書いてあった。

買う前にちゃんとそれを了解してね、ということだと思うが、タバコ会社が自社製品をあそこまでけなさなくてもいいのにと、ちょっと同情するほどだ。

だが、良く考えてみると、ああいうネガティブな広告は本当にタバコのセールスのためにはマイナスになるのだろうかと思った。

つまり、大方の人が認めているタバコの害について今更隠しだてをしてセコセコと売るくらいだったら、正々堂々と害について認めたほうがカッコいいのではないかと思うのだ。そりゃ、なんだっていいことばかりではないだろう。多少の副作用というか良くない面はなんにでもある。

酒だって百薬の長とはいわれても、飲まれるほど飲んだら体に悪いのは周知の事実だ。

いいことも悪いことも素直に表に出して、市場の審判を待つ。タバコ会社にとっては占いのようなものだ。健康志向で滅びるか、ストレス解消効果を認める人によって生き残るか。どっちに転んでも不思議ではない。でも、証拠がないとか何とか言って、タバコは別に体に悪いと決まったわけではないみたいな発言に終始するよりは、ずっとまともな戦略のような気がする。もちろん、これからタバコを吸う人が爆発的に増えることはありえないだろうけど。

末広がりの市場拡大が望めなくなった現代において、企業の広告戦略は大きく転換せざるを得ないと思う。いいことばかりの口当たりの良い宣伝では、すぐに生き詰まってしまうのは自明だ。いいも悪いも両方認めるタバコ会社のような戦略こそ、21世紀のビジネスの典型になるような気がする。良いとか悪いとかで商品の生き残りは決まらないのだ。残るものは残るし、残らないものは残らない。ただそれだけ。へたにがんばっても、つかれるだけだ。そう思いません?

ちなみに広告のお姉さんの写真はとてもよかった。なんで、タバコの宣伝っていつもセンスがいいんだろうね。