自由意志 人には嘘を言う自由がある
●口では嘘を言えるがからだは嘘をつけない
自由意志の問題は、意識の問題とともに、心理学にとって---人にとってもではあるが--最もやっかいな問題である。 心理学では、自由意志は研究の対象から巧妙にはずすという姑息な?方策をとってきた。心理学を科学にするためには、どうしても、自由意志の介入は邪魔になるからである。 たとえば、心理実験の場面でも、被験者は、実験者に「自由に」逆らうことができる。本当は見えたものも見えないと報告する自由がある。 19**年頃に盛んに行なわれた力動的知覚の実験で、実際にこんなことが起こっているのではないかと疑われる現象がみられた。口に出すことがはばかれるタブー語を瞬間的に呈示して見えたか見えないかを問う実験を行なう。被験者は見えないと報告するときでも、実は、皮膚電気反射(GSR;galvanic skin response)には、見えていることをうかがわせる反応が起こったのである。被験者は、恥ずかしいので、「嘘」をついているのではないかと疑われた。結局、無意識の世界で起こる、心と身体の乖離現象の一つということになり、意図的な嘘ではないらしいということになったが、こんなところに、自由意志の「心理実験上の」困った問題の一端をみることができる。
●心理実験で嘘の報告を防ぐ工夫の数々
心理実験では、次のような工夫をすることで、自由意志の介入を防ぐ手だてをしてきた。 まずは、実験意図を察知されないようにすることである。察知されると、その意図に合うように「自由に」---歪めて---反応されてしまう可能性があるからである。かつて、TV番組制作に協力して、心理実験をしてみせたことがある。ところが、心理学専攻生を使った被験者は、こうした場面では、制作意図を微妙に察知してしまうらしく、実にきれいな結果が出てきて驚いたことがある。倫理的にはやや問題があるのであまり推奨はされないが、「嘘の」実験目的を告げてから実験することもある。注1 あるいは、質問紙調査法では、誰もが「はい」と答えるような項目、たとえば、「あなたは嘘をついたことがありますか」「あなたは嫌いな人に出会ったことがありますか」と言ったような項目---虚偽尺度と呼ぶ--をそれとなく入れておいて、嘘の回答が紛れ込のでいるかどうかのチェックをする工夫もある。 さらに、たとえば、「できるだけ速く」「直感的に判断するように」指示ことで、あれこれと考えられないような状況----自由意志の入り込めない状況---を作る方策である。しかし、実験者の意図通りにはしない「自由」は相変わらず除去はできないので、危うい方策ではある。 もう一つは、力動的知覚のようなこともあるので、言語報告ではなく、生理的指標や行動的な指標を使うこともある。しかし、心と身体の関係はそれほど一意的でもないので、心を知るためには十分ではない。 という次第で、どれもこれも完全な方策にはなりえない。心理研究者の苦闘は続く。
●自由意思の心理学
自由意志は、「実験上は」やっかいものであるが、心の問題としてはその重要性は看過できない。心理学者の中にも、心理学の枠組の中で、自由意志について積極的に発言している人もいる。最近では、下條信輔氏による「サブリミナル・マインド}(中公新書)、「<意識>とは何だろう」(講談社現代新書)での論考が注目されている。
力量不足なのであまり深入りはしないが、一言だけ述べておくなら、思っているほど、人は自由意志によって自分の心をコントロールしてはいないようである。自由意志は人類が作り出した幻想だと言いきる人さえいる。
買物にいって、R社のシャンプーを買ったとしても、それは自由意志によってというより、テレビのCMや店頭陳列の工夫によって作られた仕掛けによって買わされたのかもしれない。
自由意志を幻想だと言い切ってしまうと、その反動で、「すべてを神の御心のままに」ということになってしまう怖さもある。最近の認知心理学では、メタ認知というような概念を使って、自分で自分の認知活動をコントロールするありさまが研究されるようになってきている。心理学でも、こわごわという感じではあるが、実証ベースで自由意志の問題を取り挙げようとする兆しはある。
注1 実験終了後に、真の実験目的を告げて了解をうることが必要
●口では嘘を言えるがからだは嘘をつけない
