関西の大学に行っている長男から、朝、珍しく電話あり。
「え?地震?」
家内の声が裏返った。
テレビを点けると、やっている。
5時33分ごろ、淡路島付近地下10㎞を震源として、M6.0の地震ありと。
最大震度6弱、瓦屋根の傷んだ様子がヘリから映し出される。
けが人は出ているが幸い死者はなし。
長男らは淡路島の北端からだと直線距離で40㎞もないところにいるが、震度は3~4程度。しかし同地の人々は直ちに思い起こしたことだろう。
1995年1月17日(火)午前6時前。
僕らはちょうどアメリカにいて、3年間の滞在の一年目の終わり近くだった。
そしてあの時も電話だった。
アメリカは月曜の夕方、夕食の支度をしていた家内が、料理のレシピを訊きたくて兵庫の母親に珍しくも国際電話をかけたのが、偶然にも地震発生の直後だった。
ものすごい揺れで廊下の柱時計が倒れ、家具のガラスがどれもこれも粉々に割れて危険な状態だが家族は無事と伝えられた。その直前に祖母が百歳近くで大往生を遂げたところで、震災に巻き込まれずに他界したことが家族の慰めとなった。いったん置いた電話はその後しばらく不通となり、日本国内の家族らに向けアメリカから「実家は被害あるも無事」と連絡したものである。
その夜から、アメリカの三大テレビがトップニュースとして震災後の日本の状況を伝えることが、ちょうど一週間にわたって続いた。
8日目になり、代わってトップに報じられたのはO.J.シンプソンの妻殺害容疑に関する裁判開始のニュースだった。
***
当時のことをぼんやり思い起こしていると、テレビの画面が地震から北朝鮮に代わった。
北朝鮮の国営テレビ放送が、既に準・戦争状態に入ったと報じている。北朝鮮の一般民衆の姿は例によってまったく見えないが、向こう側に非常な緊張があり(それが作られたものであるにせよ)、こちら側とは大きな温度差があるのは確からしく、それがまたもうひとつの記憶を呼び起こす。
アメリカ滞在中、仲良しのサラのお母さんが日米開戦当時の思い出を語ってくれたことがある。
「日本との間で問題が起きていることは知っていたけれど、外交交渉で解決されると信じていたから、真珠湾攻撃のニュースには本当に驚いた。」
サラの年長の友人であるマーリンは、開戦当時すでに学齢だったから、自分自身の思い出がある。
「真珠湾が日本軍に攻撃された、と町で大人達が言っているので、家に帰ってそのとおり母に伝えたの。そしたら母がびっくりして、拭いていたお皿が床に落ちて割れたのを、今でも覚えているわ。」
まさか戦争になるとは、アメリカの民間人は露ほども思っていなかったのだ。日本の側ではどうだったか、一般人がどれほど具体的に戦争の危険を察知していたか分からないが、それが遅かれ早かれ不可避であることを、薄々ならず感じていたのではなかったか。
この温度差が恐ろしいのである。
そういえば、わが友スンヒョンは北側に親族が大勢いたはずだ。
スンヒョン、おまえいったい、どこに行っちゃったわけ?!
韓国の精神科医、金承賢(キム・スンヒョン)の居所を、誰か知っていたら教えてください・・・
「え?地震?」
家内の声が裏返った。
テレビを点けると、やっている。
5時33分ごろ、淡路島付近地下10㎞を震源として、M6.0の地震ありと。
最大震度6弱、瓦屋根の傷んだ様子がヘリから映し出される。
けが人は出ているが幸い死者はなし。
長男らは淡路島の北端からだと直線距離で40㎞もないところにいるが、震度は3~4程度。しかし同地の人々は直ちに思い起こしたことだろう。
1995年1月17日(火)午前6時前。
僕らはちょうどアメリカにいて、3年間の滞在の一年目の終わり近くだった。
そしてあの時も電話だった。
アメリカは月曜の夕方、夕食の支度をしていた家内が、料理のレシピを訊きたくて兵庫の母親に珍しくも国際電話をかけたのが、偶然にも地震発生の直後だった。
ものすごい揺れで廊下の柱時計が倒れ、家具のガラスがどれもこれも粉々に割れて危険な状態だが家族は無事と伝えられた。その直前に祖母が百歳近くで大往生を遂げたところで、震災に巻き込まれずに他界したことが家族の慰めとなった。いったん置いた電話はその後しばらく不通となり、日本国内の家族らに向けアメリカから「実家は被害あるも無事」と連絡したものである。
その夜から、アメリカの三大テレビがトップニュースとして震災後の日本の状況を伝えることが、ちょうど一週間にわたって続いた。
8日目になり、代わってトップに報じられたのはO.J.シンプソンの妻殺害容疑に関する裁判開始のニュースだった。
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当時のことをぼんやり思い起こしていると、テレビの画面が地震から北朝鮮に代わった。
北朝鮮の国営テレビ放送が、既に準・戦争状態に入ったと報じている。北朝鮮の一般民衆の姿は例によってまったく見えないが、向こう側に非常な緊張があり(それが作られたものであるにせよ)、こちら側とは大きな温度差があるのは確からしく、それがまたもうひとつの記憶を呼び起こす。
アメリカ滞在中、仲良しのサラのお母さんが日米開戦当時の思い出を語ってくれたことがある。
「日本との間で問題が起きていることは知っていたけれど、外交交渉で解決されると信じていたから、真珠湾攻撃のニュースには本当に驚いた。」
サラの年長の友人であるマーリンは、開戦当時すでに学齢だったから、自分自身の思い出がある。
「真珠湾が日本軍に攻撃された、と町で大人達が言っているので、家に帰ってそのとおり母に伝えたの。そしたら母がびっくりして、拭いていたお皿が床に落ちて割れたのを、今でも覚えているわ。」
まさか戦争になるとは、アメリカの民間人は露ほども思っていなかったのだ。日本の側ではどうだったか、一般人がどれほど具体的に戦争の危険を察知していたか分からないが、それが遅かれ早かれ不可避であることを、薄々ならず感じていたのではなかったか。
この温度差が恐ろしいのである。
そういえば、わが友スンヒョンは北側に親族が大勢いたはずだ。
スンヒョン、おまえいったい、どこに行っちゃったわけ?!
韓国の精神科医、金承賢(キム・スンヒョン)の居所を、誰か知っていたら教えてください・・・