第二次大戦が終わって74年が経ちました。
日本の経済復興をさして、もはや戦後ではないという言葉を発した方もいたようです。戦争を知らない人が大半を占め、安易なヘイトや上部だけの勇ましさが溢れる中で、少しだけ想像力を働かせてみます。当時兵士として戦地に行かなければならなかった人の本音、送り出さねばならなかった人の本音はどのようなものだったのでしょうか。
●戦争の遺物から見えるもの
上の図はとある兵士が被っていたと思われる縦長の帽子です。「サムハラ」と書かれているところが帽子のてっぺんになります。糸の玉を並べて縫い付けて文字をつくっています。
そこに書かれている文字が写真の漢字で「サムハラ」と書かれていました。
このサムハラは江戸末期頃からは、鳥がこの文字の札を持っていて鉄砲の名人をもってしても当たらないといった伝承が語られ、弾丸避けのまじないとしてひろまりつつあったようです。
昭和6年には田中富三郎たる人物が故郷の岡山県苫田軍西加茂村の古祠を復興し、大阪にも神社をつくりました。
弾除けの御利益があるという信仰は瞬く間にひろがり、出征兵士達はお守りや、ベストなどにぬいつけるなどして持って行きました。
図をよく見ると、サムハラは中央に来ており、活躍を祈る、武運長久は脇にやられています。つまり、活躍よりも無事を願っていたことがわかります。また武運長久も、長久であるための条件は生き残ることであり、やはり、行きて帰ってくることが送り出さなければならなかった人、お行かなければならなかった人の本音でしょう。
●聞いた話から
「あの頃は憲兵さんがいばっとって嫌やった」
「明石の工場で爆弾落ちてなあ、目の前で女の子が死んでいったわ」
(当時20歳くらい女性の話)
「わし体悪かって兵隊にとられんでよかったわ」
(当時20代半ば男性)
管理人も、このような話を若い頃はよく聞きました。
祭見学に行く中で聞いた、戦時中の氏神さんの霊験あらたかなる話も、「無事に生きて帰って来た」という話が圧倒的に多く、何を願っていたのかが如実に見て取れます。
人々の願いが達せられず亡くなった方は靖国社で御霊として祭られていました。ですが、それでは天神御霊のように国家により「不遇の死」を遂げたというイメージを持たれ厭戦感が蔓延する恐れがある。よって、英霊という言葉を生み出したそうです。ですが、実態は英霊より御霊と言う方が正確でしょう。
その御霊の供養は、隣国を差別したり戦争を美化することではなく、隣国の差別や戦争の美化で自らの批判をかわしたり利益をえるような行為を諌めることです。
参考: 著・田中丸勝彦 編・重信幸彦, 福間裕爾編「さまよえる英霊たち―国のみたま、家のほとけ」(柏書房) 2002
「多くの人は戦争に行きたくなかった。行かせたくなかった。でもそれを国家は禁じた。行っても生きて帰って来たかった。生きて帰って来てほしかった。だけど、それを祈ることを国家が禁じた。」
中で、それでも、人は神仏にその本音を願っていたようです。
●戦時下の提灯、戦後すぐの宮入
参考 コタニマサオ「なんでもかんでも三木」(神戸新聞事業社三木営業所)昭和61年
戦争により祭も思うようにできなくなりました。男は兵隊にとられていたことによります。三木市大宮八幡宮明石町屋台は宮の前に蔵があることもあり、祭の日は、屋台を飾りつけしたそうです。そして、終戦を迎え、祭を迎える10日ほど前に、洪水が起きましたが、明石町、新町はその中でも屋台を担いでまわったそうです。その時には、空腹で力が入らず、棒を30センチほど長くしたそうです。
日本の経済復興をさして、もはや戦後ではないという言葉を発した方もいたようです。戦争を知らない人が大半を占め、安易なヘイトや上部だけの勇ましさが溢れる中で、少しだけ想像力を働かせてみます。当時兵士として戦地に行かなければならなかった人の本音、送り出さねばならなかった人の本音はどのようなものだったのでしょうか。
●戦争の遺物から見えるもの
上の図はとある兵士が被っていたと思われる縦長の帽子です。「サムハラ」と書かれているところが帽子のてっぺんになります。糸の玉を並べて縫い付けて文字をつくっています。
そこに書かれている文字が写真の漢字で「サムハラ」と書かれていました。
このサムハラは江戸末期頃からは、鳥がこの文字の札を持っていて鉄砲の名人をもってしても当たらないといった伝承が語られ、弾丸避けのまじないとしてひろまりつつあったようです。
昭和6年には田中富三郎たる人物が故郷の岡山県苫田軍西加茂村の古祠を復興し、大阪にも神社をつくりました。
弾除けの御利益があるという信仰は瞬く間にひろがり、出征兵士達はお守りや、ベストなどにぬいつけるなどして持って行きました。
図をよく見ると、サムハラは中央に来ており、活躍を祈る、武運長久は脇にやられています。つまり、活躍よりも無事を願っていたことがわかります。また武運長久も、長久であるための条件は生き残ることであり、やはり、行きて帰ってくることが送り出さなければならなかった人、お行かなければならなかった人の本音でしょう。
●聞いた話から
「あの頃は憲兵さんがいばっとって嫌やった」
「明石の工場で爆弾落ちてなあ、目の前で女の子が死んでいったわ」
(当時20歳くらい女性の話)
「わし体悪かって兵隊にとられんでよかったわ」
(当時20代半ば男性)
管理人も、このような話を若い頃はよく聞きました。
祭見学に行く中で聞いた、戦時中の氏神さんの霊験あらたかなる話も、「無事に生きて帰って来た」という話が圧倒的に多く、何を願っていたのかが如実に見て取れます。
人々の願いが達せられず亡くなった方は靖国社で御霊として祭られていました。ですが、それでは天神御霊のように国家により「不遇の死」を遂げたというイメージを持たれ厭戦感が蔓延する恐れがある。よって、英霊という言葉を生み出したそうです。ですが、実態は英霊より御霊と言う方が正確でしょう。
その御霊の供養は、隣国を差別したり戦争を美化することではなく、隣国の差別や戦争の美化で自らの批判をかわしたり利益をえるような行為を諌めることです。
参考: 著・田中丸勝彦 編・重信幸彦, 福間裕爾編「さまよえる英霊たち―国のみたま、家のほとけ」(柏書房) 2002
「多くの人は戦争に行きたくなかった。行かせたくなかった。でもそれを国家は禁じた。行っても生きて帰って来たかった。生きて帰って来てほしかった。だけど、それを祈ることを国家が禁じた。」
中で、それでも、人は神仏にその本音を願っていたようです。
●戦時下の提灯、戦後すぐの宮入
参考 コタニマサオ「なんでもかんでも三木」(神戸新聞事業社三木営業所)昭和61年
戦争により祭も思うようにできなくなりました。男は兵隊にとられていたことによります。三木市大宮八幡宮明石町屋台は宮の前に蔵があることもあり、祭の日は、屋台を飾りつけしたそうです。そして、終戦を迎え、祭を迎える10日ほど前に、洪水が起きましたが、明石町、新町はその中でも屋台を担いでまわったそうです。その時には、空腹で力が入らず、棒を30センチほど長くしたそうです。