散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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負うた子らに教えられ/読書メモ 030 『ブッダ』 手塚治虫 by Kindle

2014-05-07 23:14:22 | 日記
2014年5月8日(水)

 月例の卒論ゼミには5人が出席、一人は仙台から。いつもながら、こちらが教わることが多い。

 治療における患者側の参与を表す言葉として、最近は「コンプライアンス」ではなく「アドヒアランス」を使うようになった。つまらない言い換えを、と、あまり気にも留めていなかったが、英英辞典から両語を示した学生があって・・・

 compliance: the practice of obeying rules or requests made by people in authority.

 adherence: the fact of behaving according to a particular rule, etc., or of following a particular set of beliefs, or a fixed way of doing.

 一発KOだ。"obey" と "authority" の二語を見ただけで、「コンプライアンス」などという言葉は二度と再び使えなくなる。いわゆる「パターナリズム(父権主義)」とぴったり適合したもので、自己決定とも患者参与とも折り合いようがない。
 「原語にあたれ」と人には言うのに、自分が怠っていたのではいけないね。

 また別の学生は「異文化看護」に関心をもち、レイニンガー(Leininger, M.M.)などから始めて地道に勉強を進めている。
 異文化(間)看護 ~ 今は intercultural よりも、cross-cultural あるいは transculturalが使われるらしい ~ と聞くと、それだけでこちらのイメージがある方向に走り出す。

 ナイチンゲールが看護史の扉を大きく開いたのは、クリミア戦争の戦場だ。彼女自身が、ナショナリズムとどう対峙し折り合いをつけていたか、浅学にして知らない。ただ、それを起用する側からは、全体戦争の時代に向けて「女性」という名の資源を動員し、それを戦闘遂行能力の向上に結びつけようとする動機が大であったに違いなく、看護本来の普遍的なヒューマニズムや赤十字的発想とは、至るところで齟齬・葛藤を来したはずだ。『八重の桜』の中で清国人捕虜の看護をめぐって、「敵兵の看護など無用」「そうは参りません」と八重がタンカを切る場面があったっけ。
 グローバリズムは似非のかけ声、現実には異文化間緊張が薄気味悪く高まる現状で、「異文化間看護」といったコンセプトは潜在的にきわめて重要だ。学生自身その方面の経験をもつ看護師で、指摘に大きく頷いているのが頼もしい。

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 読書メモにマンガですか?
 やや気後れするところがあるが、図書館に漫画コーナーができる時代である。そして僕は成長期にものすごくマンガに養われていて、その面では確かに時代の子だったのだ。アトムのシールでノートや下敷きを飾った世代、マンガは僕らの教養形成の必須の一部になりつつあった。

 もとは週刊『碁』、「棋士の本棚」コーナーでこれが取り上げられていたからだが、マンガも場所を食うからなと思っていたら、おあつらえ向きに Kindle 版が発売になった。この方が安いのでもある。
 5日の休みに試しに1巻読んでみたら止まらなくなり、昨日までに6巻、今日は7~14巻まで読み切ってしまった。

 ナザレのイエスの物語と、至るところで引き比べる気持ちが当然ある。
「あの高貴な人は、早く死にすぎたのだ」(『ツァラトゥストラ』)という言葉を思い出し、逆に悪魔の死への誘いに抗して長い生を遂げたブッダの苦悩を思ったりする。
 浅薄な感想などは、さしあたり控えておく。ブッダのこと、仏教のことは、とてもとても知りたいのだ。もちろん、マンガだけで十分とは思っていないよ。

  

大気と小気/副鼻腔の存在意義/姿勢が悪い!

2014-05-07 08:43:48 | 日記
2014年5月7日(水)

 久々にすっきり目覚めたのは、天気が好いからだ。
 気分が天気に左右されるということが、青年期にはまったく分からなかったが、ここ数年は否定のしようもない。それはそれで、「年取るのも悪いことばかりではない」の類に属する。自分の中の「気」が、天然の「大気」と連動しているのは当然で、大げさに言えばこのような形で、大宇宙の一部である自分を知るのだ。そう思ったら、環境保護にも本気にならずにはいられない。
 外なる環境が破壊されたら、内なる環境も必然的に滅びる、そのことを理屈で知るのではなく体感するわけだから。

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 きっかり1週間、Y先生処方の抗生物質を飲み続けて、副鼻腔炎はようやく完治したようである。そしたら今度はアレルギー鼻炎が戻ってきて、どうも今年は鼻で難渋する。
 それでというのも変だけど、副鼻腔というケッタイな構造がなぜ存在するか、本当のところはよく分かっていないのだ。
 骨のような支持器官は、中空にしたほうが力学的な強度は増し、外部からの衝撃に対する弾力性も増す。中空にすれば重量を減らすことができ、逆に言えば重量当たりの機能性は向上する。
 そうした整形外科学的な有用性は確かにあるというが、それが「must」というほどの説得力をもつのかどうか。その程度のことなら、副鼻腔をもたない変異型が存在しても構わないような気がする。
 この件の進化を適者生存説で説明するなら、「副鼻腔をもつ群のほうがもたない群よりも生存に有利であったため、前者が汎化した」と考えなければならない。そんな「たいそうな」問題だろうか?
 ここでもまた、個体レベルでの適者生存説は、説明力に大きな限界があると考えたくなる。「進化上の選択は、個人ではなく集団を単位として進行する」という今西の指摘は、もっともなもののように思われる。

 副鼻腔についていえば、共鳴箱としての働きによって「声」の響きを演出する役割が見逃せない。副鼻腔がなかったら、鼻づまりのようなくぐもった声しか出ないんだろう。マリア・カラスもパバロッティも、副鼻腔あればこそというわけだ。

 
 東京逓信病院・耳鼻科のページから拝借(正面図なので蝶形骨洞が描かれていない)
 http://www.hospital.japanpost.jp/tokyo/shinryo/jibi/fukubikuuen01.html

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 礼拝中ふと気づくんだが、基本姿勢の悪い人が多すぎる。
 僕も猫背になりがちで人のことは言えないんだが、いま言いたいのは足の配りのことである。
 祈祷や讃美歌の際は、両脚を左右対称・均等に踏ん張って、背を伸ばすのがジョーシキだ。
 そのジョーシキが相当崩れている。特に男性、みっともない!

