調べてみてびっくりした。
「我慢」はもと仏教用語で、「我(が)をよりどころとして心が高慢であること。自分をたのんで、自ら高しとすること」(小学館『日本国 語大辞典』)だという。「七慢」と呼ばれる悪徳の一つで、七慢とは「慢、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、卑慢、邪慢」だそうな、やれやれ・・・
一見したところ、他の「慢」は他人と自分を比べて優劣を競う印象があるのに対し、我慢はひたすら自分を高めるもののようで、今日話題の自己愛を塗り固めた ものとでも言おうか。メラニー・クラインの筆法を借りれば、他は「嫉妬」の系列、我慢は「羨望」の系列とも言えるのかな、たぶん。
ともかく、もともとこういう言葉であった「我慢」が、いつ頃どうして逆転一番、「忍耐」の意味をもつようになったのか、興味深いところではある。箱根駅伝 を走ったアフリカ出身のランナーで、日本に来て「ガマン」という言葉とともに「ガマンすること」を覚えた、と語った若者があったが、彼もこれを聞いたら驚 くだろうな。
白状すれば「がまん」の語源が気になったのは、最近自分に「がまん」が不足しているかなと思ったからだが、実は「がまん」が不足しているというより、「我慢」が過剰なのかもしれない。
反省
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教会も新年度に入った。明日はCS(教会学校)の中高生に、アダムの創造の話をする。旧約聖書の創世記2章7節、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」というくだり。
息は風であり、風は霊であり、それによって人は生きるものになる。日本語でも「息」と「生きる」は酷似している。「息をひきとる」とは、はかなくも美しい表現だ。
チェーホフの短編『グーセフ』の一節を思い出すのだが、いま手許に見当たらないので、また後で。(最近ほんとにこれが多くてイヤになる・・・)