月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

162.だんじりに◯◯◯?そして、だんじりとは何ぞや??-摂津名所図会から2-(月刊「祭」2019.8月18号)

2019-08-21 21:00:29 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 

●だんじりと布団太鼓の古い絵図

 
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
 今回はだんじり編です。まずは、だんじり本体部分の拡大図から囃子方の様子を見ていきます。
 
●だんじりに◯◯◯⁉︎ 鳴り物
 図会の絵を見ると、阪神、河州、泉州、播州の祭関係者は少しびっくりする鳴り物があります。?のところにあるのは。。。?




























?のところにあるのは三味線でした。他に、小さめの太鼓と鉦が、欄干の下側にありますが、内ゴマ・内側にある車輪のすぐそばなので、演奏しにくくはないのでしょうか。また、現在では花形となる大太鼓らしきものが見当たりませんが、見えない部分で演奏しているのかもしれません。
 次は本文と本体を見ていきます。
 
●誉田から始まった(車楽)?
ここの文章が分かりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?と思ったら
 
 
夏祭 車楽(だんじり)囃子 
 車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて今は尾州の津島祭ありて、船にて巡り囃し立つる也。又熱田祭にもあり其他諸州にあり大坂の車楽ハ数おほし(多し)。特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
 
車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて
とあり、河内の国の誉田(こんだ)祭(現・大阪市羽曳野市誉田八幡神社)より始まったとしています。

 
享和元年(1801)成立の「河内名所図会」でも、
誉田例祭(まつり)車楽(だんじり) 
誉田の車楽は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。これだんじりのはじまりなりとぞ
 
と書いてあり、この地域から「だんじり」が始まったという認識を当時の人が持っていたことがわかります。しかし、絵を見ると、河内の方は三輪で大津祭の山や、大阪府南部に分布する櫓(やぐら)を彷彿とさせます。しかし、現在の櫓(やぐら)よりも随分大型なものであったようです。
 では、車楽(だんじり)とは一体何を意味するのでしょうか?
 
●車楽(だんじり)とは?
ここの文章がわかりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?という方は下の本をお読みください。名著です。
誉田
車楽(だんじり)は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。
「摂津名所図会」や「河内名所図会」の作者である、秋里籬島は「だんじり」を「車楽」と書き、「誉田の車楽は、古風にして、他の囃子と違う」と書いています。
 つまり、秋里は車の形に言及しているのではなく、囃子に言及しているのです。
 「車楽」の字も、猿楽、能楽、神楽のように、芸能や音楽を表す楽が後についているので、車楽(だんじり)も車ではなく、車の上で演奏する音楽や芸能を意味していると思われます。
 
 「摂津名所図会」や「河内名所図会」とほぼ同時期にできた浜松歌国(1776〜1827)の「摂陽奇観」には
「河内国古市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にも出る。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞いたまふをまねびけるとぞ。(中略)およそ上代の遺風なるべし、これ車楽のはじまりと誉田の村民はいふなり」
 とあり、車楽は船の上で行われた芸能が起源だということが伝わっています。車楽という書いて「だんじり」と呼ぶ言葉は車両の上での芸能を意味していたようです。
 
 楽車
↑これだと、音楽や芸能をする車両を意味します。
 
車楽
↑これだと、車のうえで行う、音楽や芸能という意味です。
 
 
 
 
 
 
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161. カラフル屋根?バランス悪い?今も残る?幕末の布団太鼓-摂津名所図会より1-(月刊「祭」2019.8月17号)

2019-08-21 13:43:13 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
●だんじりと布団太鼓の古い絵図  
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
 今回は布団太鼓編です。なお比較のための現在の写真は特に指定がないものは大阪市杭全神社の布団太鼓のものです。
 
 
 ●本文
本文は斜体字で記述しました。この祭は上難波仁徳天皇社の旧暦六月二十一日(現行暦で7月半ば頃)の祭です。
 
 
祭日神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。周禮に云(いハく)、韗(うん)人太鼓を昌(はる)にかならず春三月の節啓蟄の日をもってす。注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。
 
「神輿渡御の前に太鼓を鳴らして神をいさめるハ陰気を消し陽勢をまねくならハし也。」
と太鼓が神輿を先導するお先太鼓の役割をしていることが読むとわかります。
 
注に雷声の発するを象(つかさど)る也。難波の夏祭の囃し太鼓ハ数百の雷声にも及バず。炎暑に汗を流し勢猛(いきほひもう)にして天地も轟くばかり也。」
周礼という中国の文献に太鼓が雷声の発するを表しているとあるそうです。難波の太鼓は数百の雷鳴のようで、天地に轟くように大きな音が響き渡るという様から、当時の人に布団太鼓が迫力ある催し物として好まれた様子が伺えます。
 
 
●屋根、狭間と担ぎ棒(今とは違う点)
 今と違う点として、あげられるのが屋根です。白黒で見る限りでは、二色の屋根になっています。 
 また、屋根と水引幕の間に彫刻は無いようです。
 



