「疲れた。私が死んだら息子は生きていけない。今のうちに天国へ連れて行ってあげたい」。知的障害がある長男(54)の首を絞めて死なせたとして逮捕された80歳の母は、警察の調べにこう述べたという。先月、大阪市旭区で起きた事件。最悪の事態を防ぐことはできなかったのだろうか。現場を歩いた。
◇私が死んだら息子は生きていけない…
大阪府警旭署が発表した概要はこうだ。3月15日未明、自宅2階で寝ていた長男の首をタオルで絞めたり、口を塞いだりして窒息死させたとして、母の栢森敞子(かやもりしょうこ)容疑者を殺人容疑で逮捕した。同署によると、長男には生まれつき知的障害があり、トイレや食事、入浴がひとりでできなかった。栢森容疑者の夫は認知症で施設に入っており、長男の世話は栢森容疑者がほとんど1人で抱えていた。調べに対して「息子のことが苦になり、手が止まらずに殺してしまった」と述べたという。
事件があった旭区は、大阪市北東部に位置する。地下鉄の出口からしばらく歩くと、市営住宅や木造の民家が建ち並び庶民的な雰囲気が漂う。その一方で、真新しいマンションがあちこちにそびえ立っている。
2階建てのその自宅は、入りくんだ狭い路地に面していた。引き戸の玄関の斜め前に、銀色の雨よけシートをかぶった自転車がぽつんと置いてあった。
「その自転車は栢森さんのやで」と近所の男性(73)が教えてくれた。20年来の親交があるという。
男性によると、長男は電車に乗って作業所に通っていた。「栢森さんはいつも自宅の前で見送るんだけど、5分くらいすると自転車で追いかけていくんや。心配になるんやろうね」。長男を見送る小柄な栢森容疑者の姿は、近所の住民の朝のひとコマになっていたようだ。
また男性は「栢森さんは認知症の夫が入所する施設にも、月2回ほどこの自転車で面会に行ってたよ。片道40分もかけて。大きな道路を通らんとあかんのにね。施設の利用料金を引き落としにすれば手間が省けるんだけど、『手渡しにせんと、足が遠のいてしまうから』と通ってたんやで」と話す。80歳の高齢で交通量の多い道路を自転車で走るのはさぞ大変だっただろう。
ここでどんな生活を送っていたのか。男性は時々自宅に様子を見に行っていたが、いつもほこりがほとんどなく、きれいに掃除されていた。しかし2、3年前から、長男の状態が悪化した。夜尿症がひどくなり、栢森容疑者は「自分も年だし、体力の限界。どうしよう」と訴えていた。
知的障害者は外出時の付き添いや、数泊程度のショートステイなどの福祉サービスを受けられるが、男性は「利用しているところはほとんど見たことがない」と証言する。
「以前に息子さんを施設に入所させようとしたんだけど、息子さんが嫌がったらしい。でも最近は、決意して入所の手続きを進めようとしていたみたいだ」。そして「これを殺人事件だとは考えたくない。息子にあんなに深く愛情を注いではったんやから」とうなだれた。
事件発生から3日で約3週間。大阪地検は今日にも起訴するとみられる。
高齢の母親が将来を悲観するあまり知的障害のある子をあやめてしまう−−こんな悲しい事件は、今回だけではない。
大阪市では昨年11月にも、浪速区のマンションで母親(73)が知的障害のある次男(44)の首を絞めて死なせたとして逮捕されている。次男には重度の身体障害もあり、ひとりでは歩けない状態で、母親と長男が介護していた。
母親は調べに対して「また今日も介護が始まるかと思った。この生活から抜け出すために殺しました」と供述している。
事件が続いた大阪市の障がい福祉課の担当者は「個人情報が含まれるため何も話せない。完全な防止策は難しいだろうが、区と情報を共有し、相談業務などの場で感度を上げて異変やサインに気付くような努力を続けたい」と語る。旭区の保健福祉課は「(相談支援センターなど地域の関係者から成る)自立支援協議会で検討していきます」。その協議会のメンバーは「今回の件に大きなショックを受けています。相談員や施設の間でもっと連携を密にして、障害者の状況把握に努めなければならないと痛感しています」と打ち明けた。対応に問題はなかったか、施策として何が足りなかったのか……。検証やその公開がないままで、再発防止はできるのか。
