自民党が左翼に乗っ取られてしまったから、今のような体たらくがあるのだろう。愛国心が少しでもあるのならば、こんなことにはならなかったはずだ。田中美智太郎は、ソクラテスが「愛国者」であったことを力説していた。
田中は『哲学的人生論』において、ソクラテスの一点の曇りもない愛国心を高く評価した。ソクラテスにとって国家は絶対であった。「いかなる場所に於いても、国家と祖国の命じることを為さねばならぬ。そうでなければ、正義の本性にかなう仕方で、祖国を説得しなければならぬ。そうしないで、暴力に訴えたりすることは、父母に対する場合でも無道のおこないとなるが、祖国に対してはなおさらのことである」という『クリトン』での言葉を紹介している。
ソクラテスはアテネの兵士として最前線で戦っている。デリオンの敗戦では、殿(しんがり)をつとめて勇敢沈着であったといわれる。暴力を誇示したわけではなく、ソクラテスの精神性の高さがあったからである。
田中は「ソクラテスはかゝる精神の徳の上に祖国の富強が築かれることをねがっていたのである。かゝる徳によってのみ、愛国は戦場や法定の局所のみに限られず、外的条件の偶然に支配されることのない、心からの行為となるのである」と書いている。
しかし、ソクラテスを死刑に処した者たちは、国家を害するとして法廷で裁いたのである。彼らは私的な感情であったにもかかわらず、国家を持ち出すことで、自分たちを正当化したのだ。ソクラテスはそうではなかった。死の危険が迫っていても「私の利害を国家的利害の如くに錯覚することをしなかった」のである。
そうした偽の愛国心についても、田中は触れている。「神社のような神聖な場所には、かえって罪人が逃げ込んだり、乞食が宿を取ったりする。私たちは愛国心のかげに悪徳が忍び込むことを自分自身に対して警戒しなければならない」からである。
愛国心は無私から出たものでなくてはならない。今の自民党の国会議員に、それがあるかどうかなのである。国会議員としての立場を維持したいがために、簡単に主義主張を変えるようでは、愛国者とは呼べないのである。真の愛国者は国家を絶対視するがゆえに、無私に徹しなければならず、それが結果的に祖国を救うことになるのだ。それを身をもって教えてくれたのがソクラテスなのである。