2月も折り返したというのに、今日の寒かったこと。朝よりも午後の方が気温が低くなるという予報通りではあったけれど、昼休みに外に出る頃には冷たい雨が降り出して、北風も吹き、肩をすくめながら歩いた。
それでも、ふと見上げると学内のハクモクレンの花芽が顔を出していた。厳しい寒さの中でも春は確実に近づいてきているのだと思う。
昨夜はフェソロデックスの注射跡が両側とも重苦しく痛んだ。心配していたゾメタ後の発熱はなし。通院疲れで早目にベッドに入ったものの、寝がえりを打とうとすると、右を向いても、左を向いても自分の体重がかかると臀部が痛み、その都度目が覚める始末。仕方なくずーっと仰向けに寝ていることになった。
今朝は昨日に比べて大分落ち着いてきたが、下着のあげおろしの時等に触れたり擦れたりするとズーンと痛む。
これまでで一番痛みがあるように思う。この後、回を重ねるにつれて痛みが増すというなら、ちょっと憂鬱だ。けれど、4週に1度、わずか10分横になっているだけで済み、食事も美味しく摂れるなら何のこれしき、と思わなければならないだろう。
さて、何度もご紹介している毎日新聞連載の「診察室のワルツ」の最新号を転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
診察室のワルツ:/43 後悔しないために=岡本左和子(毎日新聞 2013年02月13日 東京朝刊)
まるでジェットコースターの頂上から落ちて行くようでした。40年ほど前、ジャンボ機同士が千葉沖でニアミスを起こし、もし衝突していたら約500人の命が奪われ、当時としては史上最悪の飛行機事故になっていました。私は、その一方のジャンボ機に乗っていました。あの時の機内の叫び声は今でも忘れることができません。
このニアミス以来、私は多少なりとも危険が伴うことをする時は、後悔しないために必ず「自分はどうしたいのか」と問うことにしています。例えば、健康診断の胃カメラなどの内視鏡検査でも、「検査をした方がいいと思っている?」と自分に聞いてみます。常に安全に気を配っている医療者の皆さんには申し訳ありませんが、これらの検査は危険がつきものです。万が一の場合は自分の身体が傷つきます。一方、検査を受けなければ、病気を早期発見できない危険が伴います。受けるか否かについて、「担当医に言われたから」「会社の規則だから」と、誰かに責任を押し付けることはできません。患者自身が決断するものなのです。
治療のため患者が選択できない検査や処置もあります。その時は「理由に納得した? 受けようと思った?」と自分に確認します。私たちは日々、置かれた環境や社会通念、他人の思いに影響され、受動的に決めることが多くあります。実は、これは「自分を見捨てている」ことになります。一般に医療は治療計画に従い進められますから、「先生に言われたから仕方ない」となりがちです。しかし、仕方ない選択であっても、患者が「主体的に選んだか」は、治療の進め方や結果に大きな違いをもたらします。以前にも書きましたが、治療の結果は良くても悪くても患者が引き受けるのです。
これは「自分の思いを押し通せ」という意味ではありません。医学的な決断をする医師が、患者の思いを取り入れて治療をするには、患者が「自分はどうしたいか」をはっきり伝えなければなりません。治療の折々に、「自分はどうしたいの?」と問いかけてみてください。闘病中に忘れがちな自分の思いに耳を傾け、自分自身を大切にする方法でもあります。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者)
(転載終了)※ ※ ※
こうして病院との関係が切れない身になると、ここに書かれていることがとても実感出来る。誰のものでもない自分の体だ。何がどう起ころうと、最終的には自分の体が全て引き受けなければならない。だからこそ、検査を受けるにつけ、治療薬を変えるにつけ、きちんと自分で納得することが大前提だ。決して先生が・・・とか、家族が・・・などと責任転嫁はしてはならないのだと改めて思う。
自分で納得して自分が送りたい人生、自分らしい人生を生きる、そのためにはどうしたらよいか。そう考えて決断すれば、結果がどうあれ、後からあの時こうすればよかった・・・、もし、ああしていたら、・・・とはあまり思わないで済むように思う。これからもその部分だけがブレなければ、そう不幸せなことにはならない、と信じている。