「残念ですが、このようなケースがまた起きる可能性は高いと思います」と語るのは、佛教大准教授(障害者福祉論)の田中智子さんだ。田中さんは知的障害者を抱えている家族の家計調査などをしてきた。親が子を手にかけても大きなニュースにならず、埋もれている事例をいくつも耳にした。背景には、親子ともに高齢化して親の負担が増え、親の死後への不安も強まる実情がある、と指摘する。
市民団体「大阪障害児・者を守る会」(大阪市)が2013年に府内の重度障害者1620人を対象にした調査では、主に母親が介護をしている割合は95%以上。うち母親が60歳以上なのは28・6%だった。「高齢になるほど回答率が低かったので、実際の比率はもっと高いと考えられます」(播本裕子会長)
障害のある人たちが働く小規模作業所や授産施設などの全国組織「きょうされん」(東京都新宿区)が10年に行った調査では、主な介護者である母親の年代はもっと高い。50歳代37%▽60歳代32%▽70歳代14%▽40歳代13%−−だった。中には94歳の父親が58歳の娘(精神障害)を、93歳の母が72歳の息子(知的・身体障害)を介護している例もあった。
◇「地域移行」で施設は減少
現在国は、障害者の「地域移行」を進めている。施設に“隔離”するのではなく、地域での生活を支援することを趣旨とした「障害者総合支援法」は13年に施行された。現在、障害者個人ごとに生活環境や障害の程度に合った福祉サービスを盛り込んだ「サービス等利用計画」の作成が進められている。
だが大阪障害児・者を守る会の播本会長は「『利用計画』ができても、親の不安はなくなりません」と打ち明ける。「例えばショートステイを利用したくても、施設のスタッフ不足が恒常化しているために、なかなか予約が取れず、利用しづらい状況に変わりはありません。障害者を支える社会的な基盤が整っていないのです」と訴える。
知的障害者が関わった事件を多く担当してきた大阪弁護士会の辻川圭乃(たまの)弁護士は、「『地域で障害者を受け入れる』という方向性自体は間違いではない。ただ、それと引き換えに、グループホームなど入所できる施設の数は減少し、かなり重度の障害者しか入れなくなっている。家庭の事情で入所を希望しても、入れない人たちが出ていることに配慮が必要です」と訴える。
また播本さんは「子どもを施設に預けたいと希望するのは50代の親の比率が最も高い。それ以上年を取ると『一緒にいたい』親が増えてくる。苦労はあっても相互依存的な関係が固定化されてしまっている」と実情を語る。
田中さんも「幼少期から家族以外から支援を受けることに慣れていないと、親が高齢になったからといって急には使えないようです」と解説する。「長い間にわたってケアをしていると、『あー』と言えば『水が欲しい』と分かるとか、親子の間でしか分からないあうんの呼吸で意思疎通がされている。そのような状態で福祉サービスを利用しましょうとアドバイスされても、他の人に子供を理解してもらえないのでは、とためらってしまう」
田中さんによると、障害者を抱えた親の間では「子どもをみとった翌日に死ぬのが最も幸せ」とまでいわれている。
「『地域移行』が進んでいますが、経済面を含めた家族の負担は大きいままです。障害者を第一に支えるのは家族だ、との意識が今も社会に根強いからです。この意識を変え、社会全体で障害者を支えるという考えを定着させていくことが、親の安心につながる第一歩だと思います」
取材の最後、もう一度現場を訪れた。前日、郵便受けに無造作に突っ込まれていた宅配ピザのチラシはきちんと抜き取られていた。一見して留守宅と悟られないための配慮のようだ。