次に担ぎ棒を見てみましょう。縦の棒は2本で、狭い路地を行けるようにはなっていますが、左右にふれるとバランスをくずしやすそうです。縦棒の間にも人がいることから、はしご型に棒が組まれているとおもわれます。
つまり、現在の大阪の主なはしご型の棒組みはこの頃のものの横棒が長くなったものと思われます。
欄干の下に人が担いでいるように見えますが、棒を担いでいるのか、欄干そのものをかついでいるのかはわかりません。




●地面につける?つけない?
屋台、太鼓台で子どもが太鼓打ちを務める場合、地面に彼ら自身の足をつけさせないようにする風習が、三田市、大阪市杭全神社、姫路市西部や太子町では見られます。
そのために、太鼓打ちは肩車をされて移動してないます。
この図会の太鼓打ちを見ると、一人は地面に足をつけ、一人は肩車をされています。この神社では、廃れつつあったのか、元々なかったのかのどちらかのようです。
 
 
 

↑肩車で運ばれる杭全神社の太鼓打ち
 


●わりとよくある?太鼓の提灯
上の図会を見ると、「太鼓」と書かれた提灯が二つ運ばれています。この風景は今の大阪でもよくみられます。杭全神社では、現在は収蔵庫に提灯がかけられています。
 
↑杭全神社の布団太鼓収蔵庫の提灯
 
天神祭の屋根のない催し太鼓も「太鼓」提灯を持ち歩いています。また「摂津名所図会」には、天神祭の催し太鼓も描かれており、船におそらく太鼓と書かれた提灯が二つ飾られています。
 

↑大阪天満宮の屋根のない催し太鼓の提灯
 
 


 
 
 




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160.東京オリンピックが祭に与える悪影響(月刊「祭」2019.8月16号)

2019-08-21 12:54:14 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-

●はじめに -止まれる地車と止まれないマラソン-

 屋台や地車、山車、太鼓台の祭もオリンピックとは深い関係にあるようです。それを紹介します。

 来年の夏、世界の国をあげた祭・オリンピック・パラリンピックが東京で猛暑の八月に行なわれます。本来ならめでたい、楽しみと言いたいところですが、残念ながらそうとはいきそうにありません。日本に四季があり、適している気候はやはり十月ころか春頃かになるでしょう。しかし、夏に行なわれます。愚の骨頂ともいえる季節の設定です。地車や太鼓台は、いざとなったら、止まって休憩ができますが、マラソンの場合だと、限界を超えてまで頑張ろうとする危険性は極めて高く、例えば危険性の高い競技のみ別時期や別地域での開催を考えなければなりません。

 それはさておき、オリンピックと祭の関わりを見ていきます。

 

●昭和39年東京オリンピック

 昭和39年東京オリンピックの開催を受けて、灘のけんかまつりでは、中村屋台(だったはず)が狭間彫刻をオリンピックの五輪仕様に変えました。

 

●体育の日の制定と祭、突然変えられた祝日

 このオリンピックを境に体育の日が1010日に制定されました。これをうけて、毎年の祭礼日をこの日に固定する祭がでてきました。さしあたり思いつくのが、下の二つですが、多分もっとあるはずです(^^;

 109日、10日 滋賀県大津市天孫神社

          三木市八雲神社 

体育の日に行われている三木市久留美八雲神社の祭           

そして、ハッピーマンデー制度(平成10年制定・国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律)で体育の日が第二日曜日の次の月曜日になりました(いつのまにかスポーツの日になっていました。)。それに伴い、祭礼日を人手不足解消のために、この日に合わせたり、その前日の土日に制定する祭が格段に増えました。「伝統の祭の日を休日に合わせるのはいかがなものか」という議論もありますが、管理人も含め、この日程変更に助けられている節はかなりあります。

また、過疎化が進む地域では、背に腹変えられぬ問題の解決策として機能しています。この日があることで、帰省が容易になり祭がなんとか維持できている地域もあります。

ですが、この貴重な祭連休とも言える祝日を、オリンピックのためにかえようとしています。スポーツの日の他には、海の日、山の日です。いずれも祭を維持するための貴重な休日です。伝統文化とやらを大事にする方々がこの日を無理に変える意味は分かりません。また、夏祭の地域では、警備員をオリンピックに取られて、できなくなる地域も出ているそうです。少なくとも伝統的な祭がオリンピックによってできなくなるのであれば、決してゆるされることではありません。

 

莫大な借金などの問題は管理人には分りませんが、①気候の問題、②祭礼への影響が計り知れないことは子どもでもわかります。

始まってしまったら仕方ないと言うのもわかりますが、打ち水などという悠長なことを言わずに、①は特に危険と思われるものは、日程と場所を変える、②は、祝日の移動の即廃止と、オリンピック誘致した人が責任を持って祭の警備に当たるなどして対応してほしいものです。

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