月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

171.「だんじり」からやぐらへ(月刊「祭」2019.8月27号)

2019-08-29 11:45:51 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 ●泉州のもう一つの名物・やぐらとその特徴
 祭好きの人の多くが、「泉州」と言えば、多くの人が「だんじり」を思い浮かべるでしょう。しかし、もう一つの名物が泉州の特に、南部に分布しています。それが、やぐらです。今回はこの櫓がどのようにしてできていったのかを考えていきます。2019年8月25日新調の阪南市波太神社山中渓櫓を見てきました。
 
やぐら特徴
 やぐらの特徴としてあげられるのは、牛車や祇園祭の山鉾を思わせる大きな二つの車輪です。この車輪では、地面を擦って方向転換するやりまわしはできません。しかし、方向転換が容易で山道などのでこぼこした道や階段なども運行がしやすくなります。
 
 
 
 

 
●やぐらの源流
 「やぐらまつりドットコム」というサイトによると、今から270年前には波太神社の祭礼の形態が今と同様のものができていたという文献があるそうです。たしかに、波太神社は紀州との境目の山際の町であり、櫓のような大きな車輪でないと通りづらかったことが考えられます。とはいえ、突発的にこの車輪が用いられたわけではなく、そのもとになるものがその付近にあったことが考えられます。
 
・地車との類似
 やぐらを見てまず気づくのが、大屋根と小屋根に分かれて彫刻に趣向を凝らせた泉州や河内の地車との類似でしょう。しかし、大阪府内に分布している地車のほとんどは内ゴマで、やぐらのように外部に大きな車輪をつけているものは見られません。この車輪のもとはどのようになっているのでしょう。
 
 
・二輪の山車
 そこで、ひとまず二輪の山車はどのようなものが近隣に残っているのかを調べてみました。
 まず、目についたのが、森田玲「日本の祭と神賑-京都・摂河泉の祭具から読み解く祈りのかたち-」に掲載されていた三重県の石取祭の山車や、『守貞漫稿』に記された江戸の山王祭の山車です。しかし、やや遠方すぎる感はあります。
 

↑喜多川守貞「守貞漫稿」1837〜1867頃
 
 そこで、条件を妥協して大きな外側の「車輪」のものをさがすと、羽曳野市誉田神社のものが見つかりました。
 
・誉田神社の藤花車と車楽
  何回かこのブログでも掲載しましたが、「河内名所図会」には大型の車輪の車楽(だんじり)が掲載されています。ですがよく見ると三輪です。前輪の方にもてこを持っている人がいて、このてこで方向を変えていたとおもわれます。
 
 
 そして、誉田神社所有の藤花車と呼ばれる物が現在も残っています。舞台の裏の記述から天和二年(1682)から文久二年(1862)まで使用されていたことが分かるそうです。
 「河内名所図会」が享和元年(1801)で、下の写真の藤花車は文久二年(1862)であり、絵巻と同じものだということがわかります。一番目立つのは、車輪をとりつけた台木(1)ともいうべきものに、二本の棒(2)が車輪の前に出ており、それは台木の上に取り付けられています。方向転換が容易になったと思われます。
 

↑誉田八幡宮内の藤花車 
 大阪市立博物館「第121回特別展 南河内の文化財 平成5年3月1日〜4月11日」(大阪市立博物館)1993より転載後□と番号を振りました。
 
 
・やぐらの下部
 そこでもう一度櫓を見ると、車輪を取付けるための台木(1)が前に出てきており、上の藤花車の写真のように、そこに前にのびた2本の棒(2)がとりつけられています。管理人が考えるには、やぐらも三輪の時代があったのではないかということです。そこから激しく曳行する上で、前輪の必要がなくなったのだと考えています。その名残が台木ということがいえるでしょう。
 管理人の言う櫓が元々三輪だったという考えが違うにしても、泉南地域に分布するやぐらは、上部は彫刻をこらした二つ屋根の地車(だんじり)をもとにしています。そして、下部は藤花車とも呼ばれた車楽(だんじり)がやぐらのもとになったものだと思われます。
 


●編集後記
 このやぐらやだんじりを見に行くために、若き友人のD君がやぐらの入魂式の情報を調べて、誘ってくれ、町内の運転もしてくれました。そして、同じく若き友人のM君も本当に長距離、長時間、夜通しの運転をしてくれました。あらためてお礼します^_^