散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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苗字のこと

2013-04-15 12:09:19 | 日記
遅めの昼休み、わが苗字についてあらためて考える。

マレーシアの留学生が訝ったごとく、「丸石」と「石丸」では意味が違うのかもしれない。
「丸」にはもちろん円・球の意味があるけれど、それだけではない。
例えば城に「本丸」「二の丸」がある。大坂城の攻防戦では、真田幸村が「真田丸」を拠点に活躍した。
そして船の名前がある。「咸臨丸」「第五福竜丸」。
さらに人名、伊賀の「影丸」から横綱「武蔵丸」まで。

大型船を近くから見上げれば、水上に城が建ったような威容がある。
「丸」は「円・球」すなわち完全に閉じた図形という意味から出発して、ひとまとまりの完結した建築物を現すようになり、それが城郭や船の命名に用いられるようになったのではないか。
だとすると「石丸」は、石で築かれたそのようなもの、という含意があるだろうか。
(でも船を石で造ったら沈んじゃうよね。地上の建物限定かな。)

伊予松山界隈には、石丸がとても多い。
むろん全国的には少ない。
山形に転校したときは、ものすごく珍しがられた。
高校に入って上京し、同級生に「今度、秋葉原に一緒に行こうぜ」と言われたときは、何のことか分からなかった。後に桜美林大学では、クロンメルヴァインという名の南ドイツ出身の声楽の先生が、僕の顔を見るたびに「いしまる~、いしまる~」と美しいテノールで歌いかけてくれた。
(あの電気店は、遂に名前を変えちゃったね、数年前にエディオンに吸収され、時間の問題だったらしいが。なお、創業者の石丸鶴雄さんという人は東京都出身とネット情報にあるが、2004年3月30日の他界の際、四国新聞にも訃報が大きく載った形跡があるので、ルーツは四国かもしれない。四国新聞社は香川が本拠地だ。)

四国以外では九州に若干。
やはり桜美林で僕の後から着任してこられ、不注意な人々が郵便物やメールの誤配を繰り返したもう一人の石丸先生は、九州出身で御先祖は佐賀藩・鍋島家に仕えるお侍であったそうな。
鍋島家と言えば化け猫騒動に「葉隠」か。
この石丸先生は刃物を研ぐことが趣味のひとつという奇特な御仁で、今は焼き物で知られるわが故郷の松山市砥部町が、良質の砥石を産するゆえにその名を持つことを御教示くださった。

我が家は武家ではないが、家の伝承では石丸を名乗ってから僕で14代目という。
(幕府ならそろそろ滅びる頃だな、室町幕府も江戸幕府も15代まで、鎌倉幕府は将軍は9代までだが執権が16代で終わり、ここにはきっと意味があるよね。)
14代といえばその初めは江戸時代も前半に遡るから、伝承が本当なら「功あって苗字帯刀を許された豪農」ぐらいのところだろうか。時代が下って武家の財政事情が逼迫するにつれ、金で苗字帯刀の権利を買うことも生じた(多くは一~二代限り)というが、江戸時代前半にそれは珍しかったろう。近い御先祖達は名主クラスのお百姓で、村の馬医(ばい)さん、つまり獣医を兼ねていたらしい。

*****

三國連太郎さんの訃報が目に止った。
本名は佐藤政雄さん、1923年1月20日生まれ、満90歳2ヶ月25日。
芸名も芸もカッコよかったね。すーさん、ありがとう。



囲碁歴

2013-04-15 10:23:31 | 日記
何がそんなに面白いのかと思いながら、面白くてヤメられないのが碁の不思議だ。
苗字が石丸、だからかな。
丸い石、って、碁石以外に考えられないよね。
(昔、マレーシアからの留学生に「丸石」っていう名前は分かるけど、「石丸」ってどういう意味ですかって真顔で訊かれ、答に窮しましたっけ。)

はじまりは親の影響で、中学生の頃、将棋にハマっている息子に「碁というものもあるのだ」と教えてくれたのが父である。父は将棋を指さないので、自分の知っているものの方に息子を誘導したのだな。
井目(盤面に9子の黒石を配置して打つハンディの付け方)から始めて毎晩打っていると、子どもの学習は早いからだんだん置き石が減っていくのが面白い。
「長屋の縁台で尻をからげてさすのが将棋、碁は君子のたしなみ」といったことも、誰かに聞かされた。
どっちもいいよね。

