「LINEのUIが変わった」「使いづらい、元に戻してほしい」――LINEのユーザーインタフェース(UI)が5月7日に変更された。
(yafooニュース、19年5月12日
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UIのバージョンアップあるいは変更は、慣れ親しんだ人ほど、つらい。
自分が使っているgooブログも、最近、変更されたが、
自分にとっては、ほぼ2か月たったが、バージョンダウンだ。
以前は便利で重宝したいたものが、なくなり、
余計な機能が付加され、
慣れ親しんだ操作が変更され
さんざんである。
よかれと思ってやってくれているところもあるのだろうから、
あまり文句は言えない。
新旧並行という選択もありそう。
(yafooニュース、19年5月12日
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UIのバージョンアップあるいは変更は、慣れ親しんだ人ほど、つらい。
自分が使っているgooブログも、最近、変更されたが、
自分にとっては、ほぼ2か月たったが、バージョンダウンだ。
以前は便利で重宝したいたものが、なくなり、
余計な機能が付加され、
慣れ親しんだ操作が変更され
さんざんである。
よかれと思ってやってくれているところもあるのだろうから、
あまり文句は言えない。
新旧並行という選択もありそう。
日曜・健康卓球の仲間に入れてもらって2回目。
昔の感覚がもどりつつあるのを実感。
ついつい向きになって打ってしまう。
それでも10分間隔で休みのルールがあるので
助かる。
それでも、今日は起きぬけ、腰が痛む。
無理は禁物。
昔の感覚がもどりつつあるのを実感。
ついつい向きになって打ってしまう。
それでも10分間隔で休みのルールがあるので
助かる。
それでも、今日は起きぬけ、腰が痛む。
無理は禁物。
親にも教員にも、アスリートのコーチング技術は参考になるはず。
コーチ個人の職人的な技術に内在するユニバーサルなものを共有できたら、
とても、有効ではないかと思う。
市村先生よりメール転載
スポーツ・コーチングのハンドブック。
Routledge Handbook of Sports Coaching (2014)
英・米・加・NZ・豪のコーチング研究者が集まってつくられました。
目次を丁寧に読んで訳してみました。
世界のスポーツ・コーチングとそれを支える人間科学が進んでいく方向が分かるような気がします。
世界のスポーツ界は競技者の競技力の競争に加えて、コーチの指導力の競争に入ってきているようです。
コーチの指導力はエリート・スポーツに限らず、児童の指導にも、高齢者の指導にも、障碍者スポーツの指導にも大切。日本の学術的研究は進んでいない。
原因の一つは、スポーツ好きな心理学者の数や、新しい分野へのチャレンジ精神がアングロ・サクソンやゲルマン人に比べて弱いこと、かなと思ったりします。
メタ認知 頭の中の小人の話
●頭の中にもう一人の自分がいる
ホムンクルス(Homunculus頭の中の小人)の話は、ゲーテの「ファウスト」に出てくる。
「僕は完全な意味で発生したいのです。1日も早くこのガラスを割って、飛び出 したいのです。」(大出定一訳、人文書院、p235)
自然の脅威もままならないが、それ以上に自分の頭のままならなさに我々は悩まされる。じゃじゃ馬を自分の頭の中にかかえこんでその制御に腐心させられているような感じは、誰もが抱いている。「頭の中に小人がいてそれが悪さ?をしている」という感じと言ってもよい。
しかし、実感は、文学の対象にはなっても、科学の対象にはなかなかなりえない。ホムンクルスも、その存在を痛切に実感はできるもののひとたび心理学の中に取り込んでしまうと、今度は、科学の世界で悪さをすることになるので、慎重であった。
なぜなら、人の頭の中にホモンクルスを認めてしまうなら、ホモンクルスの中にさらにホモンクルスを、さらにそのホムンクルスの中にホムンクルスを、---という具合に無限後退が始まってしまうからである。
ところがである。そのホムンクルスが突如、心理学の論文に出現し(注1)、あれよあれよという間に、時代の寵児になってしまったのである。言葉こそ、メタ認知としゃれたものに変わってはいるが、まぎれもなく、ホムンクルスの出現である。
●メタ認知とは
メタ認知とは、要するに、ホムンクルスが、人の認知過程において何がどうなっているかを監視し、適応的な活動をするようにコントロールすることである。(注2)
