散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

囲碁歴(続き)

2013-04-16 07:45:46 | 日記
囲碁教室は毎回2時間半ほど。
前半が講義で、後半が対局。

主宰するI先生がすごいと思うのは、10分足らずの休憩時間のうちに、その日の対局の組み合わせをたくみに案配することだ。出席者は全員来れば80名にもなるし、4,5級から五段まで棋力もさまざまなんだから大変だよ。
アシスタントがその日の出席カードを棋力別にざっと分けておいたのを、より分けながら二つ組みにしていく。同じ顔合わせが2週連続にならないように、近い棋力のもの同士を組み合わせるのは、簡単な作業ではない。しかもお互いの相性などにも細かく配慮していることが、打ってみてるとよくわかる。
さらに、大きな部屋をゆっくりした足取りで巡回しながら一局一局を実によく見ていて、終局後に「この局面の、この手が」とサラサラ並べ直して指摘なさる。
頭の中はどうなってんのかな、ダテにプロ九段ではないのね。

I先生は大学で僕と同学部の三年先輩にあたる。共通の知り合いもあることが最近分かったが、これらは余談。ともかく彼の人柄と配慮で教室が和やかに保たれている次第。
アシスタントの若い女性達の存在が花を添えるかに見えて、その正体は元・全日本女子アマチャンピオンを含むツワモノ揃い、空気はピンと締まっている。

で、2年前のこと。
まずは自分の棋力を申告するのに困った。
免状は六段持ってますなんて、言えたもんじゃない。何しろ紙上の勉強だけで、外で打ったことは皆無なんだから。
「アマ二段」と称する囲碁ソフトとコンピュータ上で勝ったり負けたりだったので、「たぶん二段ぐらい」と申告したのを家族は「ずる~」とからかうが、自分では「どこが二段ですか」とバカにされないか戦々恐々だった。

申告を踏まえ、まずは教室で現に二段で打っている人と対局。
結果は運良く勝たせてもらい、手順も良く覚えているが、それより何より忘れられないこと。
何と、手が震えて止らないのである。
途中、石を盤上に置くにも不自由し、アゲハマを取り上げるのはもっと難渋。
この自分が緊張しまくっていたのだ。

これには実に驚いた。
人前で話すというようなことなら、聞き手が500人いようが1000人いようがビビるもんではない。
加齢と共に面皮はいっそう厚くなり、「アガるって、どういうこと?」みたいな日常とは別人のごとく、手は震える、動悸は止らない、何を考えてどこに打ってるんだかわからない。
大石を召し捕って勝負が決まった後は、初めて人を斬った土方歳三もかくやと思われる、殺気だった身震い・・・

そうか、これこそ家人が対局を勧めてくれた理由だったのだ。
尾崎さん向けに、そっち方面のジャーゴンで表現するなら、僕って兄弟葛藤が克服できてないんです。
背景はいろいろあるが要はケンカ下手で。
対決を回避するか、金網デスマッチにしてしまうか、ほどほどそこそこのケンカがヘタクソなのだ。
ほどほどのケンカは、創造的なコミュニケーションの一部ですからね~

囲碁は「盤上の格闘技」などと申しまして、要はケンカという一面がある。
一面であって全面ではないのはもちろんのこと。王様を取るか取られるかグレーゾーンのない将棋に比べ、地合いの大小で勝負を決める碁の場合は、勝ち負けの程度や質に逃げ道を見出すことも(少なくともアマの場合は)やりやすい。
それでもケンカはケンカ、そして棋力の拮抗した仲間内では、ケンカの半分は負けに終わるのが当然。

ケンカに慣れ、負けることに慣れなさい。
わが弱点を知る人の、有り難い配慮だったのでした。

それから2年。
この間72局打って40勝26敗6引き分け(引き分けというのは、時間内に打ち終わらずI先生らによる判定で「形勢不明」とされたもの)。
今は五段で打たせてもらっているが、実力はたぶん四段半ぐらい。
まる二年経つ頃、ようやく手は震えなくなり、負けた碁こそ勉強になることが実感として分かってきた。

