![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/dd/4a918d1762f55b94a5490f9b6e7b1c04.jpg)
● バグが消えない
出版社側のスケジュールが立て込んでいなければ、原稿をデジタルデータで渡すと、最近では、1月もしないで第一校が送られていくる。そこから、また別の苦闘がはじまる。原稿の校正である。
単なる字句の校正なら簡単なことと思われるかもしれないが、これが意外と最後の最後まで残ってしまうことがある。執筆者も含めて3人くらいが慎重なチェックをしても誤字脱字が1個か2個残ってしまう。
全体が整ってくると、意味読みがどうしても優先してしまい、一字一句チェックがおろそかになる。そこで、自分では、2つの工夫をしている。一つは、最後のページから逆に見ていく方式、もう一つは、見開き2ページのマクロチェック、つまり全体をざっとながめることによるチェックである。いずれも、意味読みを防ぐための校正である。
一字一句チェックで泣かされるのは、日本語の2つの特性、一つは同音類義語の多さーー同音異義語も多いーー、もう一つは類似形対の多さである。
コラム「同音類義語」******
次の文中にあるカタカナ語を漢字に直せ。昔、ワープロの変換精度をチェックするのに巷で使われていた。
「すばらしいキコウ記事を書くことで知られているキシャのキシャは、港にキコウして雑誌にキコウにする行政キコウについての原稿を郵便で送り、キシャせずにキシャでキコウのよい土地に住むキコウを訪ねるために出かけた。」
******************************
もちろん、こうした一字一句チェックのほかに、もっと本質的なチェックとして、内容、構成チェックもある。
第1校あたりでは、追加削除、構成の大幅な変更は可能である。最近はワープロで執筆しているので、かなり出来上がりイメージに近い形で原稿を渡せるのであるが、それでも本の完成イメージで校正原稿が出てくると、直したくなるところが出てきてしまう。
それは、執筆して終わった段階では、自己陶酔に陥ってしまい、チェック機構がうまく働かないためである。頭がホットになっていて、書いたものすべてがすばらしく思えてしまうのである。それが、1、2か月して読まされると、あらが見えてくる。冷静になれるからである。
ここで対応は二手に別れる。自分の場合のように、編集者の作業量が増えるのは気の毒という気持ちから、「まーいいか」精神を発揮して最小限の訂正にとどめる人と、徹底的に納得できるまで訂正を加える完璧主義者とである。だいたい、後者は、締め切りも守らない人であるが、しかし、皮肉ではなく、ワークリミットぎりぎりでの仕事の迫力ぶりは尊敬に値するところはある。
コラム「手書き原稿の校正のものすごさ」******
公開されている作家の生原稿を見る機会がある。その校正の凄まじさに圧倒される。
これは、司馬遼太郎氏の生原稿である。ワープロを使っての執筆とはまったく違った世界があるようだ。
サンプル なし
*****************************