散日拾遺

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面接授業の楽しみ@高松

2013-04-27 22:12:42 | 日記

地方の学習センターで面接授業を担当する仕事には、三つの楽しみがある。

一つにその土地を訪ねる楽しみ、二つに学生と出会う楽しみ、三つに学習センターの所長先生方と会う楽しみだ。

楽しみの前にひとつ厄介なこと、面接授業はほとんどが土日に設定される。前日の金曜日は終日診療にあてているから、夜間に入って現地へ移動することになる。診療後に新幹線や飛行機で長距離移動する疲れもあり、その前にまずは旅装で朝夕の電車に乗り込む煩わしさと気まずさだ。無事に移動して宿に入れば、後は楽しむばかり。

もうひとつ、一コマ85分の授業を二日間で8コマこなすのも力仕事だが、学生の顔を見ると必要な力は出てくるのが不思議なところ。

 

今回は、30名余りの受講生の中に全盲の女性の姿があった。そのことは事前に香川SCの担当者から知らされており、そのため配付資料は通常より早めにメール添付で送るよう依頼されていた。事前に点字化する時間の余裕をとるためである。

それを聞いたとき、やや首を傾げた。桜美林の健心一期生には視覚障害をもつ学生が二人いて、一人は全盲、もう一人は高度の弱視であった。全盲の子はボランティアに頼むなどして教科書や教材を点字化していたが、学期の半ば近くまで間に合わないことが多かった。そのハンデにも関わらず、この二人の学生がほとんど常にトップの成績を収めるには敬服したが、ともかく骨の折れる作業である。10日ほど前倒しで資料を送ったぐらいで、間に合うものだろうか。

 

これが浦島太郎だというのだ。桜美林初年度からまる11年経って、時代は進歩していた。

ワープロ教材を送れば、受け取った側でスキャンしたうえOCRでテキスト化し、これを点字化ソフトにかければあっという間に点字資料ができあがる。(そうと分かっていれば、初めから電子データで資料を送るのだった。)石丸教授の面接授業では教科書に加えて大量の補助教材を用いるが、Mさんはその全てを事前に点字の形で手許に準備し、予習までして授業に臨んだのだった。

 

「技術は日進月歩なのに、これを用いる人間の品性は少しも進歩しない」というのが日頃のつぶやきだが、今度ばかりは技術の進歩を手放しで喜びたい気持ち。ただ、困難は別のところにあって、どうやら大量の点字資料の中から任意の箇所を頭出しするのが、今のところ簡単ではないらしい。

「教科書の120頁を開けて」とか、「補助資料15頁の上の表を見ると」とか、その種の指示のたびにMさんが難渋しているのが気の毒である。いつもより板書を多用し、書きながらその内容を読み上げる工夫などして、これは桜美林時代を思い出した。

 

もうひとつ、新鮮でもあり嬉しくもあったのは、Mさんが盲導犬連れだったことである。レトリバー Retriever というのだろうか、艶やかな黒い犬で名前をパンディーという。香川SCではおなじみの仲間で、「先代の犬はお利口やったが、このパンディーは少しヤンチャやな」との定評。かがんで挨拶したら、迷わず身を寄せペロペロと我が頬を舐めてくれた。

 

最前列に座って点字器を操るMさんの足下で、「お仕事中」の札を首に付けたパンディーはおとなしく丸まって寝ているが、ときどきMさんが何事か言って聞かせる時には、どうやら退屈してモゾモゾしているらしい。主従相和した姿が微笑ましかったので、二日目終了後に一緒に写真に写ってもらった。Mさんの許可を得てここにアップする。

 

     

 

帰宅後にMさんが、もう1枚写真を送ってくれた。「パンディーがレインコートを着ている写真です」と。これは大きく載せておこう。

 

 

 

それにしても、Mさんはなるほど身体の視力を欠いているけれど、教科書やプリントを自在に活用するばかりか、写真を撮影してメールでやりとりすることも、視力をもつ者と同じ感覚で楽しんでいる。心の眼はしっかりと見えているのだ。そうしてパンディーと共に、小豆島から船でやってきて高松で学ぶのである。香川SCの宝であろう。

 

Mさんから教わったことを二つ記しておく。

 

視覚障害者の場合、階段をスロープにしてしまうと、かえって目印がなくて歩きづらいことが起きるのだそうだ。どこを何段あがってどっちへ向かって、というふうに覚えているので、階段をなくされると困るのである。そういえば、桜美林の学生で脳性麻痺のため歩行障害をもっていた男の子も、「僕らは階段の方がずっと歩きやすくて、スロープは難渋します」と言っていたっけ。

もちろん、車椅子にとってはスロープが命綱で、階段があってはあがったりだ。どんなやり方にも一長一短があり、それぞれの事情によって何がベストかは違う。「障害」を一括りにする粗雑な発想ではかえって問題をややこしくするだろう。個別に丁寧に考える必要のあること、精神科の診療と変わらない。

 

もうひとつ、これは「迂遠」と呼ばれる精神症状について説明していた時だ。

「私がこれから松山へ移動したくて道を訊いたとします。皆さんなら、『バスでJR高松駅へ行き、予讃線で行きなさい』と教えてくれるでしょう。これに対して、『まず教室を出て右へ行くとエレベーターがあるから、それで1階へ降りて、そこから建物を出て30mほどで左へ曲がって、50m先を右へ折れて』という具合に説明していると、いつまで経っても松山に着かないですね。こんな具合に細部を省略できない結果、話が長くまわりくどくなってしまうことを『迂遠』と呼びます。」

するとMさんが笑って言った。

「その教え方、私らにはいちばん助かるわぁ!」

なるほど、

一本取られました。

 

重ねて言うが、何が「適切」であるかは立場によって違うのだ。

Mさん、大事なことを伝えてくれてありがとう。パンディーによろしく!