負けるよりは勝った方が確かに気持ちは良いのだが、でも勝ち負けじゃないのです。
棋理に適った碁は美しい。
棋理に適った碁を美しく打ちたい。

ついでに気恥ずかしさを抑えて言うなら、碁を打ちながら人生について学べるようになりたいのだ。
碁には性格も表れれば、その時の精神状態も反映される。
そして碁盤は宇宙なんですから。

*****

この前の土曜日は、Kさんと打って引き分けた。
Kさんは教室で、たぶん3番目に強い。若い頃は相当熱心に勉強したのだろう。
そのKさんの隙を咎めて急所を一撃、仕留めたかに見えたが、長考の末みごとにしのがれた。
さすがの工夫、陽動に乗った自分が未熟でした。

ああ、楽しかった!

今日は何の日?クラーク博士の日/お雇い外国人のこと

2013-04-16 06:53:26 | 日記
ラジオ体操の後そのまま聞き流していると、6時50分頃から「今日は何の日」のコーナーになる。
今日、4月16日は札幌農学校で教えていたクラーク博士が離日した日だって。
それが明治十年(1877年)、つまり西南戦争の年であり『丁丑公論』が書かれた年だ。
見送りに来た学生達に対して、"Boys, be ambitious!" の例の言葉が博士から語られた。

「少年(ら)よ、大志を抱け」と訳したのは誰だろう。
時代を反映し、歯切れ良く印象に残る名訳だが、他にもいろいろな訳し方がありそうだ。
ambitious は「野心的」ということだよね、「小さくなるなよ、でっかいことやろうぜ」という感じか。
boys という呼びかけも、かしこまらず親しみのこもったもので、「おい、みんな」ぐいらいの語感がある。
「みんな、でっかく生きようぜ!」

クラーク博士(1826-1886)はこの時51歳、一連のお雇い外国人の中では年齢の高い方である。
新島襄(大河ドラマ放映中の八重の将来の伴侶だね)の推薦で招聘され、わずか8ヶ月の滞在中に大きな足跡を残して去った。帰米後は事業が失敗するなど不遇であったらしい。59歳で心臓病のために他界したとある。

1877年のこの日、彼がどんな表情、どんな語調でこの言葉を発したか、見てみたいものだ。

*****

お雇い外国人という人々の尽力を抜きにして、日本の近代化を語ることはできない。
異文化の出会いとしても、きわめて面白い現象だと思う。

医学教育の基礎を置いたベルツ、大森貝塚の発見で知られるモース、ナウマン象やフォッサマグナの発見者であるナウマン(彼が信州を歩いていてフォッサマグナを発見する場面は、実に劇的で面白い)、日本の美術の紹介者ともなったフェノロサなどは大きなところ。
確か松山の子規博物館では、横浜あたりの港湾や鉄道の建設を指導したイギリス人建築家のことが紹介されていたが、名前が思い出せない。わが地元の東工大のキャンパス内を歩いていたら、その設立に貢献したドイツ人化学者の顕彰碑を見かけた。これも名前を忘れてしまった。
『坂の上の雲』には、メッケルがドイツから招かれて日本陸軍の指導にあたる場面があったね。
出身国はさまざまだが、打算を超えてこの若い国の出発に自身の夢を重ねて尽力する姿が共通しているようだ。メッケルは日露戦争開始にあたって、「日本陸軍の必勝を信ず」との個人的な祝電を母国から送ったという。当時の日独の利害とはまったく関係のないことだ。

誰か「お雇い外国人」という切り口で新書本ぐらいにまとめてくれないかな。きっと面白く啓発的なものが書けるだろうに・・・なんて言ってると、きっと勝沼さんが「先生、ありますよ、もう書かれてます」と教えてくれるんだ。

どうぞよろしく!