前述したように、我々の実感としては、ホムンクルスは確かに存在するし、機能している。それを素直に心理学の研究テーマにしたのが、メタ認知研究である。科学方法論的にどうのこうのと考え出したら、怖くて扱えない。しかし、存在するのだから、科学(心理学)は立ち向かうべしとの挑戦心が生み出した産物とも言える。
実は、もう一つ、メタ認知研究の研究に向かわしたものがあると思っている。それは、コンピュータである。
コンピュータには、中央演算装置があり、そこには、OS(Operating System) というソフトがコンピュータ全体の仕事を管理している。ホムンクルスを、このOSの働きにたとえてみることができることに気づいたのである。コンピュータ・アナロジー(->****)の成果である。神秘的色彩の濃かった、そして、科学方法論的には問題であったホムンクルスが、工学的実体としてイメージできるようになったことで、安心して論ずることができるようになったのである。
●心理学の研究の多くはメタ認知の存在を前提にしている
心の働きには、その働きをまったく意識できない領域と、意識しようとすれば意識できる領域と、ほぼ完全に意識できる領域の三つがある。例を挙げてみると、
「意識化不能な領域」 感覚過程 パターン認識の過程
「意識化努力によって意識化可能な領域」 物を覚える過程 問題解決過程 自分の性格や能力の判断過程
「意識化可能な領域」 プランニングや構想過程
このうち、メタ認知が機能しないのは、「意識化不能な領域」である。
ちなみに、こうした領域を、心のアーキテクチャー領域と呼ぶ。これ以外の領域では、メタ認知が機能している。したがって、メタ認知を前提にした心理学独特の研究技法が使えることになる。つまり、意識化可能な領域では、被験者に直接/間接に、「心について尋ねる」手法である。
その際たるものは、内省法(注*)とプロトコル法(注**)である。後者は、何かの作業をさせて終わってから、作業中のことを振り返って心がどうだったかを問う。後者は、作業中に、今あなたは何を考えているかを問う。 もう少し間接的に心について尋ねる方式もよく使われる。その典型が質問紙法である。たくさんの質問を用意して、それに答えてもらうことで、心に迫ろうというものである。
いずれも、メタ認知を前提にしてはいるが、メタ認知は完璧には機能しないので、本当に心を語ってくれているかどうかは保証の限りではない。その保証を担保する仕掛けがいろいろ工夫されている。
研究対象自身に研究対象のことを語らしめたデータを使って科学にしてしまおうという、この心理学独特の研究技法。自然科学の技法と比較すると、本当に大丈夫と心理研究者までもが思う。思うが、ここでがんばることが、心理学が人についての科学の中核になるためには、絶対に必要ではないかとも思う。
***********
注1 Sternberg(19**) が提案した、人の高速検索モデルの中に、Hという一文字が解説なしに---控え目に?---書き込まれているのをみたとき、「エッ!!」とびっくりしたのを今でも思い出す。
注2 メタ(meta)とは、「越える、あとからついてくる」の意の接頭語である。認知の認知、あるいは、認知活動に伴って出てくる活動ということ。
(注3)話がややこしくなるが、メタ認知そのものについての心理学的な研究領域もある。念のため。A.ブラウン(湯川・石川訳)1978「メタ認知」サイエンス社など参照。
注4 W.ティッチェナー(1876-1927)は、感覚領域でも、被験者を訓練すれば内省によって(こそ)心理学の構築に必要なデータが得られるとして、組織的内観法を提唱した。
注5 海保博之・原田悦子編著 19** 「プロトコル分析入門」 新曜社
●頭の中にもう一人の自分がいる
ホムンクルス(Homunculus頭の中の小人)の話は、ゲーテの「ファウスト」に出てくる。
「僕は完全な意味で発生したいのです。1日も早くこのガラスを割って、飛び出 したいのです。」(大出定一訳、人文書院、p235)
自然の脅威もままならないが、それ以上に自分の頭のままならなさに我々は悩まされる。じゃじゃ馬を自分の頭の中にかかえこんでその制御に腐心させられているような感じは、誰もが抱いている。「頭の中に小人がいてそれが悪さ?をしている」という感じと言ってもよい。
しかし、実感は、文学の対象にはなっても、科学の対象にはなかなかなりえない。ホムンクルスも、その存在を痛切に実感はできるもののひとたび心理学の中に取り込んでしまうと、今度は、科学の世界で悪さをすることになるので、慎重であった。
