今、日本全国に「川下り」と呼ばれる観光川下りが
大小合わせて13社あるといわれています。
その中でもダントツの人気と業績を上げているのが、
手前味噌で申し訳ないですが、私達の「保津川下り」です。
この今日の隆盛の要因を「京都有数の観光地・嵐山に着く」
という‘地の利’を上げる人は多いです。
もちろん、京都、嵐山が控えているのが最大の要因には
違いないのですが、それだけではないと私は思うのです。
今日の繁栄を考える上で、船のFRP化は、
はずすことが出来ない、重要な要素だったのです。
時は日本高度成長時代、日本に観光というレジャーが一般化
し出した頃、保津川下りにも大勢のお客さんがお越しなり、
秋の紅葉シーズンともなると、時間待ちの人達で
乗船所はいつも溢れ返っていました。
しかし、当時の保津川下りの船は木造船ばかり。
木船は一回の航行でも傷みが激しく、水量の少ない時などは
川底にぶつかり、降ろしたての新造船がその日に破損する
こともしばしばでした。
船底が破損したら、浸水するので航行中でも川岸に停めて
修理しなくてはならなかったのです。
木船が乗せられる人員が15~16名、しかも航行中の修理という
時間的ロスも大きいことから、混雑時の配船が回らなかったと
いうのが現状だったようです。
また、木船は船底の腐りも早く、寿命はよくもって
僅か3~4年という消耗品でした。
造って造っても、間に合わない上、製造経費もかさみ
とても採算が取り難い状況でした。
そこで考えられたのがFRP船でした。
FRP・・・ガラス繊維から作られる強化プラスチック。
耐久能力に優れたFRP船には20名以上の乗船が可能で、
しかも大幅な経費削減となり、純利益が一気に上昇することが
望めました。
しかし、事はそう簡単ではなかったのです!
試しにFRP船を製造したものの、元来、保守的な風習が
残る400年続いた伝統産業です。
誰も、このFRP船を乗ろうとしないのです。
「こんな、縁や船底に水面が透き通って映る様な怖い船乗れるか!」
というのがその理由です。
厳しい強度テストをクリアーしても、自分の感覚が頼りの
船頭家業です。だれも信用せず不安感はぬぐえなかったのです。
結局、試しに造られたFRP船は1年間、系留地に放置されたまま、
不必要なFRP船化を進めた当時の理事は組合員から責められ、
試作船の製造経費を負担した商社も大変な苦労があったようです。
その1年後、‘奇跡’が保津川に訪れたのです!
川のゴミ掃除の為、渓谷地に繋いでいたこのFRP船が、
その夜の豪雨により、崖の中腹にまで押し上げられ、止
引っかかっていたのです。
数日後、水量が引いたので、船の後始末に谷に入りました。
船は、高さ10数mの崖に生えている木の枝に引っかかっていました。
粉々に壊れる事を覚悟して、そのFRP船が引っかかっている
木の枝を切り落とすと・・・どうしたことでしょう!
轟音を立てながら谷をねじり落ち、岸の巨岩に打ち付けられても、
粉々に壊れるどころか、全くびくともしていないのです!
この凄い強度を目の当たりにした船頭たちが、全員一致で
このFRP船を採用し、全船のFRP化を進めた事は
言うもでもないでしょう。
こうして採用されたFRP船は、後年の平成3年、
嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車の開通による、
大幅な乗船客増加にも、十分対応する事が出来、
来客数・年間30万人以上という今日の隆盛を支えています。
保津川下りの隆盛はこのFRP船化がなければ、ない!
そう言い切っていいと思います。
先輩船頭の先見の目、船大工さんや自社での立場を
悪くしても計画を推進した商社マンの尽力の賜物で
今の保津川下りがあります。
伝統を守りつつも、常に新しい発想と感性を
研ぎ澄ますことの大切さを教えてくれている様に感じます。
大小合わせて13社あるといわれています。
その中でもダントツの人気と業績を上げているのが、
手前味噌で申し訳ないですが、私達の「保津川下り」です。
この今日の隆盛の要因を「京都有数の観光地・嵐山に着く」
という‘地の利’を上げる人は多いです。
もちろん、京都、嵐山が控えているのが最大の要因には
違いないのですが、それだけではないと私は思うのです。
今日の繁栄を考える上で、船のFRP化は、
はずすことが出来ない、重要な要素だったのです。
時は日本高度成長時代、日本に観光というレジャーが一般化
し出した頃、保津川下りにも大勢のお客さんがお越しなり、
秋の紅葉シーズンともなると、時間待ちの人達で
乗船所はいつも溢れ返っていました。
しかし、当時の保津川下りの船は木造船ばかり。
木船は一回の航行でも傷みが激しく、水量の少ない時などは
川底にぶつかり、降ろしたての新造船がその日に破損する
こともしばしばでした。
船底が破損したら、浸水するので航行中でも川岸に停めて
修理しなくてはならなかったのです。
木船が乗せられる人員が15~16名、しかも航行中の修理という
時間的ロスも大きいことから、混雑時の配船が回らなかったと
いうのが現状だったようです。
また、木船は船底の腐りも早く、寿命はよくもって
僅か3~4年という消耗品でした。
造って造っても、間に合わない上、製造経費もかさみ
とても採算が取り難い状況でした。
そこで考えられたのがFRP船でした。
FRP・・・ガラス繊維から作られる強化プラスチック。
耐久能力に優れたFRP船には20名以上の乗船が可能で、
しかも大幅な経費削減となり、純利益が一気に上昇することが
望めました。
しかし、事はそう簡単ではなかったのです!
試しにFRP船を製造したものの、元来、保守的な風習が
残る400年続いた伝統産業です。
誰も、このFRP船を乗ろうとしないのです。
「こんな、縁や船底に水面が透き通って映る様な怖い船乗れるか!」
というのがその理由です。
厳しい強度テストをクリアーしても、自分の感覚が頼りの
船頭家業です。だれも信用せず不安感はぬぐえなかったのです。
結局、試しに造られたFRP船は1年間、系留地に放置されたまま、
不必要なFRP船化を進めた当時の理事は組合員から責められ、
試作船の製造経費を負担した商社も大変な苦労があったようです。
その1年後、‘奇跡’が保津川に訪れたのです!
川のゴミ掃除の為、渓谷地に繋いでいたこのFRP船が、
その夜の豪雨により、崖の中腹にまで押し上げられ、止
引っかかっていたのです。
数日後、水量が引いたので、船の後始末に谷に入りました。
船は、高さ10数mの崖に生えている木の枝に引っかかっていました。
粉々に壊れる事を覚悟して、そのFRP船が引っかかっている
木の枝を切り落とすと・・・どうしたことでしょう!
轟音を立てながら谷をねじり落ち、岸の巨岩に打ち付けられても、
粉々に壊れるどころか、全くびくともしていないのです!
この凄い強度を目の当たりにした船頭たちが、全員一致で
このFRP船を採用し、全船のFRP化を進めた事は
言うもでもないでしょう。
こうして採用されたFRP船は、後年の平成3年、
嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車の開通による、
大幅な乗船客増加にも、十分対応する事が出来、
来客数・年間30万人以上という今日の隆盛を支えています。
保津川下りの隆盛はこのFRP船化がなければ、ない!
そう言い切っていいと思います。
先輩船頭の先見の目、船大工さんや自社での立場を
悪くしても計画を推進した商社マンの尽力の賜物で
今の保津川下りがあります。
伝統を守りつつも、常に新しい発想と感性を
研ぎ澄ますことの大切さを教えてくれている様に感じます。