月刊「祭御宅(祭オタク)」

一番後を行くマツオタ月刊誌

165.ビルの間の地蔵盆(月刊「祭」2019.8月21号)

2019-08-23 18:13:00 | 民俗・信仰・文化-伝承・信仰-
●8月23日
 この記事を書いているのは8月23日で、全国的?(どちらかといえば関西でしょうか)では、地蔵盆が行われています。
 元々は七月二十四日でしたが、子供たちの夏休みにあたることと、新暦の該当する日が旧暦におおよそ一月足した日になることから、八月にするところが多いようです。
 別記事で詳しく書けたらと思っていますが、元来の地蔵菩薩の縁日は二十四日で、二十三日の午後から夕方にかけて子ども達にお菓子を配るのは、地蔵盆イブともよべる前夜祭のようです。
 神戸市の長田区などでは、子ども達が自転車などで町中の数あるお地蔵さんにお参りし、お菓子をもらっている風景が見られました。長田区は人口密集地で、人家が集まり、その分お地蔵さんもあちこちにいらっしゃいます。その守りをする方も比較的いらっしゃる(といっても後継者が不足しているという話も聞いたことがありますが)ことから、このような行事が盛んに行われると思われます。
 そして、大阪市内でもその風景は見られました。真宗大谷派徳成寺横の久和永寿地蔵です。大阪市には戦災の影響か、鉄筋建の寺院が数多くあります。





●お地蔵さんとオフィス用品会社
 





 突然ですが、上の写真は管理人のPCケースです。そして下の提灯を見てください。


両方にLIHIT LABの文字があります。



聞くところによると、LIHIT LABというオフィス用品などを制作販売している会社の社員さん達が、中心になって祭壇の準備やお菓子配りをされているそうです。子ども達が、順次お参りしていました。
すぐ横には会社の入っている高層ビルがありました。↓(写真をクリックすると、会社ホームページに行きます。)

●奇跡の地蔵
 ここの地蔵菩薩石像は、ビル建設時に地中から偶然、戦災で焼けたものが発見されたそうです。御尊像を拝見させていただきましたが、心なしか、焦げ跡がついているようにも見えました。戦下の中の奇跡によって地蔵は残りました。そして、社員の皆さまのご尽力、そして、お参りされる方々と子ども達によって、ハイカラなオフィス用品の会社と高層ビルと地蔵盆という取り合わせで法灯が保たれていました。

ご奉仕していらっしゃったLIHIT LABの社員の皆さまにご親切に教えていただきました。管理人愛用のPCバッグを持ち歩きながらの見学も何かの縁かもしれません。
本当にありがとうございました。




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164.1790's大阪、布団太鼓と祭に携わる人々-摂津名所図会から4--文身4-(月刊「祭」2019.8月20号)

2019-08-23 07:11:00 | 屋台・だんじり・神輿-その他伝承、歴史-

●だんじりと布団太鼓の古い絵図

地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
今回はだんじりと布団太鼓に携わる人々を見ていきます。

 
●布団太鼓もだんじりも、動く絵画展
動く美術館と言えば、祇園祭などの山車の祭を指していうことがありますが、この当時は、絵画を地肌に施している人、刺青を入れている人が、布団太鼓を担いだり、だんじりを引いたりしていました。
1布団太鼓



↑欄干下を担いでいます。


↑暑い夏の祭。川の水で顔を洗おうとしています。

↑軒先で一休み。履いているのは足袋でしょうか。
 
2だんじり
だんじりのほうにも刺青を入れた人はたくさんいました。




↑棒を担ぐ?押す?人、はやす人、どちらも楽しそうです。7人中5人が刺青です。

↑ひく人の中にも刺青を入れている人がかなりの割合で混じっています。
 猛暑の中、何を食べているのかは、ずっと下です。

◯刺青を入れている人の持ち場
刺青を入れている人が見られたのは、布団太鼓では担ぎ手として、だんじりではひき手としての参加している人に限られていました。逆に言えば、だんじりの上に乗っている人、家の上で見物している人は、服を着ているからかも知れませんが、見られません。
 こうして見ると、江戸時代なだけに、身分の区別があった影響も見られます。しかし、祭という場においては、その身分を超えて、お互いに笑顔で楽しんでいる様子も見られます。
 それは、見物する側の旦那衆が、担ぎ手やひき手に何かを振舞っていたからとも言えます。
 それは、何だったのでしょうか。
 