自由意志の問題は、意識の問題とともに、心理学にとって---人にとってもではあるが--最もやっかいな問題である。 心理学では、自由意志は研究の対象から巧妙にはずすという姑息な?方策をとってきた。心理学を科学にするためには、どうしても、自由意志の介入は邪魔になるからである。 たとえば、心理実験の場面でも、被験者は、実験者に「自由に」逆らうことができる。本当は見えたものも見えないと報告する自由がある。 19**年頃に盛んに行なわれた力動的知覚の実験で、実際にこんなことが起こっているのではないかと疑われる現象がみられた。口に出すことがはばかれるタブー語を瞬間的に呈示して見えたか見えないかを問う実験を行なう。被験者は見えないと報告するときでも、実は、皮膚電気反射(GSR;galvanic skin response)には、見えていることをうかがわせる反応が起こったのである。被験者は、恥ずかしいので、「嘘」をついているのではないかと疑われた。結局、無意識の世界で起こる、心と身体の乖離現象の一つということになり、意図的な嘘ではないらしいということになったが、こんなところに、自由意志の「心理実験上の」困った問題の一端をみることができる。
●心理実験で嘘の報告を防ぐ工夫の数々
心理実験では、次のような工夫をすることで、自由意志の介入を防ぐ手だてをしてきた。 まずは、実験意図を察知されないようにすることである。察知されると、その意図に合うように「自由に」---歪めて---反応されてしまう可能性があるからである。かつて、TV番組制作に協力して、心理実験をしてみせたことがある。ところが、心理学専攻生を使った被験者は、こうした場面では、制作意図を微妙に察知してしまうらしく、実にきれいな結果が出てきて驚いたことがある。倫理的にはやや問題があるのであまり推奨はされないが、「嘘の」実験目的を告げてから実験することもある。注1 あるいは、質問紙調査法では、誰もが「はい」と答えるような項目、たとえば、「あなたは嘘をついたことがありますか」「あなたは嫌いな人に出会ったことがありますか」と言ったような項目---虚偽尺度と呼ぶ--をそれとなく入れておいて、嘘の回答が紛れ込のでいるかどうかのチェックをする工夫もある。 さらに、たとえば、「できるだけ速く」「直感的に判断するように」指示ことで、あれこれと考えられないような状況----自由意志の入り込めない状況---を作る方策である。しかし、実験者の意図通りにはしない「自由」は相変わらず除去はできないので、危うい方策ではある。 もう一つは、力動的知覚のようなこともあるので、言語報告ではなく、生理的指標や行動的な指標を使うこともある。しかし、心と身体の関係はそれほど一意的でもないので、心を知るためには十分ではない。 という次第で、どれもこれも完全な方策にはなりえない。心理研究者の苦闘は続く。
●自由意思の心理学
自由意志は、「実験上は」やっかいものであるが、心の問題としてはその重要性は看過できない。心理学者の中にも、心理学の枠組の中で、自由意志について積極的に発言している人もいる。最近では、下條信輔氏による「サブリミナル・マインド}(中公新書)、「<意識>とは何だろう」(講談社現代新書)での論考が注目されている。
力量不足なのであまり深入りはしないが、一言だけ述べておくなら、思っているほど、人は自由意志によって自分の心をコントロールしてはいないようである。自由意志は人類が作り出した幻想だと言いきる人さえいる。
買物にいって、R社のシャンプーを買ったとしても、それは自由意志によってというより、テレビのCMや店頭陳列の工夫によって作られた仕掛けによって買わされたのかもしれない。
自由意志を幻想だと言い切ってしまうと、その反動で、「すべてを神の御心のままに」ということになってしまう怖さもある。最近の認知心理学では、メタ認知というような概念を使って、自分で自分の認知活動をコントロールするありさまが研究されるようになってきている。心理学でも、こわごわという感じではあるが、実証ベースで自由意志の問題を取り挙げようとする兆しはある。
注1 実験終了後に、真の実験目的を告げて了解をうることが必要
昨日、午後はテニス
鼻にぬって花粉の進入を防ぐ薬を塗ってがんばった
しかし、
おきてからこれまで
鼻のかみっぱなし
やはり無理だったか
でも、テニスの楽しさとこのつらさ
比較したら、やはりテニスをとる
鼻にぬって花粉の進入を防ぐ薬を塗ってがんばった
しかし、
おきてからこれまで
鼻のかみっぱなし
やはり無理だったか
でも、テニスの楽しさとこのつらさ
比較したら、やはりテニスをとる