「近所の誰かがやってくれてるのとちゃうかな」と前出の男性。温かい人情を感じただけに、よけいにやるせなさが募った。【江畑佳明】
◇私が死んだら息子は生きていけない…
大阪府警旭署が発表した概要はこうだ。3月15日未明、自宅2階で寝ていた長男の首をタオルで絞めたり、口を塞いだりして窒息死させたとして、母の栢森敞子(かやもりしょうこ)容疑者を殺人容疑で逮捕した。同署によると、長男には生まれつき知的障害があり、トイレや食事、入浴がひとりでできなかった。栢森容疑者の夫は認知症で施設に入っており、長男の世話は栢森容疑者がほとんど1人で抱えていた。調べに対して「息子のことが苦になり、手が止まらずに殺してしまった」と述べたという。
事件があった旭区は、大阪市北東部に位置する。地下鉄の出口からしばらく歩くと、市営住宅や木造の民家が建ち並び庶民的な雰囲気が漂う。その一方で、真新しいマンションがあちこちにそびえ立っている。
2階建てのその自宅は、入りくんだ狭い路地に面していた。引き戸の玄関の斜め前に、銀色の雨よけシートをかぶった自転車がぽつんと置いてあった。
「その自転車は栢森さんのやで」と近所の男性(73)が教えてくれた。20年来の親交があるという。
男性によると、長男は電車に乗って作業所に通っていた。「栢森さんはいつも自宅の前で見送るんだけど、5分くらいすると自転車で追いかけていくんや。心配になるんやろうね」。長男を見送る小柄な栢森容疑者の姿は、近所の住民の朝のひとコマになっていたようだ。
また男性は「栢森さんは認知症の夫が入所する施設にも、月2回ほどこの自転車で面会に行ってたよ。片道40分もかけて。大きな道路を通らんとあかんのにね。施設の利用料金を引き落としにすれば手間が省けるんだけど、『手渡しにせんと、足が遠のいてしまうから』と通ってたんやで」と話す。80歳の高齢で交通量の多い道路を自転車で走るのはさぞ大変だっただろう。
ここでどんな生活を送っていたのか。男性は時々自宅に様子を見に行っていたが、いつもほこりがほとんどなく、きれいに掃除されていた。しかし2、3年前から、長男の状態が悪化した。夜尿症がひどくなり、栢森容疑者は「自分も年だし、体力の限界。どうしよう」と訴えていた。
知的障害者は外出時の付き添いや、数泊程度のショートステイなどの福祉サービスを受けられるが、男性は「利用しているところはほとんど見たことがない」と証言する。
「以前に息子さんを施設に入所させようとしたんだけど、息子さんが嫌がったらしい。でも最近は、決意して入所の手続きを進めようとしていたみたいだ」。そして「これを殺人事件だとは考えたくない。息子にあんなに深く愛情を注いではったんやから」とうなだれた。
事件発生から3日で約3週間。大阪地検は今日にも起訴するとみられる。
高齢の母親が将来を悲観するあまり知的障害のある子をあやめてしまう−−こんな悲しい事件は、今回だけではない。
大阪市では昨年11月にも、浪速区のマンションで母親(73)が知的障害のある次男(44)の首を絞めて死なせたとして逮捕されている。次男には重度の身体障害もあり、ひとりでは歩けない状態で、母親と長男が介護していた。
母親は調べに対して「また今日も介護が始まるかと思った。この生活から抜け出すために殺しました」と供述している。
事件が続いた大阪市の障がい福祉課の担当者は「個人情報が含まれるため何も話せない。完全な防止策は難しいだろうが、区と情報を共有し、相談業務などの場で感度を上げて異変やサインに気付くような努力を続けたい」と語る。旭区の保健福祉課は「(相談支援センターなど地域の関係者から成る)自立支援協議会で検討していきます」。その協議会のメンバーは「今回の件に大きなショックを受けています。相談員や施設の間でもっと連携を密にして、障害者の状況把握に努めなければならないと痛感しています」と打ち明けた。対応に問題はなかったか、施策として何が足りなかったのか……。検証やその公開がないままで、再発防止はできるのか。