父の同僚でアマ二~三段の人々があり、ときどき稽古を付けてくれたりする。
武宮正樹さんが宇宙流で売り出し、石田芳夫さんが最年少で本因坊になったのがこの時期のこと。
石田さんは本因坊獲得後のスタジオ102でアナウンサーに「一度に何手ぐらい読むんですか?」と訊かれ、「千手ぐらいですね」と答えて相手を絶句させた。
(モノの本には「500手」とあるが、確か1000手と言ったんだよ。次の一手の選択肢が10個あるとして、それぞれについてその後の展開を100手ぐらいは考えるから、だいたい1000手と。「すごいなあ」と、「そう考えればそのぐらいになって当然だな」と、感想こもごもだった。)

中学一年から卒業までは名古屋、その後にワケアリで東京の高校を受験しに出たときは父が引率してくれたのだが、袋に碁石を入れて旅先を持ち歩き、頭の休憩と称して打ったりした。ありがたかったな。

高校・大学から研修医時代はほぼブランクで、ときどき思い出したように家族と打つ程度。
通った二つの大学を跨いでちょっと面白い出来事があったが、これは短編小説ネタに温めているので、ここには書かない。

そんな中で今でも思い出すのが、30歳も過ぎてから京都の遠縁の叔父に「キミの趣味は何か?」と訊かれた場面である。生まれたばかりの長男を連れて挨拶に行った時だったが、隠退した高校数学教師である叔父がその日はえらくゴキゲンで、「趣味は何や? What is your hobby?」とあやしげな英語混じりに訊き、答え渋っていると「碁ぉなんかどうや?」と提案してくれたのだ。関西訛りで「碁」と発音すると「碁ぉ」になる、あれだ。
へぇ、と思ったのは、叔父自身は戦中戦後にたいへん苦労し、道楽に費やす金もヒマもなく刻苦勉励して今日を築いた人だったからである。この人が口にするぐらいなら、碁は打っても良いものなのかなと妙に納得した。この叔父はきわめて元気な超高齢者だったが、昨年、不慮の事故で亡くなった。数学教育者の目に碁がどう見えているのか、報告かたがた訊いてみたかった。

それですぐにという訳ではなく、それから15年ほども経ってやみつきになったのは、やはり親がからんでいる。帰省の時に父が新聞の棋譜を並べたりしているので、これなら共通の話題にできるかと思ったのだが、その後のやり方に、自分らしさが現れていて苦笑する。

碁は対戦型ゲームだから、碁を打つというなら対局しないと意味がない。けれども碁会所に出かけることもせず、昨今流行りのインターネット対局を試しもせず、ただただ囲碁新聞や解説書を読み、詰め碁を解き、棋譜を並べるばかりで、父や息子達と家庭内で打つ以外はまったく対局しなかった。
理由は二つあって、いったん始めるとハマって抜けられなくなるだろうと思ったことがひとつ、根が負けず嫌いなので勝負にこだわって碁を楽しめなくなると恐れたことがひとつ、その二つの理由で固く対局を控えていた。その代わり、囲碁新聞の問題を解いてはハガキで答を送ることをしばらく続けた。

ここに傑作がある。
ハガキの応募者には、解答の正誤にかかわらず抽選で囲碁関係の書籍や囲碁用品があたる。全国から毎週数千人規模の応募者があるから、賞品が複数あってもそうそう当たるもんではない。僕のくじ運は人並みぐらいで、抽選のたぐいは当たったことがなかった。(医科歯科の精神科忘年会で幹事をやったとき、自分が商品に選んで準備した宮沢りえの写真集を、ビンゴで自分が当てちゃったのが唯一の例外。)

それが、囲碁新聞の抽選にはむやみに当たるんだよ、本当にむやみに!
「碁神」と呼ばれる本因坊道策の分厚い打碁集があたったのを皮切りに、解説書や携帯碁盤セットなど、3年ほどの間に4~5回も当たっただろうか。天啓かしらと思ったことだ。
それにも励まされて応募を続けるうち、正解ポイントが順調にたまっていって、遂に囲碁新聞でとれる最高位のアマ六段の点数がたまった。「一局も外で打たない者が、六段のわけないだろ」と思いながら、悪い気はしなかった。
ただ、これはやっぱり制度に問題があるよね。県代表クラスの本当の強豪が、六段とか七段とかいうレベルなのだから。

ともかく、それで「あがり」となるはずだった僕の擬似碁歴が、対局を経験するようになったのは二年前、「せっかくここまで勉強したのなら一度は打ってみたら」と地元のカルチャースクール通いを誕生日にプレゼントしてもらったのがきっかけで。

ここにも天啓あり、囲碁の指導啓発で活躍中の某プロ九段が渋谷で開講していた教室が、ちょうどこの時期に我が家の近辺に場所を変えてくれたのを、家人が目ざとく見つけたのだ。以来二年間、仕事があるから欠席は多いが、行けるときだけというスタンスでもそれなりに学ぶものはあり、否、大ありだった。

