昨日(4月7日)の朝刊一面に、「虐待の6割 孤立介護」の見出しがあった。「半数が困窮世帯」と付記されている。
一見して高齢者虐待の問題と分かるが、おそらく児童虐待についても同じ背景があるはずだ。「孤独な子育て」と「困窮」が母性を蝕むこと、診察室でいやというほど見聞きする。子育て支援が虐待予防でもある所以だ。
「だから絆を」というのはもっともな話で、自分も講演などではそのように言うけれども、これについて痛打を食らったことがある。
今年の初めまで診療上の付き合いがあったXさんという女性は、それこそ孤立に悩んできた人だった。人生においてどうにも孤独であることが、Xさんの主訴だったのである。
この人が言葉少なに語ったのは、「絆を語れるのは、強者だけだ」という意味のことだった。
絆を求めようにもそのための資源がなく、スキル・能力に乏しく、またそのような能力の乏しさ自体が「病気」の一面であるような者にとって、「絆」を連呼されることは痛みを増すものでしかないというのである。
言葉がなかった。
「連帯を求めて孤立を恐れず」とは、昔懐かしい学生運動のスローガン(安田砦の落首?)である。何と輝かしく、楽観的であることか。これもこのような形で、長嶋の時代を表現しているだろう。
後に天声人語がこれを「孤立が恐くて連帯できず」ともじった。(あるいは誰かのもじりを紹介したのだったか。)当時における「きょうびの若者」の心象風景を皮肉ったのだが、「当時」がいつだったのか既に覚えない。
これはすっかり慢性化・常態化したが、あるいは「孤立が恐くて連帯できない」のは、我らの社会の少なくとも数世紀にわたるデフォルトではなかったか。それかあらぬか「連帯」というアジビラ的な言葉はいつのまにか姿を消し(「鉄の男」レフ・ワレサが「連帯」の英雄であったことを眩しく思い出す)、代わって「絆」がおずおずと語られるようになった。
しかしそれすら強者しか口にし得ないものだと、Xさんは言ったのだ。
*****
今日4月8日は締切である。
昨夜は信州のY先生から、締切にわずかに遅れた『死生学入門』担当章の最後の原稿が届いた。他の二章同様、掛け値なしに素晴らしい力作である。Y先生はいずれ日本の死生学を背負って立つかと自分には思われる。
人に締切を守らせるのも、時として絆の力であろうか。Xさんは決して締切に遅れない人だったが、それを絆の力で易々と行うことができなかった。さぞ辛かったであろう。
今日は自分の番で、放送大学とは別の頼まれ原稿など、複数の締切日にあたっている(一部は過ぎている)。
先日、長男が送ってくれた写真をアップしておこう。ツイッターで拾ったというのだが、発信者のセンスにはまったく脱帽する。
さあ、お仕事ですよ。
一見して高齢者虐待の問題と分かるが、おそらく児童虐待についても同じ背景があるはずだ。「孤独な子育て」と「困窮」が母性を蝕むこと、診察室でいやというほど見聞きする。子育て支援が虐待予防でもある所以だ。
「だから絆を」というのはもっともな話で、自分も講演などではそのように言うけれども、これについて痛打を食らったことがある。
今年の初めまで診療上の付き合いがあったXさんという女性は、それこそ孤立に悩んできた人だった。人生においてどうにも孤独であることが、Xさんの主訴だったのである。
この人が言葉少なに語ったのは、「絆を語れるのは、強者だけだ」という意味のことだった。
絆を求めようにもそのための資源がなく、スキル・能力に乏しく、またそのような能力の乏しさ自体が「病気」の一面であるような者にとって、「絆」を連呼されることは痛みを増すものでしかないというのである。
言葉がなかった。
「連帯を求めて孤立を恐れず」とは、昔懐かしい学生運動のスローガン(安田砦の落首?)である。何と輝かしく、楽観的であることか。これもこのような形で、長嶋の時代を表現しているだろう。
後に天声人語がこれを「孤立が恐くて連帯できず」ともじった。(あるいは誰かのもじりを紹介したのだったか。)当時における「きょうびの若者」の心象風景を皮肉ったのだが、「当時」がいつだったのか既に覚えない。
これはすっかり慢性化・常態化したが、あるいは「孤立が恐くて連帯できない」のは、我らの社会の少なくとも数世紀にわたるデフォルトではなかったか。それかあらぬか「連帯」というアジビラ的な言葉はいつのまにか姿を消し(「鉄の男」レフ・ワレサが「連帯」の英雄であったことを眩しく思い出す)、代わって「絆」がおずおずと語られるようになった。
しかしそれすら強者しか口にし得ないものだと、Xさんは言ったのだ。
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今日4月8日は締切である。
昨夜は信州のY先生から、締切にわずかに遅れた『死生学入門』担当章の最後の原稿が届いた。他の二章同様、掛け値なしに素晴らしい力作である。Y先生はいずれ日本の死生学を背負って立つかと自分には思われる。
人に締切を守らせるのも、時として絆の力であろうか。Xさんは決して締切に遅れない人だったが、それを絆の力で易々と行うことができなかった。さぞ辛かったであろう。
今日は自分の番で、放送大学とは別の頼まれ原稿など、複数の締切日にあたっている(一部は過ぎている)。
先日、長男が送ってくれた写真をアップしておこう。ツイッターで拾ったというのだが、発信者のセンスにはまったく脱帽する。
さあ、お仕事ですよ。