振舞われる◯◯
なにが、振舞われていたのかを見るために
ずっと下を見てください。
 


 
 





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1布団太鼓に振舞われていたもの
 

↑の絵の右上部分を拡大したのが、下の画像です。
緑の□内では家の奥さんらしき人と担ぎ手が、談笑しています。黄色の◯の人達は、どうぞこちらで休んでくだされと言わんばかりに手招きをしています。
そして、赤い□の中では旦那らしき人が用意しているのは西瓜・スイカです。お盆のスイカを美味しそうに食べていますね。


2だんじりにも
 
 
だんじりにもスイカがふるまわれていました。その様子は↑の絵を拡大した下の画像を見るとわかります。
 子どもも頑張ってお茶を出すお手伝いをしています。美味しそうにひき手の人たちはスイカを頬張り、一人は食べながら引いている人もいます。
 スイカを振る舞う横は、旦那さんとその仲間たち?が豪華な部屋で見物しています。そこに親しげに話しかける笑顔のひき手と笑顔で返す旦那さん。身分を超える一面がこの時から祭にはあったのかも知れません。
 
 
 

















 
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163.獅子噛のない上地車?大阪市だんじり今昔-摂津名所図会より3-(月刊「祭」2019.8月19号)

2019-08-23 06:33:05 | 屋台・だんじり・神輿-台車、骨組み、かけ声、楽器、担ぎ方-
 
●だんじりと布団太鼓の古い絵図  
 地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。 今回もだんじり編で、だんじり本体部分の拡大図で本体の様子を現在の大阪市内のだんじりと比較しながら見ていきます。
 
 
 
↑大阪市若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんしり
↑摂津名所図会のだんじり
 
 全体では、現在のものは当時のものより、やや小さめになっているようです。現在残っているだんじりで古い物は江戸末期のものや明治期のものがあることから、「摂津名所図会」が刊行されてから、間も無く小型化の流れがあったのかもしれません。
●彫刻と刺繍
 
↑大阪市杭全神社泥堂だんじり
 
 
 
↑大阪市若宮八幡大神宮蒲生四丁目だんしり
 
 
 
◯1獅子噛
現在の上地車の象徴とも言える屋根の獅子噛は、この当時では見られません。また、他の彫刻もあまり絵では見られません。
 獅子噛は、弘化三年(1846)の杭全神社市だんじりには見られます。しかし、嘉永五年(1852)の大阪天満宮のだんじりには見られません。「摂津名所図会」の時代にはなく、19世紀中頃より次第に獅子噛は広まっていったようです。
 
 
↑嘉永五年(1852)大阪天満宮のだんじり。獅子噛はない。
 
 
 
◯2刺繍か彫り物か
 そして、水引幕は現在にも引き継がれていますが、
「摂津名所図会」の本文にも
 特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
と、「錦繍」とあるように縫い物が飾られていたことがわかります。現在のものは、水引幕は前部のみで、後部は彫刻になっています。四本柱にも見事な彫刻が彫られており、一方、絵を見ると、だんじりの後部にも水引幕があり、四本柱にも布がまかれています。
 
●前てこと綱元   
↑今福西之町だんじり
 

↑杭全神社野堂北だんじり
◯4(◯3は写真番号付け間違いによりなし)台木
 現在はの台木は、岸和田のものは長方形のままのものが多いですが、上だんじりは、雲?などの模様がついています。また、精巧な彫刻も彫られていますが、「摂津名所図会」のものは、正方形に近い形になっています。
 
◯5てこ
てこは、やや「摂津名所図会」のほうが細いでしょうか。おもしろいのは、現在のものはてこを持つ人が、棒の上まで体を出していますが、「摂津名所図会」のものは、体を屈ませており、むかって右側の人はてこを完全に泣いてしまっています。
 また、上の野堂北だんじりのてこは下の後部の写真のように、杭全神社のものなど、今のものはかなり短く、太くなったものもあります。急ブレーキで止まる時に紐を離したら、てこが落ちて止まるようになっています。
 細長いてこから、各地域の運行の仕方に合わせて進化していっているようです。
 
杭全神社野堂北だんじり後部のてこ
 
◯6綱元
綱元に穴が開いていて、そこから綱をつなげる構造になっているのは昔からのようです。管理人はこのしくみが一番新しいと考えていたので、新鮮な驚きでした。
 
 
 
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