今週は4日間だったけれど、出張あり、通院あり、で電車に乗っている時間(人身事故に遭遇したということもあり)が長かったので、あっという間のわりには身体的には疲れている。
それでも明日から嬉しい週末。また、お楽しみとメンテナンスの日程が控えている。
それでも、ふと見上げると学内のハクモクレンの花芽が顔を出していた。厳しい寒さの中でも春は確実に近づいてきているのだと思う。
昨夜はフェソロデックスの注射跡が両側とも重苦しく痛んだ。心配していたゾメタ後の発熱はなし。通院疲れで早目にベッドに入ったものの、寝がえりを打とうとすると、右を向いても、左を向いても自分の体重がかかると臀部が痛み、その都度目が覚める始末。仕方なくずーっと仰向けに寝ていることになった。
今朝は昨日に比べて大分落ち着いてきたが、下着のあげおろしの時等に触れたり擦れたりするとズーンと痛む。
これまでで一番痛みがあるように思う。この後、回を重ねるにつれて痛みが増すというなら、ちょっと憂鬱だ。けれど、4週に1度、わずか10分横になっているだけで済み、食事も美味しく摂れるなら何のこれしき、と思わなければならないだろう。
さて、何度もご紹介している毎日新聞連載の「診察室のワルツ」の最新号を転載させて頂く。
※ ※ ※(転載開始)
診察室のワルツ:/43 後悔しないために=岡本左和子(毎日新聞 2013年02月13日 東京朝刊)
まるでジェットコースターの頂上から落ちて行くようでした。40年ほど前、ジャンボ機同士が千葉沖でニアミスを起こし、もし衝突していたら約500人の命が奪われ、当時としては史上最悪の飛行機事故になっていました。私は、その一方のジャンボ機に乗っていました。あの時の機内の叫び声は今でも忘れることができません。
このニアミス以来、私は多少なりとも危険が伴うことをする時は、後悔しないために必ず「自分はどうしたいのか」と問うことにしています。例えば、健康診断の胃カメラなどの内視鏡検査でも、「検査をした方がいいと思っている?」と自分に聞いてみます。常に安全に気を配っている医療者の皆さんには申し訳ありませんが、これらの検査は危険がつきものです。万が一の場合は自分の身体が傷つきます。一方、検査を受けなければ、病気を早期発見できない危険が伴います。受けるか否かについて、「担当医に言われたから」「会社の規則だから」と、誰かに責任を押し付けることはできません。患者自身が決断するものなのです。
治療のため患者が選択できない検査や処置もあります。その時は「理由に納得した? 受けようと思った?」と自分に確認します。私たちは日々、置かれた環境や社会通念、他人の思いに影響され、受動的に決めることが多くあります。実は、これは「自分を見捨てている」ことになります。一般に医療は治療計画に従い進められますから、「先生に言われたから仕方ない」となりがちです。しかし、仕方ない選択であっても、患者が「主体的に選んだか」は、治療の進め方や結果に大きな違いをもたらします。以前にも書きましたが、治療の結果は良くても悪くても患者が引き受けるのです。
これは「自分の思いを押し通せ」という意味ではありません。医学的な決断をする医師が、患者の思いを取り入れて治療をするには、患者が「自分はどうしたいか」をはっきり伝えなければなりません。治療の折々に、「自分はどうしたいの?」と問いかけてみてください。闘病中に忘れがちな自分の思いに耳を傾け、自分自身を大切にする方法でもあります。(おかもと・さわこ=医療コミュニケーション研究者)
(転載終了)※ ※ ※
こうして病院との関係が切れない身になると、ここに書かれていることがとても実感出来る。誰のものでもない自分の体だ。何がどう起ころうと、最終的には自分の体が全て引き受けなければならない。だからこそ、検査を受けるにつけ、治療薬を変えるにつけ、きちんと自分で納得することが大前提だ。決して先生が・・・とか、家族が・・・などと責任転嫁はしてはならないのだと改めて思う。
自分で納得して自分が送りたい人生、自分らしい人生を生きる、そのためにはどうしたらよいか。そう考えて決断すれば、結果がどうあれ、後からあの時こうすればよかった・・・、もし、ああしていたら、・・・とはあまり思わないで済むように思う。これからもその部分だけがブレなければ、そう不幸せなことにはならない、と信じている。
今週は4日間だったけれど、出張あり、通院あり、で電車に乗っている時間(人身事故に遭遇したということもあり)が長かったので、あっという間のわりには身体的には疲れている。
それでも明日から嬉しい週末。また、お楽しみとメンテナンスの日程が控えている。