 


お雇い外国人(続)

2013-04-27 06:54:23 | 日記

勝沼さんが見つけてくれた『お雇い外国人 ~ 明治日本の脇役たち』を、3分の1ほど読んだ。

旅行中は、はかどらないので、と言い訳しておく。

良い本である。

 

書かれたのは1965年、当時少壮の歴史家であった筆者・梅溪昇が、日経新聞社出版局の勧めで上梓したとある。筆者は1921年(大正10年)の生まれ。大戦末期に関東軍隷下に戦い、3年間抑留された後、「戦中・戦後に異郷に没した戦友に申し訳ないという思いを抱きつつ」帰国した。

 

そのような背景をもつ筆者が、折しも東京オリンピック開催をバネにして本格的な高度成長が始まろうとする時代に、近代日本の出発に貢献した外国人たちの事績を記録した小著である。この経緯を知って、思い巡らすべきことは既に多い。

 

まだ70頁ほどだけれど、いろいろ学ぶところがある。

冒頭に筆者が明治維新の歴史的意味づけに触れ、「日本社会の内部で生産力が高まり、封建制度を覆そうとする必然的な力が生じていたのであって、黒船以降の外圧は偶発事に過ぎない」という唯物史観流の説に、まず反論を加えているところが書かれた時代を感じさせる。

歴史を語る際に、唯物史観に対する自分の立場を明示することが不可欠な時代だった。司馬遼太郎が『坂の上の雲』の中でこのお作法を守ったりしている。窮屈と言えば窮屈だが、歴史をめぐって「ものの見方」を人が真剣に考えた証しでもある。今はどうか。

 

進んで、明治維新以前の叙述が詳しいのに驚いた。「お雇い外国人」に象徴される西洋の科学技術の導入は、アヘン戦争前後の西洋東漸の空気を感じて外様雄藩や幕府が既に始めていたもので、明治維新はそうした動きの結果である(原因ではない)、そう考えれば当然か。

 

叙述の本筋からは逸れるが、明治維新の動きの中で筆者が「王政復古」と「王政維新」を区別しているのも面白い。倒幕はその後の経過次第では、単なる「復古」に終わる可能性があった。それを「維新」の方向へ転轍する必要があり、西南戦争はまさにそのような意義をもったとする。大西郷は、この視点からは守旧派の首魁だったのだ。(あるいは進んでその役を負ったか。)

 

それから、フルベッキという人物。オランダ系アメリカ人ながら、手続きのミスで「無国籍人」であった(!)というこの宣教師(Guido Herman Fridolin Verbeck、或いはVerbeek、1830年1月23日 - 1898年3月10日)は、本書に依れば「最大のお雇い外国人」と言ってもよい存在だが、実に無私の人物で、献策の功をすべて岩倉具視らに譲ってこだわるところがなかったという。

彼の姓は「ファーベック」とでも発音すべきところ(オランダ語ならフェアベークかな)、日本人が発音しやすいように自ら「フルベッキ」と表記し、それが今に引き継がれたのだという。教科書などでも教わった覚えがないが、歴史の裏には必ず(必ず!)縁の下の力持ちがあるものだ。

 

今はちょうどボアソナードが登場したところで、そういえば法政大学にはボアソナード・タワーがあったなと思い出した。

 

*****

ラジオ体操に続く今朝の「サンデー・トピック」で、お雇い外国人の話が出た。

面白いもので何かに関心を持つと、それにまつわる情報が「ここにもあるよ」とばかり回りから聞こえてくる。

今朝は地震学である。(話し手が誰だか、聞き漏らした。)

1880年(明治13年)2月22日の0時過ぎ、東京湾を震源とするマグニチュード5~6ほどの地震があった。横浜で震度5程度と推定されており、日本人の感覚では大震災というほどのものではなかったが、外国人居留者の多い横浜を襲ったところが重要だ。これらの外国人の大多数は、地震というものを経験したことがなかったのだから。

 

ここにジョン・ミルン(John Milne、1850年12月30日 - 1913年7月31日)というイギリス人があり、お雇い外国人として1876年以来、地質学などを教えていた。アメリカ人モースとも親交があり、モースが発見した大森貝塚の年代を2640年前と推定したのはミルンだという。この人物が横浜地震に遭遇して地震学の必要性を感じ、その年のうちに日本地震学会を創設して自ら副会長に就任した。学会に集った者の中にジェイムズ・ユーイング(Sir James Alfred EWING、1855~1935)というもう一人のイギリス人があり、ミルンとユーイングがその後の地震学の祖となったという。

この人々について、梅溪著は触れていない。

紙数の限りがあるから、誰もかもは無理だよね。

代わりに東大地震研のHPが、さらに一人のイギリス人 Thomas Gray (トマス・グレイ)を加えた3人の事績を紹介している。本当に、お雇い外国人と呼ばれる人々はたくさん、た~くさんいたのだ。

 

ジョン・ミルンは日本人女性トネと結婚し、1913年に故国イギリスで他界した。

トネ夫人はその6年後に病気療養のため帰日し、さらに6年後の1925年に故郷函館で亡くなった。

「函館市船見町26番地に、ジョン・ミルン夫妻の墓がある」と Wiki 情報。

函館に行くときは、寄ってみようっと。

Ewing 水平振子地震計(模型)

http://outreach.eri.u-tokyo.ac.jp/earth_trivia/history/history_academiabirth/