散日拾遺

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国民栄誉賞(続き)

2013-04-10 09:16:43 | 日記
 国民栄誉賞と聞いてふと思ったのは、昨年シリアで殉職した(言葉が古いか)ジャーナリストの山本美香さんなどは、遺贈の対象にならないかということだった。
「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」
「明るい希望」は楽しいことばかりを通じて与えられる訳ではない。非業の死を遂げながらも、それによって滅ぼされない価値と信念のあることを示し、もって「希望」を遺してくれる人がある。後世はそうした先人の遺産によって豊かになるのではないか。
 そう書きかけたところでブレーキがかかったというのは、生前の山本さんの活動の背景や政治的文脈について疑問を呈するブログを見かけたからである。いささか口汚く、内容にも即同意するものではないが、自分の見落としがちなポイントを突くもののように感じた。少なくとも、そうしたことの検証を踏まえずに「栄誉を讃える」わけにはいかない。彼女の生き方/死に方が人としてみごとであるのとは、別の次元の問題である。こういうことがあるので、国民栄誉賞がスポーツ・文化功労賞に化けるのも致し方ないというところか。
(http://sgwse.dou-jin.com/社会/シリアで死んだ日本人女性記者は本当に賞賛に値する人物なのか?)

 発想を切り替えよう。「国民栄誉賞」という制度の発想を問い、「国民」とは何か、あるいは「国民」という単位で人を顕彰することの今日的意義を考えてみた方が面白くないか。これはまた大きな問題なので、項をあらためることにする。

 ところで、当ブログ訪問者の中には桜美林関係者が多いと思われるが、桜美林には、まさしくその死によって希望を伝えてくれた先輩があることを教わっているだろうか?
 藤崎るつ記さん。1983年4月2日(土)、ボランティア活動で訪れたフィリピンの浜辺で、溺れかかった友人二人を助けようと飛び込んだ。日立市の出身で泳ぎには自信があったというが、溺れる二人にしがみつかれて共に溺れてしまった。引き上げられた後、二人は息を吹き返したが、るつ記さんは帰らぬ人となった。
http://hitachi-church.justhpbs.jp/Mr_Kobayashi_messege_2012.pdf

 桜美林のキャンパス内には記念の植樹があり、ささやかな標が立てられている。ここ10年ほどの目覚ましい学内建設ラッシュで、周囲はすっかり様変わりした。
 彼女のことが語り継がれているかどうか。

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 北朝鮮のミサイルが発射されるとすれば、今日である可能性が高い、と新聞一面。どこを狙って、どこに落ちることだか。
 いっぽうでは、台湾との漁業交渉が合意に達したことが同じ一面に報道されている。領土問題は棚上げにし、漁業は共同管理のもとに置くという。これで良いのだ。竹島/独島もそうできれば良いし、そうするしかないのだが、分かっていてもできない。「国」の問題になると、人の知能は働きどころの半ば以上を奪われるのである。