重松清さんの「鉄のライオン(「ブルーベリー」改題)」(光文社文庫)を読んだ。
帯には「1981年、3月。僕は、ひとりぼっちだった。でも、そこから、新しいドラマが始まる。'80年代の東京が生んだ人間模様」とある。学部は違うけれど同じ大学に同じ年に入学している。また懐かしいことをいろいろ思い出させてもらえるかもしれない、と手を取った。
もちろん同じキャンパスにいても、学生時代にお会いしたこともないし、私は自宅から通学しており、下宿していたわけではないから同じような生活をしていたわけでもない。
けれど、間違いなく懐かしく、通じるところがある。不思議な同世代だ。
もとのお話の題名は「ブルーベリー」とのこと。
確かに流行ったなあ・・・、と思う。ブルーベリーガムなんてそれまではなかったし、合宿等で信州方面にいけばブルーベリーのお菓子類が本当にいろいろあった。おシャレな雰囲気のジャムもゼリーもクッキーもチョコレートも・・・。
12の短編の中のひとつ「マイ・フェア・ボーイ」で「贅沢と無駄遣いは違うからね。」と、主人公より5歳年上の彼女が話すくだりがある。
学生時代は当たり前のように皆がお金がなかったから、基本的には贅沢はしない、無駄遣いはしない、という感じだった。もちろん、たまの贅沢は親のすねかじり以外の何物でもないのだから、当然といえば当然なのだけれど。
働き出して四半世紀が過ぎ、50歳に手が届くようになった今、自由な時間は当時と比べ格段に限られているが、それでもかつてとは比べようもないくらい自由になるお金は、ある。もちろん、公務員として普通に地味に働いて・・・というお金だから、バブルも関係なかったし、決して大金ではない。けれど、自分で稼いだお金、他の人にお伺いを立てて使わなければならないお金ではなく、自分の裁量で使うことの出来る幾ばくかのお金だ。
残念ながら、その金額が多いかどうかは、今や一回の治療費が比較考量の基準になっている。
1回の支払いよりも高ければ、ちょっと再考・・・、それよりも安ければ、ま、いいんじゃない、というかなりアバウトなものだ。どうもいけない・・・。病院に行くと、1000円札と10000円札の重みが同じになってしまうのだ。1回の治療に数万円支払うが、クレジットカードが使えるので支払いの場面でそれほど痛みがないのも怖い。逆に、通院するたびに毎回ATMで現金をおろしていたら、かなり落ち込みそうである。
都内に住んでいながらわざわざ都内のホテルに一泊する、などということをしばしばやってしまう我が家の遊び方は、とても信じられない無駄遣いに思われる方が多いかもしれない。
けれど、それは私にとっては決して無駄遣いではない。もちろん贅沢ではない、とは思わない。電車に乗れば1時間かそこらで帰れる家があるのに、わざわざお金をかけて泊りに行くのだから。それなら、もっと都外に出ていけば、とおっしゃる向きもあるかもしれない。
でも、今の私にとってこうした1泊旅行は毎週の治療の合間に、遠出はできないけれど、しっかりリフレッシュし、近い目標として免疫力アップするための大事なスパイスなのだ。また、次の治療も頑張る自分のために、そして、いつも支えてくれる家族とともに、ちょっと贅沢に美味しいものをゆっくり味わう時間のために。
だから、私にとっても、小説に出てくる女性の言葉通り、無駄遣いと贅沢は違う。無駄遣いはイエスではないけれど、こうしたたまの(いや、少しばかり頻繁かもしれないけれど)贅沢は大手を振ってイエスなのだ。
食べるために働く、治療のために働く、楽しむために働く。本当ならば平均寿命まであと35年以上あるから、60歳で定年になっても年金が出るまでに5年間繋がなければいけないし、その後、子どもをあてにしないでなんとか自力で生きていくため、となれば蓄えも必要だろうけれど、どうも今やそこまで必要なさそうだし、息子に安易にお金を残すこともいいことではなさそうだ。
だから、想い出づくりのため、免疫力アップのために、いくばくかのお金を使う贅沢は決して無駄遣いではない。
昨夕からの頭痛だが、ロキソニンを飲んでもあまりおさまらず、今日も朝から頭が重くすっきりしない。午前中に行こうと思っていたヨガもキャンセル。曇り空のせいかもしれないが、体も重くて動く気がしない。午前中にまたロキソニンを飲んでみたが、悪化はしないものの痛みが取れない。
結局、今日は1歩も外に出ることなく、また、やろうと思っていた家の中の片付けもできず、最低限の家事と読みかけの本を2冊読んだだけで終わってしまった。