(続く)


十干十二支

2013-04-15 08:26:41 | 日記
『丁丑公論』といえば、

タイトルの「丁丑」は干支、「ひのと・うし」のことである。
明治十年に書かれたもので、同年が「ひのと・うし」だったので福沢がこのように題したのだ。
内容は物騒なもので、この年の西南戦争で反逆者の汚名を着た西郷隆盛らを擁護し、当然、痛烈な政府批判につながるものを含んでいる。
当時は讒謗律(明治8年制定、同13年旧刑法制定に伴い失効)および新聞紙条例のもとに、自由民権運動をはじめとする反政府的な言動は厳しく抑圧されていた。このため福沢は書いたものをいったん封印した。それが世に出るのは福沢の没年、明治34年のことであった。

今は福沢のことには立ち入らない。すごすぎるからね。
「丁丑」の話である。

十干十二支のうち、十二支は今に引き継がれているが、十干のほうは滅多に語られることがない。
十干が何だか覚えてはいるが、どういう意味があるのかは僕も知らない。
「木・火・土・金・水」、五行の思想は何だか意味ありげで面白そうだと思うぐらいだ。
(ATOKは五行思想を御存じないようで、「もっかどごんすい」と入力したら「目下ドゴン水」と出てきた。どんな水だ?)

おさらいしてみる。

十干とは、甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸(こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き)
これは順に、木(きのえ・きのと)火(ひのえ・ひのと)土(つちのえ・つちのと)金(かのえ・かのと)水(みずのえ・みずのと)と読み下される。

十二支は御存じ、子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

この組み合わせで各年のエトが決まるわけだ。
エトの組み合わせは何通りあるか?
10×12で120通り、というのは、かつて僕が大の得意だった「早とちり」の典型例で、並べてみれば分かるように実際には60通りしかできない。(これを理屈で説明しようとすると、単純な僕の頭はいともたやすく不条理の世界に迷入してしまう。)
60年でエト(十干十二支)が出発点に戻るので、満60歳(というか人生の61年目)を「還暦」というわけだ。

これが人生の標準的な長さの近似値(今日の標準ではちょっと短いが)になっているのは偶然ではなくて、古代の中国人がそのように設定したのだろうと家人の説、きっとそうだろうね。
それはさておき、丁丑は「ひのと・うし」と確かめてふと今さら気づいたのだが、「ひのと・うし」の年はあっても、「ひのえ・うし」という年はゼッタイできない。「丑」は「乙・丁・己・辛・癸」とは組むが、「甲・丙・戊・庚・壬」とは組まない。
だから120通りではなく、60通りなのだ。あたりまえだが、今まで気づいていなかった。

そこで十二支の動物を、「甲・・・」と組むか「乙・・・」と組むかで二群に分けてみる。

甲群: 子 寅 辰 午 申 戌
乙群: 丑 卯 巳 未 酉 亥

これを眺めて、何か言えないかな~と思ったりするが、どうなんでしょうね。
それぞれ直近の対を比べてみると・・・

ネズミ(軽小敏速)vs ウシ(巨大鈍重)
トラ(強力獰猛) vs ウサギ(柔弱温順)
リュウ(天空飛翔)vs ヘビ(地上跛行)
ウマ(快速疾駆)vs ヒツジ(鈍足徘徊)
イヌ(馴化秩序)vs イノシシ(野生奔放)

それぞれ何かしら理屈は付くし「竜頭蛇尾」なんていう熟語もあるぐらいで、きっとこの対照/対称は本来の意図の内にあるのだろう。
ただ、サルとトリはどうなるのか。
利口なお猿と、三歩歩けば忘れるおバカな鳥・・・とは思いたくないのですよ。
トリ年だからね、僕は。

歴史に話を戻すと、大きな出来事をエトでもって命名できるのは便利なところだ。
本朝の場合、古いところでは壬申の乱がある。壬申の乱が西暦672年と覚えておくと、すべての年のエトはそこから計算できる。戊辰戦争(1868年)のほうが便利かな。
その間のできごとは元号で呼ぶことのほうが多く、さほど用例が多くはないね。
近いところで阪神甲子園球場や関連施設は、その一帯の開発が本格的に始まった大正13年(1924年)が「甲子(きのえ・ね)」の年であったことに由来する。

中国史にはこの例は多いだろう。近くは辛亥革命(1911年)、それに先立つ戊戌の変法(1898年)など。
秀吉による文禄・慶長の役は、韓国・北朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と呼ばれるそうな。
1592年と1597年のエトにちなんだものだ。

今年は巳年、癸(みずのと)巳の年である。
内外とも水辺が和やかであれかしと切念する。