散日拾遺

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国民栄誉賞

2013-04-07 23:40:53 | 日記
昼、帰宅すると、自転車で先に着いた三男がBSで長嶋茂雄の特番を見ている。
そんな放送があることをどうやって感知するのか、この種の情報にはまったく抜け目がないのである。

デビュー戦、国鉄・金田正一に4打席4三振を喫した場面から、同じ年の日本シリーズで西鉄・稲尾和久に三連敗四連勝の離れ業を決められるまで昭和33年一年間の映像を中心に、長島本人のほか、稲尾、野村、川上らの後年のインタビューを重ねて構成した非常に面白い番組である。これら英雄達の互いに見るところが、見事にかみ合っているのが恐ろしいほどだが、そのことはとりあえず置く。(話し出したらキリがない!)

稲尾など故人のインタビューが含まれることから分かるとおり、番組そのものはかなり前に制作されており、長嶋の語り口にもよどみがない。今般の国民栄誉賞受賞を記念して再放送したものに間違いなく、問題はそのことだ。長嶋の国民栄誉賞は当然すぎることで、遅きに失したと言っても良い。引っかかるのは、松井秀喜の同時受賞の件で、これはどうなんだろうか。

国民栄誉賞は、表彰規定によれば「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」を目的とするのだそうだ。
松井が偉大な野球選手である(あった)ことに異論はないが、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があった」とまで言えるかどうか。また、仮にそう言えるとしても、長嶋と同列に扱うべき性質のことかどうか。

長嶋は、一個の社会現象だった。ホームランを打ちながら一塁ベースを踏み忘れてアウトになり、あるいはホームランを打った嬉しさにスキップしながらホームインする底抜けの明るさに、あの時代の日本人が挙げて夢中になったのだ。「巨人には勝たせたくないが、ONには打ってほしい」という面倒なファンが、周囲に一人ならずいたものだ。前述の表彰規定はまるで長嶋を想定して書かれたもののようではないか。

僕は個人的には長嶋よりも王のファンだったが、規定を素直に読むなら長嶋の受賞が先であるべきだったと思う。むろん、長嶋は(あるいはONは)、彼らをとりまく輝かしいライバル達 ~ 金田・稲尾・野村・村山・江夏らの象徴でもあったわけだ。

「国民」と「社会」に対する影響力としては、松井はONよりも遥かに小さいよ。ケタが違うと言っても良い。それは彼の責任ではなく時代の空気の違いによるものだし、野球そのものの意味合いと重みがまったく違っていたのだ。
ケチをつけるようなことをあまり言いたくはないが、この辺を甘く判断して賞を出し過ぎると、賞のありがたみが減って意味がなくなってしまうのがつまらない。松井の功績を称えるには、いくらでも別のやり方があるはずなので。

ついでにいうなら、相撲界の国民栄誉賞第一号が千代の富士で、大鵬が没後にようやく第二号として受賞したというのは、上と同じ意味で逆転していると思う。問題は記録ではないのだから。

もひとつついでに、日米両方の球界で活躍したことが日本人の希望になったというのなら、真っ先に顕彰すべきは野茂英雄だ。彼こそ本当に偉かったよ。

泥をこねて息を吹き入れ

2013-04-07 00:08:34 | 日記
朝、CSの中高生礼拝で説教。
聖書箇所は創世記2章、人間の創造のくだり。
「しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

湧き水で潤された土をこねて人形(ひとがた)を造る、何のことはない、泥遊びである。
泥を汚いと思うのは大人の分別で、子どもは例外もなく泥遊びを喜ぶものだ。男の子も女の子もない、泥ダンゴをこねて得意げにプレゼントしてくれる。泥を手でこねる感触が良いのか、泥の可塑性が楽しいのか、ともかく楽しんでいる。

粘土細工は泥遊びから派生したものだろうが、これを精神科のリハビリなどに用いることの効用を、確か中井久夫が書いていた。急性期の統合失調症などでは芸術療法も一般に安全とはいえず、描画という作業ですら再燃促進的に作用する場合がある。そんな場合でも粘土はかなり安全性が高いというのである。退行を受けとめて吸収する柔らかさがあるのだろう。乳幼児の愛着形成過程において触覚刺激のもつ代替不能の重要性については、有名なアカゲザルの実験など多くのエビデンスがあることも、考え合わせてみたいところである。

その泥遊びに、主なる神がいそしんでいる。
無心にひたむきに泥をこね、自分に似たものを造ろうと懸命になっている。
旧約聖書全巻は、人格神の成長の物語ではないかとかねがね感じていたが、人の創造譚はまさに若い(というより幼い)神が、素朴な自己愛の命ずるままに自分に似たものをこねあげようとする、神聖な泥遊びの風景なのだ。それが前段。

後段で神は、できあがった人形の鼻から息を吹き込む。自分の息を吹き込むことによって相手のうちに息づかいを引き起こす、これまた素朴な同一化 identification の行為であろう。
長男が産科病棟から帰宅して、用意された小さな寝床に仰向けに手足を広げ、静かな春の空気の中でしっかりと寝息を立てていた姿を思い出す。生きるとは息することである。

人形の鼻から空気を吹き込もうとすれば、術者の口は人形の鼻に接触しないわけにはいかない。救急蘇生の mouth to mouth 手技の姿勢である。神が人形の鼻に穴をうがち、これを口で塞いで息を吹き込む。母親が風邪を引いた赤ん坊の鼻を口で吸うのと同じ姿、対称的な運動、これが後段。

幼子である神は、手ずから泥をこね、口ずから息を吹き入れ、人を生きるものとする。貴からずや。
新年度初日で20人近い生徒達が、珍しいほど集中して聞き入ってくれた。