なぜなら、人の頭の中にホモンクルスを認めてしまうなら、ホモンクルスの中にさらにホモンクルスを、さらにそのホムンクルスの中にホムンクルスを、---という具合に無限後退が始まってしまうからである。
ところがである。そのホムンクルスが突如、心理学の論文に出現し(注1)、あれよあれよという間に、時代の寵児になってしまったのである。言葉こそ、メタ認知としゃれたものに変わってはいるが、まぎれもなく、ホムンクルスの出現である。
●メタ認知とは
メタ認知とは、要するに、ホムンクルスが、人の認知過程において何がどうなっているかを監視し、適応的な活動をするようにコントロールすることである。(注2)
前述したように、我々の実感としては、ホムンクルスは確かに存在するし、機能している。それを素直に心理学の研究テーマにしたのが、メタ認知研究である。科学方法論的にどうのこうのと考え出したら、怖くて扱えない。しかし、存在するのだから、科学(心理学)は立ち向かうべしとの挑戦心が生み出した産物とも言える。
実は、もう一つ、メタ認知研究の研究に向かわしたものがあると思っている。それは、コンピュータである。
コンピュータには、中央演算装置があり、そこには、OS(Operating System) というソフトがコンピュータ全体の仕事を管理している。ホムンクルスを、このOSの働きにたとえてみることができることに気づいたのである。コンピュータ・アナロジー(->****)の成果である。神秘的色彩の濃かった、そして、科学方法論的には問題であったホムンクルスが、工学的実体としてイメージできるようになったことで、安心して論ずることができるようになったのである。
●心理学の研究の多くはメタ認知の存在を前提にしている
心の働きには、その働きをまったく意識できない領域と、意識しようとすれば意識できる領域と、ほぼ完全に意識できる領域の三つがある。例を挙げてみると、
「意識化不能な領域」 感覚過程 パターン認識の過程
「意識化努力によって意識化可能な領域」 物を覚える過程 問題解決過程 自分の性格や能力の判断過程
「意識化可能な領域」 プランニングや構想過程
このうち、メタ認知が機能しないのは、「意識化不能な領域」である。
ちなみに、こうした領域を、心のアーキテクチャー領域と呼ぶ。これ以外の領域では、メタ認知が機能している。したがって、メタ認知を前提にした心理学独特の研究技法が使えることになる。つまり、意識化可能な領域では、被験者に直接/間接に、「心について尋ねる」手法である。
その際たるものは、内省法(注*)とプロトコル法(注**)である。後者は、何かの作業をさせて終わってから、作業中のことを振り返って心がどうだったかを問う。後者は、作業中に、今あなたは何を考えているかを問う。 もう少し間接的に心について尋ねる方式もよく使われる。その典型が質問紙法である。たくさんの質問を用意して、それに答えてもらうことで、心に迫ろうというものである。
いずれも、メタ認知を前提にしてはいるが、メタ認知は完璧には機能しないので、本当に心を語ってくれているかどうかは保証の限りではない。その保証を担保する仕掛けがいろいろ工夫されている。
研究対象自身に研究対象のことを語らしめたデータを使って科学にしてしまおうという、この心理学独特の研究技法。自然科学の技法と比較すると、本当に大丈夫と心理研究者までもが思う。思うが、ここでがんばることが、心理学が人についての科学の中核になるためには、絶対に必要ではないかとも思う。
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注1 Sternberg(19**) が提案した、人の高速検索モデルの中に、Hという一文字が解説なしに---控え目に?---書き込まれているのをみたとき、「エッ!!」とびっくりしたのを今でも思い出す。
注2 メタ(meta)とは、「越える、あとからついてくる」の意の接頭語である。認知の認知、あるいは、認知活動に伴って出てくる活動ということ。
(注3)話がややこしくなるが、メタ認知そのものについての心理学的な研究領域もある。念のため。A.ブラウン(湯川・石川訳)1978「メタ認知」サイエンス社など参照。
注4 W.ティッチェナー(1876-1927)は、感覚領域でも、被験者を訓練すれば内省によって(こそ)心理学の構築に必要なデータが得られるとして、組織的内観法を提唱した。
注5 海保博之・原田悦子編著 19** 「プロトコル分析入門」 新曜社