 「気をつけ」も「左右対称」ではあるし、気持ちはそれに近いんだが、カカトを合わせて堅く立つとかえって腹に力が入らない。だから足は心もち開き、上半身は寛がせた方が朗読や歌には望ましい。
 ただしその際、一方の足に荷重して腰や背が捻じれるということは、機能的にも審美的にも(あるいは生理学的にも心理学的にも)ゼッタイにありえない。これは「きをつけ」に対する「やすめ」の姿勢であり、弛緩・休憩の体の構えだ。心からの祈りや腹からの声が、それで出ようはずがない。美しくないし、見苦しい。

 その「ありえない」姿勢で祈ったり歌ったりする姿が、これはハッキリ中年以下に多いのである。高齢の人々は、体が不自由なのでない限り、まずこんなダレた姿勢はとらないものだ。僕らあたりが変曲点かな。神学校では、ぜひきちんと指導していただきたいものだ。

 斎藤孝さん、最近は少々売れすぎだが、最初のヒット作は今も必読の一書である。
 『身体感覚を取り戻す ― 腰・ハラ文化の再生』NHKブックス 893

 美しい立ち姿が街角に満ちるようなら、それだけでひとつの文化と言えるに違いない。

 

府羅將相 路俠槐卿 ~ 千字文 062

2014-05-07 06:11:02 | 日記
2014年5月7日(水)

 1945年のこの日、ドイツが連合国軍に無条件降伏。その後の3か月、虚しく痛ましい道行きである。

◯ 府羅將相 路俠槐卿(フラ・ショウショウ ロキョウ・カイケイ)

 府は役所、羅はここでは「連ねる」の意味で、羅列の羅。「將相」は武・文の指導者らか。
 俠(夾)は「はさむ」の意、「峡谷」にしろ「狭い」にしろ、「夾」は「せまい」とか「せまくする/なる」とかに関わる字・部首なのだ。
 槐卿は三公九卿と呼ばれる高官たち。三公は太師・太傅・太保、九卿は(漢代の)九つの寺(官庁)の長であり、それぞれ太常寺・司農寺・大理寺・光禄寺・宗正寺・大府寺・大僕寺・鴻臚寺・衛尉寺だそうだ。眺めていると何となく想像されるものがある。
 「寺」は仏教伝来以前には、官庁の意味があったのか。

 個々の字母の意味とあわせ、ここでは「府」と「路」が文の主語であることに注意を引かれる。「府は將相を羅(つら)ね、路は槐卿を俠(はさ)む」で、こういうのは中国語と英語の似たところだろうか。

 役所には宰相や将軍がならび、都大路には道をはさんで公卿らがならぶ。

 続いてなぜか李注は、劉邦の部将・韓信が知略を用いて項羽を破ったことを語っている。
 漢代の「將」の原型ということだろうか。

***

 触発されて、項羽と劉邦の画像を眺めてみる。
 まず、項羽:

 面白いのがあった。これは中国語のブログだね。繁体が使われているから、香港か台湾の愛好家だろうか。ハンドルネーム小苗苗さん、2011年5月7日の画像である。
 ためしに Google の翻訳バーをクリックしてみたが、これは使い物にならない。かえって分からなくなる。ちょっと頑張って下記の「漢文」を追っていくと、内容はすべて理解できるから嬉しい。
 韓国の友人たち、何で漢字を捨てちゃうの?

 [原創]中華武館四大銅像之 ―― 項羽
 
 項羽(前232-前202)名籍,字羽,通常被稱作項羽,中國古代傑出軍事家及著名政治人物。中國軍事思想“勇戰”派代表人物,秦末起義軍領袖。漢族。下相(今江蘇宿遷)人。秦末隨項梁發動會稽起義,在前207年的決定性戰役巨鹿之戰中大破秦軍主力。秦亡後自立為西楚霸王,統治黃河及長江下游的梁、楚九郡。後在楚漢戰爭中為漢王劉邦所敗,在烏江(今安徽和縣)自刎而死。項羽的勇武古今無雙(古人對其有“羽之神勇,千古無二”的評價),他是中華數千年曆史上最為勇猛的將領,“霸王”一詞,專指項羽。
 http://clubbig5.mangocity.com/bbs/186411.html

 別のブログで日本人旅行者が撮影した「虞美人との分かれ」の銅像があるが、どうやら撮影禁止らしいので挙げないでおく。ミケランジェロのピエタと構造がそっくりなのに興味を引かれた。イエスの代わりに虞美人、マリアの代わりに項羽を配した形である。

 ついで劉邦:

 気のせいか、項羽ほどパッとしたものが見当たらない。
 偉人ではあるが、英雄とされる資格を惜しくも欠いたことが、こんな形で分かるのかもしれない。
 「山田養蜂場」さんのページから拝借する。

 
 http://abc0120.net/words01/abc2008080805.html