「残念ですが、このようなケースがまた起きる可能性は高いと思います」と語るのは、佛教大准教授(障害者福祉論)の田中智子さんだ。田中さんは知的障害者を抱えている家族の家計調査などをしてきた。親が子を手にかけても大きなニュースにならず、埋もれている事例をいくつも耳にした。背景には、親子ともに高齢化して親の負担が増え、親の死後への不安も強まる実情がある、と指摘する。
市民団体「大阪障害児・者を守る会」(大阪市)が2013年に府内の重度障害者1620人を対象にした調査では、主に母親が介護をしている割合は95%以上。うち母親が60歳以上なのは28・6%だった。「高齢になるほど回答率が低かったので、実際の比率はもっと高いと考えられます」(播本裕子会長)
障害のある人たちが働く小規模作業所や授産施設などの全国組織「きょうされん」(東京都新宿区)が10年に行った調査では、主な介護者である母親の年代はもっと高い。50歳代37%▽60歳代32%▽70歳代14%▽40歳代13%−−だった。中には94歳の父親が58歳の娘(精神障害)を、93歳の母が72歳の息子(知的・身体障害)を介護している例もあった。
◇「地域移行」で施設は減少
現在国は、障害者の「地域移行」を進めている。施設に“隔離”するのではなく、地域での生活を支援することを趣旨とした「障害者総合支援法」は13年に施行された。現在、障害者個人ごとに生活環境や障害の程度に合った福祉サービスを盛り込んだ「サービス等利用計画」の作成が進められている。
だが大阪障害児・者を守る会の播本会長は「『利用計画』ができても、親の不安はなくなりません」と打ち明ける。「例えばショートステイを利用したくても、施設のスタッフ不足が恒常化しているために、なかなか予約が取れず、利用しづらい状況に変わりはありません。障害者を支える社会的な基盤が整っていないのです」と訴える。
知的障害者が関わった事件を多く担当してきた大阪弁護士会の辻川圭乃(たまの)弁護士は、「『地域で障害者を受け入れる』という方向性自体は間違いではない。ただ、それと引き換えに、グループホームなど入所できる施設の数は減少し、かなり重度の障害者しか入れなくなっている。家庭の事情で入所を希望しても、入れない人たちが出ていることに配慮が必要です」と訴える。
また播本さんは「子どもを施設に預けたいと希望するのは50代の親の比率が最も高い。それ以上年を取ると『一緒にいたい』親が増えてくる。苦労はあっても相互依存的な関係が固定化されてしまっている」と実情を語る。
田中さんも「幼少期から家族以外から支援を受けることに慣れていないと、親が高齢になったからといって急には使えないようです」と解説する。「長い間にわたってケアをしていると、『あー』と言えば『水が欲しい』と分かるとか、親子の間でしか分からないあうんの呼吸で意思疎通がされている。そのような状態で福祉サービスを利用しましょうとアドバイスされても、他の人に子供を理解してもらえないのでは、とためらってしまう」
田中さんによると、障害者を抱えた親の間では「子どもをみとった翌日に死ぬのが最も幸せ」とまでいわれている。
「『地域移行』が進んでいますが、経済面を含めた家族の負担は大きいままです。障害者を第一に支えるのは家族だ、との意識が今も社会に根強いからです。この意識を変え、社会全体で障害者を支えるという考えを定着させていくことが、親の安心につながる第一歩だと思います」
取材の最後、もう一度現場を訪れた。前日、郵便受けに無造作に突っ込まれていた宅配ピザのチラシはきちんと抜き取られていた。一見して留守宅と悟られないための配慮のようだ。
「近所の誰かがやってくれてるのとちゃうかな」と前出の男性。温かい人情を感じただけに、よけいにやるせなさが募った。【江畑佳明】
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