私達が日々仕事をしている
保津川を開削し、船の運航
を可能にしたのが、
京都は嵯峨出身の豪商
角倉了以(すみのくらりょうい)です。
その角倉了以が、保津川を開削してから
来年で400年を迎えます。
この記念すべき年を迎え、保津川下りの‘生みの親’
了以の功績を大いに讃え、広く内外に伝えながら
その人となりを偲ぶべく、保津川下りでは来年に
記念事業を開催する予定です。
そこでこの保津川下りの船頭はっちんのブログでも
400年記念事業というカテゴリを設けて角倉了以や
事業計画を紹介し、来年に備え盛り上げたいと
思っています。
そして第一回はやはり‘生みの親・角倉了以でしょう、
ということに。よくご存知の方も多いとは思いますが、
少し詳しくご紹介したいと思います。
了以は本姓を吉田といい、近江((滋賀県)・犬上郡
吉田村の出で、室町時代より医術で幕府に仕えた
家柄でしたが、嵯峨を拠点に土倉(金融業・質屋)も
営むなど、強い経済力も持っていました。
了以が生まれた16世紀半ばは、世界が大航海時代を
迎えていた時代。
当時の強国(スペイン、ポルトガル、オランダ)などが
世界の海に繰り出していました。日本でも大商人たちが
大船団を組織し、東南アジアを中心に貿易(朱印船)を
始め、巨額の富を手に入れていました。
了以はその大商人の中でも代表的な人物で、
朱印船貿易の数も通算航海数17回は、商人達の中でも
最多の航海数なのです。了以の朱印船は安南(ベトナム)
貿易で、リスクは大きいものの、成功すれば莫大な利益
を生む事業だったので、寛永の鎖国政策が発令される
までは、角倉家の経済戦略の主要分野だったようです。
多くの商人達が貿易で儲けた時代にあって、了以が
その時代の商人たちと大きく異なる事は経済戦略が
海外だけに向けられたものではなく、同時期に
国内にも新事業の展開を摸索していたことです。
安南貿易を開始した翌年の慶長9年(1604)に、
美作(岡山県)和気川で川底の浅い川を自由に行き来き
する高瀬舟をみて、了以は水運事業を思いつきます。
この事業、当時では物流の革命ともいうべき時代の
最先端事業でした。
その最初の舞台となったのが保津川です。
了以は2年後の慶長11年(1606)に
保津川開削事業に着手し、半年で完了させ
船の運航を始めます。
これが400年の歴史を今に伝える
‘保津川下り’の始まりとなるのです。
保津川を開削し、船の運航
を可能にしたのが、
京都は嵯峨出身の豪商
角倉了以(すみのくらりょうい)です。
その角倉了以が、保津川を開削してから
来年で400年を迎えます。
この記念すべき年を迎え、保津川下りの‘生みの親’
了以の功績を大いに讃え、広く内外に伝えながら
その人となりを偲ぶべく、保津川下りでは来年に
記念事業を開催する予定です。
そこでこの保津川下りの船頭はっちんのブログでも
400年記念事業というカテゴリを設けて角倉了以や
事業計画を紹介し、来年に備え盛り上げたいと
思っています。
そして第一回はやはり‘生みの親・角倉了以でしょう、
ということに。よくご存知の方も多いとは思いますが、
少し詳しくご紹介したいと思います。
了以は本姓を吉田といい、近江((滋賀県)・犬上郡
吉田村の出で、室町時代より医術で幕府に仕えた
家柄でしたが、嵯峨を拠点に土倉(金融業・質屋)も
営むなど、強い経済力も持っていました。
了以が生まれた16世紀半ばは、世界が大航海時代を
迎えていた時代。
当時の強国(スペイン、ポルトガル、オランダ)などが
世界の海に繰り出していました。日本でも大商人たちが
大船団を組織し、東南アジアを中心に貿易(朱印船)を
始め、巨額の富を手に入れていました。
了以はその大商人の中でも代表的な人物で、
朱印船貿易の数も通算航海数17回は、商人達の中でも
最多の航海数なのです。了以の朱印船は安南(ベトナム)
貿易で、リスクは大きいものの、成功すれば莫大な利益
を生む事業だったので、寛永の鎖国政策が発令される
までは、角倉家の経済戦略の主要分野だったようです。
多くの商人達が貿易で儲けた時代にあって、了以が
その時代の商人たちと大きく異なる事は経済戦略が
海外だけに向けられたものではなく、同時期に
国内にも新事業の展開を摸索していたことです。
安南貿易を開始した翌年の慶長9年(1604)に、
美作(岡山県)和気川で川底の浅い川を自由に行き来き
する高瀬舟をみて、了以は水運事業を思いつきます。
この事業、当時では物流の革命ともいうべき時代の
最先端事業でした。
その最初の舞台となったのが保津川です。
了以は2年後の慶長11年(1606)に
保津川開削事業に着手し、半年で完了させ
船の運航を始めます。
これが400年の歴史を今に伝える
‘保津川下り’の始まりとなるのです。