心の風景 認知的体験

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デザインと使い勝手

2013-09-27 | 認知心理学
デザイナーの感性に依存した制作でもう一つ問題が発生するのは,芸術的な完成度の高さへ要求である.本来は,デザインにおけるユーザビリティと芸術性とは,車の両輪のようなものであるべきだが,ときおり,芸術性が優先されてしまうようなことが起こる.絵画や映像などの芸術性なら何も問題はないのだが,デザイン,とりわけ生活と密着したところでのデザインでの芸術性優先は,使い勝手や安全の点で問題を引き起こしがちである.
 これについては,しかし,明快な回答を持っていない.おそらく,デザイン制作の現場では,日常的に抱えている葛藤ではないかと思う.というより,抱えてほしい葛藤でもある.



一駅手前でおりて

2013-09-27 | 心の体験的日記
秋を味わうべく
時間もあったので、
一駅手前おりて
石神井川にそって30分弱の散歩
こんなにのどかで静かなところがこの都会にあるなんて
すっかり気分がよくなって
仕事も気持ちよくできた
川沿いに立つマンションの住民
うらやましい

四苦八苦

2013-09-27 | 教育
四苦八苦

@@@@@@
四苦とは




これに次の4つを加えて八苦
・別れによる苦しみ
・嫌いな人との出会いによる苦しみ
・求めても得らない苦しみ
・心を思い通りにできない苦しみ

(空海;黄金の言葉」ナガオカ文庫)

またまたコンビニ決戦

2013-09-27 | 心の体験的日記
またおとなりに新しい7&11が建築中
我が家の近辺
どんどん人口が増えているからか
それにしても、過剰競争に突入の様相
これがあるから規制がほしくなる
それに政治家と官僚が乗る
気が付くと規制だらけになる
そして、政治家が規制緩和でアピール
という構図

そういえば、イオンも増えて
車30分圏内に2つもある

過剰安全」安心・安全の心理学

2013-09-27 | 安全、安心、

過剰安全



           ―――安全にコストをかけ過ぎると
●危険から隔離する
最近のプラットホームは、新幹線のように、線路とホームの間に仕切りドアが設置されるようになってきた。道路でも歩行者と車の分離がなされるようになってきた。危険から人を隔離する設備である。安全のためには好ましい環境である。
しかし、お金がかかっているであろうことは、容易に推測できる。安全をお金で買う象徴的な設備である。多分、その効果は、年に1人か2人のホーム転落者、事故被害者を救うくらいであろう。だからこその必要なコストと考えるか、それくらいの危険率ならもっと安上がりでと考えるか。これがここでの話である。**注1

●安全にかけるコスト
大は原子力発電所から小は家庭まで、安全にはそれなりのコストをかけている。リスク工学に従うまでもなく、どれくらいのコストをかけるかは、危険の発生率と程度の見積もりによることになる。
保険業界には、そのあたりをマクロに査定するための精緻な数学的公式があると思われるが、一般には、そんな面倒な計算はしない。直感的な見積もりに従って、安全のためのコストを計算して実践している。
直観的な見積りなので、そこに関与する要因はきわめて心理的である。家庭で言うなら、「犯罪が増えているから鍵をもう一つ」「地震が多いので家具留めを追加しよう」「寝る前の安全確認をもっときちんと」となるが、どこまでコストをかけて安全対策をすれば十分かの判断は、その人の体験や犯罪恐怖や災害不安などにかかっている。

●安全のコスト・パフォーマンス
安全を保持するには、それなりのコストをかけなければならないのは当然のことである。しかし、企業論理、あるいは損得論理からすれば、コストをかけたらそれによるパフォーマンスを考えるのも、これまた当然である。これが、コスト・パフォーマンスという考えである。安全コストの計算には、このコスト・パフォーマンスの考えも強く入っている。
一般的に言うなら、安全が長期間にわたって持続しているときには、コストあたりのパフォーマンスを高く見積もる。つまり少ないコストで安全を保とうとする。安全が脅かされると、あるいは脅かされる不安が高まると、パフォーマンスを度外視してでも安全のためのコストを注ぐことになる。
このあたりはシーソーゲームのようなものである。コストとパフォーマンスのバランスが崩れると、安全が脅かされるか、次に述べる過剰安全という事態になる。
もっとも、安全だけは、こうした考えからはずすべし、という極論もないわけではない。行政分野では、コスト意識が希薄なので、こうした考えが受け入れられやすい。これは、過剰安全を押し進める方向に動くことになる。

●安全が過剰
 空港での身体検査は、テロ防止対策のために一層その厳しさを増している。そこに設置されている機器もさることながら、チェックの仕事にかかわっている人々の多さには驚く。また、道路工事には最近は必ず警備員がつく。
いずれも安全のためのコストを押し上げているが、統計をみるまでもなく、その効果(パフォーマンス)は上がっていることは容易に推測がつく。
しかし、一方では、それほどまでにお金をかけてそこまでやらなくともという感じも抱くことがある。
ホーム全体を覆ってしまったり、セキュイティ対策のため送金額の上限を定めたり、複雑な手順を踏まないと使えないパソコン、何段階ものチェックシステムなどなど。
これらすべてを過剰安全と言うわけではない。ただ、安全対策は、想定される危険を念頭に置いて立てられるので、その想定範囲や想定される危険の程度の見積もりが、安全対策を講ずる側と、それを守らされる側とで必ずしも一致しないことが多い。銀行などの例にみられるように、危険の発生が責任問題、保障問題と直結するような場合には、安全対策を講ずる側の見積もりがかなり高くなりので、過剰安全ではないかとの思いを、守らされる側は持つ。
 
●やや過剰かなくらいが丁度良い
安全であるほど安全対策には目がいかない。したがって、コストもかけない。そこをねらうかのようにして、危険が突然襲いかかってくる。
したがって、安全対策はやや過剰かな、と思われるくらいで丁度良い。それによって発生する不便は、それこそ、安全のための心理的、行動的なコストとして我慢するしかない。
 ただ、過剰安全が危険ゼロを目ざすまでになると、世の中が円滑に動かなくなる。挑戦心が殺がれることにもなる。もっと恐ろしいのは、安全帝国主義と呼ぶにふさわしい事態の発生である。安全を錦の御旗に、有無を言わせぬ権力をふるうような事態である。行政権力の中にこうした傾向があるで、警戒したい。(K)




注1 06年6月16日付けの日経新聞朝刊よると、今年度のJR各社の安全投資が、全投資額のほぼ半分を占める。