帯には「1981年、3月。僕は、ひとりぼっちだった。でも、そこから、新しいドラマが始まる。'80年代の東京が生んだ人間模様」とある。学部は違うけれど同じ大学に同じ年に入学している。また懐かしいことをいろいろ思い出させてもらえるかもしれない、と手を取った。
もちろん同じキャンパスにいても、学生時代にお会いしたこともないし、私は自宅から通学しており、下宿していたわけではないから同じような生活をしていたわけでもない。
けれど、間違いなく懐かしく、通じるところがある。不思議な同世代だ。
もとのお話の題名は「ブルーベリー」とのこと。
確かに流行ったなあ・・・、と思う。ブルーベリーガムなんてそれまではなかったし、合宿等で信州方面にいけばブルーベリーのお菓子類が本当にいろいろあった。おシャレな雰囲気のジャムもゼリーもクッキーもチョコレートも・・・。
12の短編の中のひとつ「マイ・フェア・ボーイ」で「贅沢と無駄遣いは違うからね。」と、主人公より5歳年上の彼女が話すくだりがある。
学生時代は当たり前のように皆がお金がなかったから、基本的には贅沢はしない、無駄遣いはしない、という感じだった。もちろん、たまの贅沢は親のすねかじり以外の何物でもないのだから、当然といえば当然なのだけれど。
働き出して四半世紀が過ぎ、50歳に手が届くようになった今、自由な時間は当時と比べ格段に限られているが、それでもかつてとは比べようもないくらい自由になるお金は、ある。もちろん、公務員として普通に地味に働いて・・・というお金だから、バブルも関係なかったし、決して大金ではない。けれど、自分で稼いだお金、他の人にお伺いを立てて使わなければならないお金ではなく、自分の裁量で使うことの出来る幾ばくかのお金だ。
残念ながら、その金額が多いかどうかは、今や一回の治療費が比較考量の基準になっている。
1回の支払いよりも高ければ、ちょっと再考・・・、それよりも安ければ、ま、いいんじゃない、というかなりアバウトなものだ。どうもいけない・・・。病院に行くと、1000円札と10000円札の重みが同じになってしまうのだ。1回の治療に数万円支払うが、クレジットカードが使えるので支払いの場面でそれほど痛みがないのも怖い。逆に、通院するたびに毎回ATMで現金をおろしていたら、かなり落ち込みそうである。
都内に住んでいながらわざわざ都内のホテルに一泊する、などということをしばしばやってしまう我が家の遊び方は、とても信じられない無駄遣いに思われる方が多いかもしれない。
けれど、それは私にとっては決して無駄遣いではない。もちろん贅沢ではない、とは思わない。電車に乗れば1時間かそこらで帰れる家があるのに、わざわざお金をかけて泊りに行くのだから。それなら、もっと都外に出ていけば、とおっしゃる向きもあるかもしれない。
でも、今の私にとってこうした1泊旅行は毎週の治療の合間に、遠出はできないけれど、しっかりリフレッシュし、近い目標として免疫力アップするための大事なスパイスなのだ。また、次の治療も頑張る自分のために、そして、いつも支えてくれる家族とともに、ちょっと贅沢に美味しいものをゆっくり味わう時間のために。
だから、私にとっても、小説に出てくる女性の言葉通り、無駄遣いと贅沢は違う。無駄遣いはイエスではないけれど、こうしたたまの(いや、少しばかり頻繁かもしれないけれど)贅沢は大手を振ってイエスなのだ。
食べるために働く、治療のために働く、楽しむために働く。本当ならば平均寿命まであと35年以上あるから、60歳で定年になっても年金が出るまでに5年間繋がなければいけないし、その後、子どもをあてにしないでなんとか自力で生きていくため、となれば蓄えも必要だろうけれど、どうも今やそこまで必要なさそうだし、息子に安易にお金を残すこともいいことではなさそうだ。
だから、想い出づくりのため、免疫力アップのために、いくばくかのお金を使う贅沢は決して無駄遣いではない。
昨夕からの頭痛だが、ロキソニンを飲んでもあまりおさまらず、今日も朝から頭が重くすっきりしない。午前中に行こうと思っていたヨガもキャンセル。曇り空のせいかもしれないが、体も重くて動く気がしない。午前中にまたロキソニンを飲んでみたが、悪化はしないものの痛みが取れない。
結局、今日は1歩も外に出ることなく、また、やろうと思っていた家の中の片付けもできず、最低限の家事と読みかけの本を2冊読んだだけで終わってしまった。